【19th Century Chronicle 1868年(M1)】

【19th Century Chronicle 1868年(M1)】
 

*旧1.3/京都 鳥羽・伏見で薩摩・長州藩兵と旧幕府軍が戦う(鳥羽伏見の戦い)。戊辰戦争が開始され、維新の戦乱は以後一年半に及ぶ。
 


 江戸幕府第15代将軍徳川慶喜は、京都二条城において、慶応3年10月14日、薩長ら討幕派の機先を制して「大政奉還」を奏上した。一方、討幕派の公家岩倉具視らの画策により、同日、薩摩藩長州藩に「討幕の密勅」が下されるという錯綜した事態となった。

 この時点では、朝廷内で実権を掌握していなかった討幕派公家たちは、慶応3年12月9日、薩摩・土佐などの討幕派の支援を受け、京都御所において「王政復古クーデター」を起こすとともに、ただちに「王政復古の大号令」を発した。これは、徳川慶喜の将軍職を解き江戸幕府を廃絶するとともに、旧来の摂政・関白を廃止し新たに総裁・議定・参与の三職をおくという、「新政府の樹立」の宣言であった。

 辞官納地を迫られた徳川慶喜は、一旦は恭順の意を示し、京都二条城を退去し大坂城に移ったが、慶喜の動きに不審をおぼえた薩摩藩は、開戦を策して江戸で挑発的な破壊活動を行った。これに対抗して、幕府側庄内藩による江戸薩摩藩邸焼き討ち事件が起こると、京都を掌握する討幕派に対して、ついに大阪城慶喜は幕軍の京都への出兵を命じた。
 


 「慶喜公上京の御先供」という名目で、旧幕府軍の主力は淀・伏見方面から鳥羽街道を北上、会津藩桑名藩新選組は、伏見奉行所を本拠地に伏見市街に展開した。これに対して薩摩藩を中心とした新政府軍は、城南宮周辺で東西に長い布陣を敷いて北上幕府軍への備えとした。

 旧暦3日の夕方、鳥羽街道竹田街道を北上してきた旧幕府軍と薩摩軍の前衛が接触し戦端が開かれ、伏見方面でも同時に戦闘が開始された。戦力は旧幕府側の1万5000に対し、新政府(薩長)側は5000弱にすぎなかったが、装備に勝る薩摩藩の大砲の威力になどにより、新政府軍側が優勢で、さらに土佐藩の参加に加えて、新政府側に朝廷から錦旗が与えられ、「賊軍」となった旧幕府軍は戦意を奪われ、各地で敗退した。
 

 数的に圧倒的な戦力を率いた幕府軍の将徳川慶喜は、戦力を温存する大坂城で総指揮をとり、各方面で戦況の帰趨も未だ定かでない6日夜、僅かな側近とともに、密かに幕府軍艦開陽丸で江戸に退却してしまった。総大将が逃亡したことにより旧幕府軍は継戦意欲を失い、新政府軍の長州軍が空になった大坂城を接収し、京坂一帯は新政府軍の支配下となった。



 この状況を見て、海外列強は局外中立を宣言し、旧幕府は日本政府としての地位を失った。そして旧暦2月には、「錦の御旗」を掲げた「官軍」の東征が開始される。その後、西郷・勝会談による「江戸無血開城」、上野彰義隊の「上野戦争」、「北陸・東北戦争」、最後に函館五稜郭の「函館戦争」へと続く、一年半に及ぶ「戊辰戦争」が展開されることになる。
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$『鳥羽伏見の戦い―幕府の命運を決した四日間』 (中公新書/2010/野口武彦著)
http://www.chuko.co.jp/shinsho/2010/01/102040.html
 
 

*旧3.14/京都 明治天皇が「五箇条の御誓文」を天地神明に誓約。実質的には、維新政府による基本方針の宣言となる。


一、広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ
一、上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ
一、官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス
一、旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ
一、智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ
 
 「五箇条の御誓文」は、慶応4年3月14日(1868年4月6日)、明治天皇が天地神明に誓約するという形式で、公卿や諸侯などに示した明治政府の基本方針であり、正式名称は「御誓文」とされる。鳥羽伏見の戦いの決着がつき、新政府の東征軍が江戸に迫るなか、京都では明治天皇の裁可を受け、「五箇条の御誓文」が公示された。西郷と勝の会談で「江戸城無血開城」が決まるのと同日であった。
 


 翌日、京都御所の紫宸殿に設えられた祭壇の前で、「天神地祇御誓祭」と称する儀式が執り行われた。明治天皇出御のもと、副総裁三条実美天皇に代わって神前で「御誓文」を奉読する形で示された。

 御誓文は太政官日誌(官報の前身)をもって一般に布告された。「御誓文」は、あくまで公卿や諸侯など旧政権周辺に対して、朝廷の威光と天皇親政の国是を知らしめすのが主眼であり、太政官日誌は庶民一般の目に行き渡るのもではなかった。一方で一般国民に対しては、旧来の儒教道徳を強調した「五榜の掲示」が示され、徒党・強訴の禁止やキリスト教の厳禁など、旧幕府の政策を継承した訓示が示された。

 

 明治新政府は、大政奉還後の発足当初から「公議」を標榜し、その具体的方策としての国是を模索していた。慶応4年1月、福井藩出身参与由利公正が、「議事之体大意」五箇条を起案し、次いで土佐藩出身参与福岡孝弟が修正したが、封建的な残滓を残し、王政復古の理念にも反するという批判もあり、そのままになっていた。


 そこで、参与で総裁局顧問木戸孝允は、天皇が、神前で公卿諸侯を率いて誓いの文言を述べ、その場で全員が署名するという形式を提案し、天皇親政を広く知らしめすとして、これが採用されることとなった。木戸は、福岡案の封建的残滓を取り払い、大幅に変更を加えることで、より普遍的な内容にした。この木戸による五箇条が、「御誓文」が明治天皇の裁可を受け、最終案とされた。
 

 慶応4年閏4月21日(1868年6月11日)には、御誓文をより具体化した「政体書」が公布され、明治新政府の政治体制が定められた。さらに、明治8年(1875年)の立憲政体の詔書では、「誓文の意を拡充して…漸次に国家立憲の政体を立て」と宣言され、御誓文は立憲政治の実現に向けての出発点として位置付けられた。

 その後の「自由民権運動」でも、「御誓文は立憲政治の実現を公約したもの」とされ、議会政治実現の根拠とされた。また、敗戦後の昭和天皇の、いわゆる人間宣言においては、御誓文の全文が引用され、日本的な民主主義の萌芽として位置づける試みも見られた。
 


 この後、「明治」と改元され、明治天皇の東京行幸と言う形で「東京遷都」が行われ、順次「明治時代」としての国体が整えられてゆくことになる。
 
$『『五箇条の御誓文を読む』(2011/川田敬一著)
 大日本帝国憲法制定以前の国家の基本原理というべき「五箇条の御誓文」。現代においても必要な考え方を示し、日本人の国家観をもあらわしているその内容を紹介し、時代背景などを解説する。
https://honto.jp/netstore/pd-book.html?prdid=03367392
 
 

*旧9.22/福島 会津若松城が、一ヶ月に及ぶ籠城の末に、ついに落城する(会津戦争)。これにより東北戦争は終結し、旧幕軍の抵抗は函館五稜郭を残すのみとなった。
 


 慶応4年3月、江戸城無血開城され、徳川慶喜が水戸に謹慎すると、薩摩藩長州藩を中心とした新政府軍の矛先は、残された北越・奥羽・東北へと向かう。中でも会津藩主「松平容保」は、京都守護職に任ぜられ、新撰組を配下にして尊皇攘夷派志士の苛酷な取り締まりを推進し、京都御所禁門の変においても幕府方の中核として尊皇攘夷派の排除を行った。

 鳥羽伏見の戦い幕府軍が破れ、徳川慶喜と共に江戸に退去した容保は、慶喜の恭順に従って、自らも恭順の姿勢を示すため会津で謹慎するが、藩内では主戦論が支配的であり、新政府側でも会津藩の恭順姿勢を信用していなかった。かくして、薩摩藩長州藩を中心とした新政府軍の矛先は、佐幕派の重鎮としての容保に向けられ、会津藩の攻略に着手する。

 会津松平家会津藩は、徳川家康の孫「保科正之」を祖とし、徳川一門として家格は親藩・御家門、家紋として会津葵を許される幕府直系の藩であった。しかし、鳥羽伏見の戦い幕府軍側が破れ、朝敵とされた松平容保は、京で尊皇派として暗躍した薩摩長州勢にとっては宿敵であり、会津討伐の新政府軍の士気は高かった。
 

 慶応4年(1868年)1月、新政府は仙台藩米沢藩をはじめとする東北の雄藩に会津藩追討を命じた。3月には、新政府奥羽鎮撫総督九条道孝が京都をたって、23日仙台に入った。会津追討を命じられた仙台藩米沢藩など東北諸藩は、会津藩に同情的で、会津藩赦免の嘆願を行う一方、「奥羽越列藩同盟」を結成して結束を強めた。そして会津藩は、奥羽越列藩同盟の支援を受け、同じく追討令を下された庄内藩会庄同盟を結ぶなどして新政府軍に対抗した。

 慶応4年閏4月20日奥州街道沿いの要地白河において「白河口の戦い」の戦端を開かれた。会津藩兵を含む奥羽越列藩同盟軍は、南東北の要地白河小峰城白河城)を巡って争ったが、白河より北の中通り浜通りが新政府軍の支配下となると、列藩同盟軍は7月14日を最後に撤退した。
 


 現在の福島県は東西に幅広く伸びており、それを南北に走る複数の山脈が分断している。太平洋海岸側からそれぞれ、「浜通り」「中通り」「会津」と呼ばれ、「白河口の戦い」は中通りの南端入り口で戦われた。並行して、中通り中部では「二本松の戦い」、そして浜通り南部では「磐城の戦い」が争われた。これらの戦いが新政府軍の勝利に終わると、いよいよ会津若松城の攻防戦となる。

 新政府軍は、二本松から若松への進撃ルートを、脇街道で手薄な母成峠を選んだ。慶応4年8月21日、新政府軍は「母成峠の戦い」で旧幕府軍を破り、8月23日朝に若松城下に突入した。新政府軍の電撃的な侵攻の前に、各方面に守備隊を送っていた会津藩は虚を衝かれ、予備兵力であった白虎隊までも投入するがあえなく敗れた。このとき、白虎隊士が飯盛山で自刃するなどの悲話も発生した。


 会津藩会津若松城に篭城して抵抗し、城外での遊撃戦も行ったが、9月に入ると頼みとしていた米沢藩をはじめとする同盟諸藩の降伏が相次いだ。孤立した会津藩明治元年9月22、新政府軍に降伏した。同盟諸藩で最後まで抵抗した庄内藩が降伏したのはその2日後である。旧幕府軍の残存兵力は会津を離れ、仙台で榎本武揚と合流し、蝦夷地(北海道)へ向かった(箱館戦争)。
 

 会津藩士の、幕府や藩主への忠誠と会津戦争での奮闘はよく語られるが、領民に対して苛酷な税金を課していたため、農民や町人の忠誠度は低くかった。幕府軍の侵攻に備えて、農民や町人らは徴用され武器を渡されても、士気は低く逃走者が後を絶たなかった。


 とくに、軍資金確保を名目に資産のほとんどを徴発された会津の町人たちは、征服者である新政府軍を「官軍様」と呼び歓迎し、会津藩士を「会賊」と呼びすてにしたという。会津藩が降伏すると、藩の重税に苦しんでいた農民たちは「ヤーヤー一揆」(会津世直し一揆)を起こし、征服した新政府軍もそれを見逃した。


$『戊辰落日』(綱淵謙錠著/1978)
https://www.amazon.co.jp/%E6%88%8A%E8%BE%B0%E8%90%BD%E6%97%A5-%E4%B8%8A-%E4%B8%8B-1978%E5%B9%B4-%E7%B6%B1%E6%B7%B5-%E8%AC%99%E9%8C%A0/dp/B000J8QCOG

 

NHK大河ドラマ『八重の桜』
http://www6.nhk.or.jp/drama/pastprog/detail.html?i=taiga52



〇この年の出来事
*旧3.14/東京 勝海舟西郷隆盛の会談で、間一髪で戦乱回避。江戸城開場が決定される。

*旧9.8 「明治」と改元され、一世一元の制が定められる。1868年1月25日(旧暦慶応4年1月1日/明治元年1月1日)にさかのぼって適用される。太陽暦新暦)の使用は1973年明治6年より。

*旧9.20/京都 天皇が東京行幸のために京都を出発する。