【11th Century Chronicle 1061-80年】

【11th Century Chronicle 1061-80年】

 

後三条天皇白河天皇

*1068.4.19/ 藤原氏と縁のうすい後三条天皇が即位する。

*1069.2.23/ 1045年(寛徳の荘園整理令)以後の新設の荘園を停止する。(延久の荘園整理令)

*1069閏10.11/ 荘園整理徹底のため、記録荘園券喫所(記録所)を設置する。

*1072.9.29/ 経済統制策の一環として、量衡の制を定める。(延久の宣旨升)

*1072.12.8/ 白河天皇に譲位し、後三条上皇として院庁を開き、翌年1月には院蔵人所を設ける。

*1073.5.7/ 後三条上皇(40)没。

*1076.3.-/山城 白河天皇が、石清水八幡宮行幸、翌4月には賀茂社行幸し、以後毎年の恒例とする。

*1077.12.18/ 白河天皇が洛東の地白河に法勝寺を建立、華やかに落慶供養が行われる。

(*1086.11.26/ 白河天皇が譲位し、「白河上皇」として院政を始める。)

 

後三条天皇と延久の善政

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 後一条天皇の皇太弟 敦良親王(のちの後朱雀天皇)の第2王子として生まれる。尊仁親王後三条天皇)は、摂関家との血縁がうすく、関白藤原頼通・教通兄弟には冷遇されていたが、摂関家と血のつながりが強い異母兄の後冷泉天皇に、皇位を継承する皇子がなく、治暦4(1068)年4月19日、「後三条天皇」として即位することになった。

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 後三条天皇は、頼通が引退した後の摂関家の政権独占打破を図り、反摂関家の中級貴族などを登用し、積極的に親政を行った。天皇桓武天皇を意識し、大内裏の再建と征夷の完遂を打ち出すとともに、積極的に荘園整理に手を付け、摂関家の力を削ぐ対策を推進した。

 

 後三条天皇の征夷方針を請け、陸奥源頼俊は延久2(1070)年に軍を編成し北上するが、遠征途上、藤原基通国司の印と国正倉の鍵を奪い逃走する事件が発生する。頼俊からは、大戦果を挙げたとの弁明が届くも、頼俊は召喚され解任された。

 結果的には津軽半島下北半島までが朝廷の支配下に入ったものの、実質的に清原軍の寄与が多く、清原貞衡が軍功を認められ鎮守府将軍に任じられ、清原氏の勢力が奥州全域におよぶことになり、のちの後三年の役につながる。(延久蝦夷合戦)

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 藤原頼通摂関家が効果的な荘園対策を打ち出せなかったなかで、後三条天皇は延久元(1069)年、画期的な延久の荘園整理令を発布し、続いて「記録荘園券喫所(記録所)」を設置するなど、徹底した対策で摂関家の経済基盤に大打撃を与えた。(延久の善政)

 延久5(1073)年、即位後4年にて第一皇子貞仁親王に譲位して、院庁を開き院蔵人所を設けるなど、院政を敷こうと図ったが、病に倒れ40歳で崩御する。退位は必ずしも院政を意図したものではなく、病によるものとする説もあり、たった4年と短かった後三条天皇の治世は、摂関政治から院政へ移行する過渡期としての役割とされる。

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白河天皇院政

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  貞仁親王白河天皇)は、尊仁親王後三条天皇)の第一皇子として生まれる。父尊仁親王は関白藤原頼通に冷遇されていたが、治暦4(1068)年父後三条天皇が即位すると、翌延久元(1069)年立太子、延久(1072)4年後三条から譲位され、20歳で白河天皇として即位する。

 延久5(1073)年の後三条上皇の病没後も、父同様に親政を目指し、荘園整理などに力を入れる。白河天皇は、関白藤原師実の養女賢子を中宮としていたので、摂関家外戚に戻るのを懸念した後三条上皇の遺志で、異母弟実仁親王を皇太弟としていたが、親王薨去した機会をとらえて、応徳3(1086)年11月28日、実子で8歳の善仁親王(第73代堀河天皇)を皇太子に立てて、即日譲位し上皇となった。

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 白河上皇として、幼帝を後見するために自ら政務を執り、いわゆる院政が出現したが、白河上皇は当初から強い権力を有していたわけではなかった。天皇在位中からの摂関であった藤原師実とは協調を図っており、親政期及び院政初期には摂関政治と大きな違いはなかった。

 嘉保3(1096)年には、皇女媞子内親王の病没を機に出家、法名を融観として法皇となり、深く仏道に帰依し、法勝寺などの多くの寺院や仏像をつくらせた。

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  堀河天皇が成人して関白も藤原師通に代わると、自ら政務を執ろうとする堀河天皇に師通も協力的であり、親政に近い状態が現出したが、承徳3(1099)年に師通が死去すると、摂関家天皇を補佐する人物に欠け、結果的には、出家した白河法皇の本格的な院政が成立する。

  さらに 嘉承2(1107)年堀河天皇崩御と、白河法皇の孫である幼帝鳥羽天皇の即位が契機となり、外戚による摂関家支配から、天皇父系の院政への権力移行が明白となった。白河法皇は、さらに曽孫の崇徳天皇の代まで、幼帝3代、43年間にわたり院政を敷き、大治4(1129)年77歳で崩御する。

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 政治的権限を掌握した白河法皇は、受領階級や武家出身の院近臣などを重用し専制的な政治を行った。特に人事権を完全に握り、朝政を取り仕切るとともに、院の警護に北面武士を創設するなど、新興勢力の武士の力も活用した。

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 「平家物語」には、白河法皇が天下三不如意(意のままにならぬもの)として、「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」と嘆いたという逸話があるが、これは逆に、往時の白河法皇の権勢の絶大さを示すものとして語られる。

 

(この時期の出来事)

*1061.11.22/ 関白藤原頼通70歳の祝いが、法成寺で行われる。

*1062.7.26/陸奥 前陸奥源頼義の要請を受け、出羽の清原武則が一万余の兵を率いて陸奥へ向かう。(前三年の役)

*1062.9.17/陸奥 源頼義が、安倍貞任を討つ。(前三年の役終結

*1063.2.27/ 安倍氏討伐の功により、源頼義が伊予守、息子義家が出羽守、清原武則鎮守府将軍となり、安倍氏は奥六郡に勢力を広げる。

*1067.12.5/ 藤原頼通が関白を辞任、政事の参与となる。

*1072.1.29/ 藤原頼通が出家する。

*1074.2.2/ 藤原頼通(83)没。

*1075.10.15/ 藤原頼通の子師実が、内覧をへて関白となる。

*1080.6.14/京都 祇園会(祇園祭)で、蔵人町で童部・雑色などが風流を競う。