【17th Century Chronicle 1616-20年】

【17th Century Chronicle 1616-20年】


◎第二代将軍徳川秀忠

*1616.4.17/駿河 徳川家康(75)が駿府城で没する。
*1616.6.-/ 幕府が、所領・石高に応じた軍役を定める。(元和軍役令)
*1616.7.5/江戸 将軍秀忠の弟松平忠輝(家康の6男)が、伊勢に配流される。
*1617.3.-/下野 日光東照宮社が竣工。4月17日の一周忌には、天海大僧正の主導のもと、家康の日光改葬が実現する。
*1618.8.10/江戸 熊本藩のお家騒動を、将軍秀忠が直々に裁定する。
*1619.6.2/安芸 関ケ原の戦いで家康方について勇猛を馳せた広島藩福島正則が、広島城無断修復の咎で所領49万石を没収の上津軽に転封される。
*1619.7.15/紀伊・安芸 改易された福島正則に代わって和歌山藩主浅野長晟を広島に移封、和歌山に家康10男の徳川頼宣が移り、紀伊御三家の初めとなる。
*1619.8.-/大坂 幕府は大坂を直轄地とし、伏見城台を廃止する。
*1620.6.18/京都 将軍秀忠の娘和子が入内し、後水尾天皇の女御となる。



 徳川秀忠は、徳川家康の三男として生まれる。長男信康は、父家康が同盟を結んでいた信長に疑われて、秀忠が誕生してから5ケ月後に父家康に命じられて切腹している。また次男の秀康は奥女中の子供として家康に冷遇され、結城氏の養子として結城秀康と名乗り、関ヶ原の戦いでは、家康に関東にとどまり上杉家など東国大名を牽制する大役を命じられ、その武勇を示したが、合戦の7年後に35歳という若さで亡くなった。

 四男の忠吉も、三河国松平家を継いで松平忠康として、舅の井伊直政の後見のもと、関ケ原では初陣を果し武勲を挙げ、美濃国清洲52万石を与えられて後継候補の一人であった。合戦の後、家康は秀康・秀忠・忠吉の三人の息子のうち、誰を後継者にすべきかを重臣を集めて尋ねた。結城秀康松平忠吉を推す声が高かったが、家康は平凡であるが実直で律儀な秀忠を選んだという。
 

 慶長8(1603)年2月12日、征夷大将軍に就いて幕府を開いた家康は、関ヶ原の戦いの論功行賞の名の下に、豊臣恩顧の大名を西国に移し、徳川家は東海・関東・南東北を完全に押さえた。名実ともに関東の政権を打ち立てた家康は、わずかその2年後の慶長10(1605)年、徳川家の世襲をしら示すために将軍職を秀忠に譲り、秀忠を第二代征夷大将軍とした。この時、家康63歳、秀忠27歳。

 将軍秀忠は江戸城に居住し、駿府城に住む大御所家康との間の二元政治体制になるが、本多正信らの補佐により、家康の意を汲んだ政治を執った。おもに秀忠は徳川家直轄領および譜代大名を統治し、家康は外様大名との折衝を担当した。
 

 秀忠は、あまり軍事的な能力に優れていたとは言えない。慶長5(1600)年の関ケ原の戦いでは、東海道を進む家康本隊に対して、中山道を進む別働隊を任されたが、進軍途中での信濃国上田城攻めに手間取り、9月15日の関ヶ原本戦に間に合わなかった。また大坂の役でも、総大将として参戦するも、豊臣家重臣大野治房によって本陣を脅かされるなどの失態を呈した。

 豊臣家滅亡後には、第二代将軍徳川秀忠として、大御所家康とともに武家諸法度禁中並公家諸法度などの制定につとめ、諸大名や朝廷の統制方針を明確にした。また大名統制を強化して、外様大名を改易にしたり、転封により外様を遠国に移転させ、要所には親藩譜代大名を配置するなど、徳川幕藩体制を確固たるものにしていった。
 


 元和2(1616)年に家康が死去した後は、将軍親政を開始し、幕府の中枢を酒井忠世土井利勝ら自身の側近で固め、自らリーダーシップを発揮する。大名統制でも、豊臣恩顧の福島正則外様大名を改易し、熊本藩家中の内紛を裁くなど、直々に判断を下した。さらに弟の松平忠輝、甥で娘婿でもある松平忠直、家康の側近本多正純など、例え身内でも、謀反の疑いや不服従咎めて改易・配流にしている。

 一方で、3人の弟徳川義直(九男)・徳川頼宣(十男)・徳川頼房(十一男)を、それぞれ尾張紀伊・水戸に配置し、御三家の始まりとして、徳川家による安定的な将軍継承の筋道を定めた。また朝廷に対しても、厳しい引き締めを行う一方で、娘の和子を後水尾天皇に入内させた。さらに、外国船寄港を平戸・長崎に限定させて鎖国政策の布石とした。

 元和9(1623)年6月、上洛し参内すると、将軍職を嫡男徳川家光に譲るが、秀忠は西の丸に移り、父家康に倣って隠居後も大御所として実権を握り続ける。幕政は本丸年寄と西の丸年寄の合議による二元政治のもとに置かれたが、寛永9(1632)年1月に秀忠が死去して二元政治は解消された。秀忠は家光に対して「これまで綱紀政令の確立に努めてきたが、いまだ全備を遂げないままである。我亡きのちは、憚る所なく改正し我が志を継ぐべし」と遺言したとされる。
 

 初代家康と三代目家光の間にはさまれ、影が薄いと言われる二代目将軍秀忠であるが、慶長10(1605)年から元和9(1623)年まで、18年間将軍職にあり、家光に将軍を譲ってからも、寛永9(1632)年に亡くなるまでの9年間は大御所として実権を持った。ただし元和2(1616)年に家康が死去するまでの11年間は、大御所家康が実質権限を維持していた。

 つまり父家康や子家光の治世と重なる部分が長く、秀忠独自の業績と見なされるものが少ない点が、秀忠の印象を薄くしていると言える。しかしながら、初代家康の方針を実直に受け継ぎ、その体制をより固めて、三代目家光に受け継いだことが、260年に及ぶ徳川の政権の基礎を築いたと評価できる。「平凡な二代目」こそが、秀忠の最大の個性であったということであろう。
 

(この時期の出来事)
*1616.6.7/ 家康・秀忠に仕えた重臣本多正信(79)没。
*1616.8.8/肥前 幕府は貿易独占を狙って、中国船以外の外国船の寄港地を平戸と長崎に限る。
*1618.1.1/江戸 幕府は江戸城大奥に法度を定める。男子禁制・暮れ六つが門限など。 
*1619.-.-/相模 天下の険箱根に関所が設置され、「入り鉄砲」と「出女」が厳しく取り締まらる。
*1620.8.26/陸奥 仙台藩伊達政宗に派遣された遣欧使節支倉常長が帰国する。
*1620.8.-/肥前 平戸のオランダ・イギリスの商館員が、ポルトガル・スペインがキリスト教布教を通じて侵略的植民政策を狙っていると訴える書状を幕府に提出。