【17th Century Chronicle 1661-65年】

【17th Century Chronicle 1661-65年】

 

水戸光圀

*1661.8.19/常陸 徳川光圀水戸藩主となる。

*1665.7.-/江戸 水戸藩徳川光圀が、明の学者朱舜水を招聘する。 

 

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 寛文1(1661)年8月、父徳川頼房の死去を受けて、世子徳川光圀水戸藩28万石の第二代藩主となった。初代藩主徳頼房の三男で、徳川家康の孫に当たる。頼房の葬儀に際しては、幕府の殉死禁止令に先んじて、当時の風習であった家臣の殉死を禁じたという。

 水戸藩主としては、様々な改革を手掛けた名君とされている。殉死の禁止以外にも、藩主就任直後の寛文2(1662)年には、水質の悪い水戸下町領民のために、笠原水道という飲用水用水道を設置した。 

 

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 さらに翌寛文3(1663)年(1663年)、領内の寺社改革に乗り出し、寺社の管理を徹底するとともに、神仏分離を進めた。また、寛文5(1965)年、明の儒学者朱舜水を招く。招聘目的の学校建設はかなわなかったが、儒学実学を結びつけるその学風は、水戸藩の学風の特徴となって引き継がれた。

 藩主時代晩年には蝦夷地に関心を示し、巨船快風丸を建造し、三度にわたって蝦夷地を探検させた。元禄3(1690)年には、養嗣子徳川綱條に藩主の地位を譲り、西山荘へ隠棲して権中納言に任じられる。 

 

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 徳川(水戸)光圀の業績として最も重要なものは、何より「大日本史」の編纂事業であろう。光圀は世子時代に「史記」を読み感銘を受け、以来学問に精励し史書編纂を志した。藩主就任以前の明暦3(1657)年、江戸水戸藩邸に光圀は修史のための史局を設ける。

 直前の明暦の大火で、多くの書籍・諸記録が失われ、幕府の学問所を担った林羅山が落胆のあまり死去、それを受けて修史事業を発起したとされる。光圀の藩主就任に伴い修史事業は次第に本格化し、 元禄3(1690)年、光圀は隠棲すると、本紀の完成を促進させ「百王本紀」として完成させる。

 

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 編纂事業は光圀の死後も、水戸藩の根幹事業として延々と続けられ、明治以後も水戸徳川家が継承、明治39(1906)年に至ってやっと完成される。「大日本史」の編纂を通じて形成された「水戸学」は、大義名分論に基づいた尊皇論で貫かれており、幕末の思想に大きな影響を与えた。

 

 

水戸黄門漫遊記

 

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 水戸黄門漫遊記といえば、水戸の御老公が、お供の助さん格さんを連れて諸国を漫遊、先々で遭遇する悪大名悪代官などの悪政を糺し、民百姓を助けるという物語が定番となっている。しかし、水戸藩主としての徳川光圀が、隠居後に白髭と頭巾姿で諸国を行脚したという史実はみられない。

 光圀は同時代から名君と評され、隠居後は領地内を巡視した話などから、庶民の間でも知名度は高かった。さらに、「大日本史」の編纂のため、資料収集のために家臣を諸国に派遣したことが加わって、諸国漫遊の話ができていったと考えられる。

 

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 水戸光圀は、藩主の座を養世子を譲って隠棲すると、権中納言の官位を賜ったが、この唐名である「黄門」をとって「水戸黄門」さまと呼ばれた。また、「大日本史」編纂のために設けられた彰考館を取り仕切る任にあたった家臣、佐々十宗淳(十竹、通称介三郎)と安積澹泊(通称覚兵衛)が「助さん格さん」となった。

 このような漫遊記が人口に膾炙するようになるのは、江戸の後期になってからである。まず、光圀が没して半世紀後の宝暦年間に、光圀の伝記資料を基にした実録小説「水戸黄門仁徳録」が成立し、さらに講談や歌舞伎でさまざまに変奏されて、庶民に浸透していった。 

 

 当初の俳人二人をお供に行脚する話は、明治の大阪の講釈師の手によって、家臣の佐々木助三郎(助さん)と渥美格之進(格さん)に入れ替えられて人気をはくした。また、「天下の副将軍」こと水戸光圀が、諸国を漫遊するとなっているが、副将軍職は幕府の職制にはない。

 水戸徳川家は御三家の一つで、参勤交代がなく江戸定府であった。そのため光圀も江戸詰めで、いざというときには将軍の代わりを務めることもあり得るとして、副将軍になぞえられたのだろうか。

 

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 このように講談や浪曲で庶民に親しまれた黄門様は、映画でも時代劇の定番として、戦前から戦後にかけて数十作も制作されている。戦後には、それまで悪役が多かった月形龍之介が主演したものがヒットして、月形の当たり役となった。

 テレビの連続ドラマとなると、毎回場面を変えて逸話を放映できるので重宝される。月形と同様に悪役が多かった東野英治郎を主演に起用した「水戸黄門」シリーズは人気をはくし、テレビ時代劇を代表する長寿番組となった。

 

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 このテレビシリーズはその後も、黄門様ほか助さん格さんなどの配役を入れ替えて何代も続いた。毎回の佳境で、三つ葉葵の印籠を示して「この紋所が目に入らぬか」と黄門の正体を明かすという定番シーンは、以外にもこの人気シリーズの中で発案されたものだという。

  

(この時期の出来事)

*1661.3.-/ 明暦の大火を記録した浅井了意の「むさしあぶみ」が刊行される。

*1661.閏8.-/陸奥 会津藩保科正之が、藩士の殉死を禁じる。

*1662.2.-/京都 伊藤仁斎が堀川に儒学塾古義堂を開く。

*1662.-.-/ 仮名草子作者浅井了意の「江戸名所記」が刊行される。

*1663.1.-/山城 宇治黄檗萬福寺法堂が完成し、隠元隆琦(隠元禅師)が入山する。

*1663.5.23/ 幕府は、武家諸法度を改定し、殉死の禁止などを追加する。

*1663.8.5/ 幕府が、旗本・御家人に「諸士法度」を出す。(武家諸法度は大名に向けてのもの)

*1664.4.28/ 幕府が諸大名に、領地の判物・朱印状を与える。(大名領地の認知)

*1665.7.13/ 幕府が、諸大名の証人制(大名が江戸に妻子を人質として差し出す制度)を廃止する。