【1970年 三島事件の記憶】

【1970年 三島事件の記憶】
 

≪爆報!THEフライデー【三島由紀夫の妻…壮絶人生】≫ 2017.11.24
https://kakaku.com/tv/channel=6/programID=29386/episodeID=1116296/?fbclid=IwAR360zPmJABq8tivPBx2cgrJG5rrxyB0C7_Dop1zi7-yS-kFDQdfMh5uIws
 

 三島由紀夫の没後47年として、TBS系で上記の番組が放映された。残された三島由紀夫の妻に焦点をあてたドキュメンタリーで、それなりに興味深い内容だったが、三島のセクシュアリティーには触れないまま終始したのは不満が残った。つまり、事実上のバイセクシュアルだった三島由紀夫の妻として、いかにしてその痛みを耐え忍び、いかにして三島と家庭を守ったかという視点が欠落していたわけである。
 

 私自身の三島事件当日の記憶をたどって、次のような記述をしたことがある。


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*1970年11月25日「三島由紀夫、割腹自殺 自衛隊員に演説のあと」

 三島由紀夫が、自衛隊市ヶ谷駐屯地バルコニーで演説したあと自刃したことを知り、11月25日付けで雑記帳に、この事件への感想が簡単に記してあった。

 文学にはまり込んでいた時期だが、三島作品には距離を置いた読者だったと思う。派手な政治的演出にもかかわらず、自分の関心はまったく別のところにあって、芥川・太宰の自殺とも並べて「文学的な自殺」としてのみ捉えていた。

 それにしても思想と行動の問題として、大きな主題を受け取ったことはたしかであった。三島が東大全共闘の集会に飛び込んで、思想的にはまったく両極に属する両者にもかかわらず、ある種の共感を保持し得たのも、このあたりの主題に関係しているのであろう。
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 三島由紀夫の良き読者であったわけではないので、三島の全体像に触れるのは避けて来たが、今回、もののはずみで、少し立ち入ってみた。

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 どなたかから、三島自身の抱いていた「老いの恐怖」が指摘された。老いへの恐怖は、オスカー・ワイルドの「ドリアングレイの肖像画」に端的に表現されている。三島由紀夫はそれを絶賛していて、それに触発されて「仮面の告白」を書いたと考えられる。

 彼にとって生涯のテーマは「装う "disguise"」ということであった。彼の「観念的小説」そのものが "disguise"であったし、実生活でも「装う」ことが必然とされた。

 三島の妻の瑤子とともに、「健全な家庭」を演出することが、彼の「義務」でもあった。彼は生涯それを徹底し、妻もそれに合わせた。まさに、仮装パーティで、ダンスを踊る良きパートナーであることを二人は通した。



 三島由紀夫は「潮騒」で、アポロン的に制御されたギリシャ美を描き出した。それは作品としては完璧であったが、一方で、彼の中のディオニュソスはおとなしくしていられるわけがなかった。

 ディオニュソスは、アポロンのような均整を許さず、ダイナミックな破壊を要求する。それは「行為 "action"」を要請する。三島は、肉体を改造し、ボクシングに励み、まさにアクター "actor" にもチャレンジする。しかしそれは、誰が見ても "disguise"でしかなかった。


 やがて三島は、政治思想的な "action"に入れ込むようになる。それは「装い」を脱した「本来の行為性」であると、三島は信じ込んだ、いや、そう信じようとした。

 しかし誰が見ても「盾の会」など、オモチャの兵隊ゴッコでしかないし、三島自身にも明白であったが、それを知った上でも突き進むしかなかった。

 三島個人のセクシュアリティに、政治思想という公的行為を重ね合わせることによって、自身の分裂を隠蔽しようとした。彼自身、それを知りながら、見て見ぬふりを通した。


 それは決して三島の「肉体的な老い」ではなく、むしろ「精神の老い」であった。アポロン的な健全性という「観念」を維持しきれなくなったわけだが、それでディオニュソス的な「本来性」に立ち返ったわけでもない。


 三島自身が「金閣寺」で描きだした放火僧のように、美という「観念のオバケ」の前に圧倒された「精神の疲弊」でしかなかった。


 三島由紀夫が強いられた「装う」ということは、いうまでもなく彼の「バイ・セクシュアリティ」に促されている。それをストレートに表明することは、彼の育った境遇や時代が許さなかった。
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 三島と同年代ながら、まったく対極的な位置にあった作家吉行淳之介のエッセイの中で、次のような記述を読んだ記憶がある。

 戦後の混乱期、闇市で飲んだバクダンだかメチルだかにあたって、唯一無二の親友を亡くした若き詩人が、ノートに書きなぐった一節。「死にたい奴は死なせておけ、俺はこれから朝飯だ」

 戦後の混乱の中で生き抜くための切迫した生活感が反映されており、ここまできっぱり言い切れない曖昧な生活を送っていた我々は、次のようにつぶやき合うしかなかった。


>三島が自決した日の夕刻、当時の文学仲間だった友人が訪ねて来た。われわれは二人にしか通じない言葉で、西日が差し込む私の部屋でつぶやきあった。「こまったことになったな」「そうなんだよな」。たしか当日は小春日和で、その夕日だけは記憶に残っている。

(追補)
 三島は「仮面の告白」で、自分が生まれた時の産湯をつかっている情景の記憶を描写している。そんなことは100%ありえないのだが、その場に居合わせた縁者の話とかから、後日にそういうい記憶がインプットされることはあり得る。記憶というものはそういうもので、一つの記憶を何十年も記憶していることなどありえない。その後何度も反芻するなかで、記憶は変遷しているはずである。

 つまり記憶とは自らを欺くようにできている。ならば、「正直に記憶をそのまま描いた」などというのこそ、眉唾なのだ。三島は、心酔していたオスカー・ワイルドの「虚言の衰退」というエセーなど当然読んでいるはずで、フィクションとは文字通り作り事(嘘)であるが、それ故に現実以上にリアリティを持ちうる、と考えていたはず。

 「潮騒」は、古代ギリシャエーゲ海のイメージを想定して描いたと言われる。古代ギリシャの彫像の美を、瀬戸内海の小島の若者の褌姿にそれを形象しえたかどうかはともかく、三島はそれを信じて書いていたはず。「観念を実体化する」、それが三島の創作の源泉にあった。それは文学的リアリティの根本であって、きわめて正しい。しかし三島はそれだけでは満たされることはなかった。すなわち、自分の観念を自身の肉体にも適用しようとし、さらに現に生きている現実世界にも適用しようとした。

 「実現不可能であるからこそ創作で表現する」という地点に、もはや三島は立ち止まれなくなる。自身の観念(妄想、とも言える)を実現しようとする。これは倒錯性欲者が妄想を実現しようとするのと、さほど距離をもたない。かくして三島は、そのようなリアリズムを放擲して、遺作となる「豊饒の海」を完成する。その後市ヶ谷自衛隊での自刃になるのだが、この時点で三島は自ら信奉する陽明学の「知行合一」からははるかに離れた地点に至っていた。「知行合一」とは、正しい知が自らそれを実行するということであるが、三島のそれは「誤った知=妄想」でしかあり得なかった。