【11th Century Chronicle 1081-1100年】

【11th Century Chronicle 1081-1100年】

 

後三年の役

*1083.9.-/陸奥 陸奥守兼鎮守府将軍源義家が赴任する。清原家衡と真衡の内紛が起こると、源義家は介入し家衡を攻めるが、その最中に真衡が急死する。(後三年の役の始まり)

*1085.-.-/陸奥 清原清衡が、清原家衡・武衡と争い、源義家は清衡を助ける。

*1087.11.14/出羽 源義家清原清衡が、清原家衡らのたてこもる金沢柵を攻略する。(後三年の役終結

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 11世紀の東北地方には出羽国清原氏陸奥国安倍氏という豪族が勢力を誇っていたが、陸奥国安倍氏は康平5(1062)年の前九年の役で滅亡する。この戦役で、陸奥源頼義の要請で参戦した清原氏清原武則は、戦功により鎮守府将軍に任命され、奥州に大勢力を展開することになった。

 

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 しかしやがてその清原氏に、複雑な内紛が起こる。清原氏の惣領は、武則から子の「武貞」さらに孫の「真衡」と引き継がれるが、武貞には養子の「清衡」と、真衡の異母弟になる「家衡」の二人の子が居た。

 「真衡」には嫡子がなかったが、養子として成衡を迎えて、さらに成衡の源頼義の血を引く妻を娶らせて、清原氏の本流を確立させようとしていた。永保3(1083)年、陸奥守として赴任した「源義家」を前にして、真衡は一族の長老吉彦秀武や清衡、家衡と対立し、その鎮圧戦の最中に急死する。

 

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 源義家の調停により、真衡の遺領は清衡・家衡2人の弟が分け合うこととなったが、この条件を不服とした家衡が清衡を攻撃する。「清衡」側には源義家が介入し与力する一方、「家衡」側には叔父の武衡が加勢した。

 応徳3(1086)年、清衡と義家は沼柵に籠もった家衡を攻撃するが、逆に家衡軍に打ち負かされる。駆けつけた叔父清原武衡とともに、家衡は難攻不落といわれる金沢柵に移るが、寛治元(1087)年、義家・清衡軍は金沢柵に拠った家衡・武衡軍を兵糧攻めにし、ついに金沢柵は陥落する。(後三年の役終結

 

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 源義家は、この戦役を私戦と見なされ、論功行賞も行われず、更には陸奥守を解任された。結果として義家は、私財から恩賞を出すことになる、このことが却って関東における源氏の名声を高めた。

 一方、清衡は清原氏の旧領すべてを手に入れることとなり、清衡はもとの藤原姓に復し、奥州清原氏が幕を閉じるとともに、のちの「奥州藤原氏」としての繁栄の祖となった。

 

◎僧徒(僧兵)の強訴

*1081.3.5/大和 興福寺の僧徒が多武峰を襲い、多武峰の僧徒が入京して強訴。

*1081.6.9/近江 延暦寺僧徒が園城寺を焼き討ち。9.15にも再度焼き討ちする。

*1082.10.17/紀伊 熊野の僧徒が神輿を奉じて入京、尾張国司による僧徒殺害を訴える。

*1087.12.29/豊前 宇佐神宮の神人らが、神輿を射た大宰大弐藤原実政を訴える。翌11月、実政は伊豆へ配流される。

*1092.3.6/山城 興福寺の僧徒が賀茂荘に乱入、民家200余戸を焼く。

*1093.8.26/奈良 興福寺僧徒が近江守高階為家の非報を強訴し、為家は土佐へ流される。

*1094.10.24/近江 延暦寺僧徒が、美濃守源義綱が僧徒を殺害したと入京し強訴。迎撃した源頼治が、のちに佐渡に流される。

*1100.6.8/近江 園城寺僧徒が、長吏(最高僧位)隆明の房舎を焼く。

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 平安時代後期から鎌倉・室町時代にかけて、僧形の武装集団が横行した。京都・奈良などの大寺院に所属する武装集団で、僧衆、悪僧などと呼ばれたが、のちに「僧兵」と呼称されるようになった。これに対し、神社に所属する武装集団は「神人(じにん)」と呼ばれた。

 藤原氏などの大貴族とともに、奈良や京都などの大寺院や神社は、寄進などで荘園などの私有地を拡大していった。そのような寺社は、社会が乱れるなかで、盗賊などから自主防衛する必要が生じるとともに、在地領主らの武装勢力や、国府などの権力を背景にする官吏など、さまざまな勢力と対抗する必要が生じてきた。

 

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 平安時代末期には強大な武力集団となり、興福寺延暦寺園城寺三井寺)、東大寺などの寺院を拠点として、寺院同士の勢力争いや、朝廷や摂関家に対して強訴をくりかえした。特に、興福寺延暦寺は「南都北嶺」と呼ばれ、宗教的権威を背景とする強訴は、僧兵の武力以上の威力をもった。

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 興福寺春日大社の神木、延暦寺日吉大社の神輿を担いで、洛中の内裏や院に押し掛けて強訴行い、白河法皇をして「心にままならぬもの、賀茂川の水、双六の賽、山法師(延暦寺の僧兵)」と嘆かしめた。

 

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 朝廷や院の権威に基づく公家権力、新興の武家権力、そして宗教的権威を押し出す寺社権力、これらが相互に補完しながらも争うという形が、平安時代末期から鎌倉・室町時代と続いたが、応仁の乱で荘園制が事実上崩壊すると、武士の現実的な武力が優先する戦国時代となってゆく。

 寺社勢力は戦国末期においても、織田信長豊臣秀吉などに激しく敵対し続けたが、信長の延暦寺焼き討ち、秀吉の刀狩令などで、約五百年間続いたさしもの寺社勢力も、日本の権力構造から消えることとなった。

 

(この時期の出来事)

*1086.11.26/ 白河天皇が8歳の皇子善任親王堀河天皇)に譲位し、上皇として院政を始める。(院政の開始)

*1090.1.22/紀伊 白河上皇が熊野参詣に出発する。

*1091.6.12/京都 源義家と弟義綱が争う。義家の入京が禁止され、田畑寄進も禁止される。

*1093.3.3/ 白河上皇が、諸国の荘園乱立の制止を内大臣藤原師通に諮問する。

*1096.6.-/京都 田楽が大流行する。(永長の大田楽)