【18th Century Chronicle 1761-65年】

【18th Century Chronicle 1761-65年】
 

◎平賀源内という奇才

*1761.-.-/ 高松藩が平賀源内の仕官差し止めを他藩へ触れる。(奉公構)

*1763.7.-/ 平賀源内が、博物学書「物類品隲(ひんしつ)」を刊行する。

*1763.11.-/ 平賀源内が、講義本「根南志具佐(ねなしぐさ)」と「風流志道軒伝」を刊行する。

*1763.-.-/ 江戸で、鰻の大蒲焼きが流行。土用の丑に鰻を食べる風習は平賀源内が仕掛けた説もある。

*1764.2.-/武蔵 平賀源内が猪俣村で、石綿を使った不燃布を製造し、火浣布と名付け、翌年「火浣布略説」を刊行。
 


 享保13(1728)年、平賀源内は讃岐高松藩の下級藩士の家に生まれ、寛延元(1748)年に家督を継ぐ。宝暦2(1752)年頃に長崎へ遊学し、本草学(植物学・薬草学)とオランダ語、医学、油絵などを学ぶ。帰藩後に藩の役目を辞し、妹の婿養子に家督を譲り、その後、大坂、京都で学び、さらに宝暦(1756)6年には江戸に出て、本草学、漢学を学ぶ。

 再度長崎に遊学して、鉱山の採掘や精錬の技術など実学を学び、伊豆では鉱床を発見して、本格的な物産博覧会を開催するなどで、幕府老中の田沼意次に着目されることになる。宝暦9(1759)年(1759年)、高松藩の家臣として再登用されるが、再び辞職を願い出て江戸に戻る。このとき高松藩から「仕官お構い(奉公構)」とされ、他藩他家への仕官が不可能となる。


 宝暦13(1763)年、博物学書「物類品隲(ひんしつ)」を刊行し、その広い学識を世に示し、鉱山開発など産業起業的な活動をし、石綿を利用した不燃布「火浣布」を開発するなど発明活動などもした。一方で文芸活動にも携わり、講義本「根南志具佐(ねなしぐさ)」や「風流志道軒伝」などを著し、戯作文の開祖とされる。

 また、「西洋婦人図」という西洋画を描くなど、日本西洋画の端緒を開く一方で、鈴木春信と共に浮世絵の振興に関わり、錦絵版画技術を改良するなどした。さてまた、日本初のCMソングの作詞作曲から広告コピーの作成まで、なんでも手掛けたという。土用の丑の日に鰻を食べる風習は、源内が発案との説もある。

 

 発明家としての平賀源内は、静電気発電装置エレキテルの発明が有名だが、これはオランダ製静電気発生装置を修理改善した程度だとされる。先の火浣布の開発以外にも、気球や電気の研究なども進めた。また、一説には竹とんぼの発明者ともいわれ、ヘリコプター原理の開発ともされるが、子供遊具としての竹とんぼは以前からあり、これはいくらなんでも買いかぶりすぎであろう。


 ただし、結局これらは実用的研究には一切結びついておらず、源内の活動は結局、趣味娯楽の域を出ていなかったのではないかという評価もある。平賀源内の移り気な性格がその一因ともされるが、一方で、エジソンらが活躍した時代とは異なり、資本主義産業構造や発明に対する権利保護制度などの欠けた、江戸封建時代の限界でもあるとも言える。
 

 平賀源内を、その多芸多才ゆえ、江戸時代のレオナルド・ダ・ヴィンチと例える説もある。レオナルド・ダ・ビンチは「モナリザ」を始めとするルネサンスの画家として、れっきとした評価が確立しており、比較するのもおかしいが、イタリア・ルネサンスには彼の多芸さを受け入れる状況が展開していたのも事実である。

 平賀源内の生きたこの江戸の時期には、残念ながら彼の発明・発案を受け入れる素地はなく、単に面白い奇人として扱われるしかなかったと言える。一方、ほぼ同時代人として、90歳で亡くなるまで絵一筋に追求し続けた葛飾北斎が、その世界で残した業績を見れば、北斎と源内の生涯を対比してみるのも面白い。
 

 そういう意味では、時代の社会情勢だけではなく、平賀源内自身の生き方・性格なども考えざるを得ない。かなりエキセントリックな性格が奇人と呼ばれる一因でもあろうが、感情の起伏が極端であったり、思い込んだら集中するが、熱が冷めるとすぐさま別のことに感心を移すところなどがうかがえる。

 現在の精神医学などからみれば、双極性障害だとかアスペルガー資質などと呼ばれるのかも知れない。しかしそのように指摘してみたところで、それは平賀源内という人物の一側面でしかない。天才的なひらめきと発想を持ちながら、俗世との関わりがうまくできない不器用な人物が、この時代に様々な足跡を残したという事実だけを知るだけで充分なのではあるまいか。

 

 安永8(1779)年、大名屋敷の修理を請け負った際、酔っていたため修理計画書を盗まれたと勘違い、大工の棟梁2人を殺傷し投獄される。投獄されて一か月後、評定をみないまま破傷風に感染し獄死したとされる。享年52。平賀源内の才能を高く評価していた杉田玄白らの手により、葬儀がとり行われた。

 後日、源内の墓所の脇に、杉田玄白の手で彼の死を惜しむ碑が建てられた。「嗟非常人、好非常事、行是非常、何死非常 」(ああ非常の人、非常の事を好み、行ひこれ非常、何ぞ非常に死するや)
 
 

(この時期の出来事)

*1761.12.12/信濃 上田藩領の農民が、年貢減免などを要求し強訴する。(上田騒動)

*1761.幕府は、米価引き上げの買米資金として、大坂の富商へ初の御用金を課す。

*1762.2.17/信濃 飯田藩が、千人講をつくって御用金への賦課を計画、これの農民が反対して打ち毀しを行う。(千人講騒動)

*1762.春/武蔵 池田新田が完成し、幕府の検地を受ける。

*1762.5.15/江戸 9代将軍徳川家重の次男で、10代将軍家治の異母弟、清水重好が10万石を賜わり、田安家・一橋家に次いで「御三卿」の一角を占める。

*1763.11.27/京都 後桜町天皇が即位、目下のところ最後の女性天皇である。

*1764.4.6/大坂 対馬藩の通事が、朝鮮通信使を殺害し、幕府不測の事態となる。

*1764.武蔵 幕府は、品川・板橋・千住の食売女(飯盛女)の人数増員を許可、これらの地域は事実上の簡易遊郭として大繁盛。

*1764.閏12.17/関東・信濃 中山道の増助郷に反対する一揆が起こる。(伝馬騒動)

*1765.5.-/ 柄井川柳の始めた万句合から、厳選された川柳集「誹風柳多留」が刊行される。