24【20世紀の記憶 1922(T11)年】

24【20世紀の記憶 1922(T11)年】(ref.20世紀の全記録)
 

*2.1/日 元老山縣有朋、大往生す。最後の長州閥長老として、明治政界に大きな影響力を保持した。

 

 山縣有朋は、長州藩足軽より低い身分の家に生まれたが、吉田松陰松下村塾に学び、高杉晋作奇兵隊に参加するなどして頭角をあらわした。高杉は奇兵隊で、武士、平民にとらわれず人材を登用したため、低い身分であった伊藤や山縣などが世に出るきっかけを与えた。


 明治政府では軍政家として手腕をふるい、日本陸軍の基礎を築いて「国軍の父」とも称されるようになった。官僚制度の確立にも精力を傾け、門閥などに偏らないように文官試験制度を創設した。かくして山縣有朋は、軍部・政官界に幅広い人脈を築き、良くも悪くも「山県閥」などと称された。
 


 二度にわたって内閣を組織し、退いた後も首相選定の主導権を握るなど、「元老中の元老」と呼ばれ、晩年にいたるまで、軍および政官界に隠然たる影響力を保ち続けた。その分、当時の国民、政界、皇室からは不人気であり、大正デモクラシーや政党内閣の成立など、民主的な気運の高揚する中、政党嫌いであった山縣は、次第に時代の変化についていけなくなっていった。

 大正11年2月、85歳で亡くなると、山縣有朋は「国葬」をもって遇されたが、その前月に病没した大隈重信の「国民葬」に多数の民衆が集まったのと比較すると、山縣の葬儀は閑散としたものだったという。山縣の国政への寄与に比して、その人気の無さは際立っている。人気には、人と為りなど多くの要因がからまるが、山縣の場合、民主化に抑圧的だったことや、汚職の嫌疑などとともに、好色だが明朗だったライバル伊藤博文と対照的に、その実直かつ陰湿な性格もあるかも知れない。

 

 山縣は、「超然主義」をかかげ、自由民権運動を抑圧し、政党政治を排除した。また、明治国家の軍制を確立したが、それが後の軍国主義を準備したともされる。しかし、未成熟な国民をして、急速な民主化が国体の不安定をもたらすとして、保守主義に徹したことは、経済的には急成長をとげる明治・大正の不安定化に、バランスを取り戻すアンカーとして機能したとも言える。また、軍事と政界の双方に広い人脈をもった山縣の死によって、以後、政と軍をつなぐ人物が居なくなったことが、軍事偏重に突き進む一因でもあったとされる。

 
 

$『山縣有朋』(岡義武著/岩波新書
https://www.iwanami.co.jp/book/b267290.html
 


*10.28/伊 ムッソリーニがローマに進撃して制圧。ファシスタ党政権を成立させる。
 


 ベニート・ムッソリーニは、第一次世界大戦前からイタリア社会党に所属し、機関誌編集長として活動したが、第一次大戦に際して積極参戦を主張し除名される。ムッソリーニは志願して従軍し有能な戦士として闘ったが、瀕死の重傷を負って終戦をむかえる。1919年3月、ミラノで、自身と同じ復員軍人や旧参戦論者を中心とする新たな政党「イタリア戦闘者ファッシ(戦闘ファッシ)」を設立するが、社会主義的残滓を捨てられず、一般民衆の支持を得ることはできなかった。

 やがてムッソリーニは、綱領から社会主義的な表現を一掃、民族主義を前面に出し、愛国心・戦争礼賛・偉大な国家イタリア、といった情緒的な表現であおり、反議会主義、反社会主義を鮮明にした。ムッソリーニの主張は、戦後に頻発した社会主義者によるストライキや労働運動に、強い不安を抱いていた保守層の支持を集めた。

 

 北イタリアで復員兵などによって「襲撃隊」と呼ばれる民兵祖組織が作られ、社会主義者に暴力的に対抗するようになると、ムッソリーニは襲撃隊を実行行動組織として傘下に収めた。1921年10月、「国家ファシスト党(PNF)」を結成、ファシスト運動を政党化し、また各地の実力行動隊も党の私兵組織として糾合され、「黒シャツ隊」と呼ばれる様になった。


 ムッソリーニ民族主義国家主義を掲げる政権を打ち立てるべくクーデターの準備を始め、1922年10月28日に黒シャツ隊を中心としたファシスト党員4万人がローマ進軍を決行した。ムッソリーニ自身はミラノで事態を見守っていたが、国王ビットーリオ・エマヌエーレ3世は、無策のルイージ・ファクタ政権をみかぎり、ムッソリーニをローマに召喚し、組閣を命じた。こうしてムッソリーニは政権を奪取することに成功し、39歳でイタリア史上最年少の首相となった。
 

 ムッソリーニが創設した「ファシスト党」は、その語源から「結束党」などと訳されるが、そこから「ファシズム」という語が派生する。ファシズムというと「全体主義」とほぼ同義で使われるが、本来は一意的に規定しがたい要素を含んでいた。ヒトラーナチスファシズムの代表のように受取られているが、ムッソリーニファシズムとは、かなり違っている。

 ムッソリーニは、古代ローマの系譜をうけて「イタリア民族主義」を結束の中心に置いたが、ヒトラーは「アーリア人種主義」という怪しげな概念を持出した。このようなヒトラーの脳内に生じた妄想が、優勢人種という架空の概念を際立させるために、劣勢人種ユダヤ人という概念を作り出し、その殲滅をはかった。
 

 ムッソリーニとってはことは簡単で、「イタリア民族」として結束して事態にあたろうというだけであった。そしてヒトラーが、古代ローマという基盤をもたないことでコンプレックスに突き動かされていると見抜いていた。ヒトラーを、まったく信用していなかったはずである。


 絵描きくずれの粗野な浮浪者だったヒトラーに比べて、ムッソリーニは、その容貌からくるイメージに反して、意外にも深いインテリジェンスをもっていた。師範学校を首席卒業して、イタリア社会党では機関誌編集長として頭角をあらわした。当時のドイツ哲学やフランス哲学を自学し、ドイツ語、フランス語など語学にも堪能で、フランス語教師として雇用されると、歴史学と国語・地理学も担当したという。
 

 ムッソリーニは演説でも大衆を引き付けたが、絶叫し自己陶酔するヒトラーとは対極的に、愛国心を胸に秘めながら、理路整然と理知的に語り、それでも民衆を熱狂させた。また、国家を統合するために、ファシスト党が全権を握る必要があると考えたが、自身が独裁者になるつもりはなかったという。しかし、ヒトラーが、政権奪取に利用した突撃隊を粛清したのには否定的な見解を漏らし、苛酷な粛清を嫌った。それは「独裁者」としてのムッソリーニにとって、逆に「甘さ」であったかもしれない。

 また、スイスでの放浪時代には、レーニンと知己を得て、誰も理解できないマルクス=レーニン主義の理論を、ほぼ理解したという。そのようなムッソリーニが、やがて独裁者となり、ヒトラーと結んで第二次大戦に参戦し、敗色濃厚となるとパルチザンにつかまり、愛人と共に逆さ吊りして晒されるという終末をむかえることとなる。
 

$『ムッソリーニ―一イタリア人の物語』 (中公叢書/2000/ロマノ・ヴルピッタ著) 
https://www.amazon.co.jp/%E3%83%A0%E3%83%83%E3%82%BD%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%8B%E2%80%95%E4%B8%80%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2%E4%BA%BA%E3%81%AE%E7%89%A9%E8%AA%9E-%E4%B8%AD%E5%85%AC%E5%8F%A2%E6%9B%B8-%E3%83%AD%E3%83%9E%E3%83%8E-%E3%83%B4%E3%83%AB%E3%83%94%E3%83%83%E3%82%BF/dp/412003089X 
 


$映画『ブラック・シャツ 独裁者ムッソリーニを狙え!』(1974年/伊)
http://cinema.pia.co.jp/title/800912/
 
 

*12.6/アイルランド イギリス自治領として「アイルランド自由国」が誕生。血の抗争に一応の終止符。
 


 19世紀後半から、アイルランドではイギリスからの独立・自治を求める運動が激しくなった。一方で、イギリスとの連合を維持しようとする勢力もあり、両者の衝突が続いたが、1914年、やっとアイルランド自治法が成立した。しかし、第一次世界大戦の開始とともに自治は凍結されたため、1916年、独立派が武装蜂起した(イースター蜂起)。

 イースター蜂起は鎮圧されたが、1918年、選挙で独立派のシン・フェイン党が勝利すると、1919年にアイルランド共和国独立を宣言し、「アイルランド独立戦争(英愛戦争)」が起こった。1921年、独立派とイギリスは「英愛条約」を結び、北部アイルランドを除く南部26州(南アイルランド)は、イギリス国王を元首とする自治アイルランド自由国として分離することになり、1922年12月「アイルランド自由国」が成立した。

 

 アイルランド島には紀元前から、「ケルト人」(ローマでは"ゲール人"と呼んだ)という先住民族が、独自の文化を営んでいた。イギリス本島(ブリテン島)のようには、ローマ人の遠征やゲルマン人(アングル・サクソン人)の侵入も受けなかったため、ケルト系文化はそのまま残存し続けた。しかし、カトリック教会の布教は独自に行われ、カトリックの浸透と共に、ケルト人の古代信仰はほぼ消滅した。

 12世紀、英本土からアングロ=サクソン人の侵入がはじまり、17世紀、清教徒革命により実権を握ったクロムウェルにより、アイルランドはほぼ征服され、実質的にイギリス植民地となった。同時に、北アイルランド中心に、イギリス国教会スコットランド長老派などの新教徒の浸透が進み、プロテスタント住民が多数になった北アイルランドでは、カトリック教徒との対立が激化した。
 

 アイルランドに対するイギリスの植民地政策は苛酷を極め、とりわけカトリック教徒は、新教への改宗を進めるために「審査法」などで差別的に扱われた。やがて、1801年にはアイルランドを完全に併合すると、幾つかの融和策は講じられたものの、アイルランド側の反発は鎮まることはなかった。


 そんな中で、1845年から49年にかけて大飢饉(「ジャガイモ飢饉」)が起こる。産業革命に取り残されたアイルランドの貧農小作人たちは、小農地で、麦などよりも比較的栄養生産性の高いジャガイモを栽培して、それを主食とするようになっていた。そこへ、冷夏と長雨が続くなか、ジャガイモ疫病が発生し、単一種に偏って栽培されていたアイルランド一帯に甚大な被害を及ぼした。

 このジャガイモ飢饉はアイルランドに100万人以上の餓死者を出し、その影響下で、ほぼ同じぐらいの人々が、アメリカ、カナダ、オーストラリアなど新大陸に移住していった。ジャガイモ飢饉の影響でアイルランドの人口は半減し、その後もアイルランド人口は停滞を続ける。一方で、アメリカに渡ったアイルランド人移民は、アメリカ社会で大きな勢力を形成し、政治経済界で影響力を持つようになり、あのケネディ家の先祖もこの時の移民であったという。
 

 そのような危機の中で、アイルランド自治や独立を求める運動が盛り上がった。何度にも及ぶ独立運動と、それに対する弾圧が繰り返され、アイルランド問題は、イギリスにとって「のどに刺さった骨」として、第一次大戦後にも残された。1922年の「アイルランド自由国」成立以後も、南部での全島独立派と分離独立容認勢力との内戦や、英国残留の北アイルランドでは、カトリックプロテスタント系住民の対立が続くなど、紛争は絶えない。

 第二次世界大戦後の1949年にはイギリス連邦から離脱し「アイルランド共和国」となったが、イギリスにとどまった北アイルランドでは、アイルランド共和国との合併を目指す「IRAアイルランド共和軍)」が、過激なテロ攻勢を行い、1998年4月の「ベルファスト合意」によってやっと沈静化した。


 

$映画『麦の穂をゆらす風』(2006年/愛英)
http://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=325152
 
 

$『アイルランド大飢饉』(勝田俊輔・高神信一編/2016)
http://www.tousuishobou.com/kenkyusyo/4-88708-427-8.htm
 
 

〇この年の出来事

*2.8/ソ ソビエト政府、反革命取り締まり機関のチェカを解体し、統一国家保安部(GPUゲーペーウー)を創設。

*4.4/ソ ロシア共産党大会で、新設ポストの書記長にヨセフ・スターリンを選出。あくまでもレーニンの補佐役と思われていた。

*11.1/トルコ ケマル・パシャがトルコのスルタン制を廃止。皇帝は国外に亡命し、オスマン帝国が滅亡する。

*12.30/ソ 第1回全連邦ソビエト大会で「ソビエト社会主義共和国連邦」が成立。ロシア・ウクライナ白ロシア・ザカフカス、4共和国がソビエト連邦を構成する。