【19th Century Chronicle 1878年(M11)】

【19th Century Chronicle 1878年(M11)】
 

*5.14/東京 参議兼内務卿「大久保利通」が、紀尾井町で、石川県士族島田一郎ら6人に暗殺される。「紀尾井坂の変(紀尾井坂事件)」(7.27 6人に斬罪宣告)
 


 1878年明治11年)5月14日、内務卿大久保利通東京府紀尾井町で、石川県士族島田一郎など不平士族6名によって暗殺され、この事件は「紀尾井坂の変(紀尾井坂事件)」と呼ばれる。島田らは征韓論に共鳴しており、引き続いて起こされた下野した士族らの反乱をみて、自らも挙兵を企んだ。いよいよ西郷が立ち上がると、連動して挙兵しようと奔走するも、その間に西南戦争が終焉に向かい、果たせなかった。

 西郷の敗死により、もはや反乱は無理とみなした島田らは、方針を高官暗殺に切換えた。つまり、安直なテロリズムであり、前後の見境いもなく直情的に行動するテロリストでしかなかった。彼らは斬奸状を懐にして、西郷を殺した元凶とみなした大久保利通を付け狙った。
 


 5月14日朝、大久保利通は、明治天皇に謁見するため、2頭立ての馬車で赤坂仮皇居へ向かう途上、馬車が紀尾井坂に差し掛かったところを、暗殺犯6名に襲撃された。大久保は暗殺者らに「無礼者」と一喝するが、馬車から引きずり出され、御者とともに斬殺された。享年49〈数え年〉。

 島田ら暗殺犯は、同日、大久保の罪五事を挙げた斬奸状を手に自首した。それらは、明治新政府が直面する困難を、抽象的に羅列しただけのもので、それを専制的に進める大久保の罪としたものでしかなかった。島田を始めとする暗殺犯6名は、大審院の臨時裁判所によって裁かれ、7月27日に判決を言い渡されると、即日、斬罪となった。
 


 前年の西南戦争の最中に、その対応に京都滞在中の木戸孝允が病没、戦役の終結とともに西郷も敗死し、そしてこの年、大久保利通も暗殺され、「維新の三傑」と呼ばれた重鎮が相次いで亡くなってしまった。明治維新以来10年余、大枠の政治組織と重要改革策が遂行されており、何とか無事に次世代の伊藤博文山縣有朋らが、以後の政府を引き継いでいくことになる。

 とはいえ、この10年は新政府にとって苦難の連続であった。西郷隆盛は、幕末の変動期には要所で大役をこなしたが、明治になってからは政府の要職から離れることが多く、中心となって新政府を仕切ったのは、岩倉使節団が欧米歴訪中の「留守政府」の2年弱の間であった。また木戸孝允は、開明派として政府の中枢を占めたものの、現実的な政策に異論をとなえる立場が多かった。

 その中で大久保利通は、版籍奉還廃藩置県などの明治政府の中央集権体制確立を行うなど、終始、中心的役割を果たした。明治六年政変で西郷が下野すると、内務省を設置、自ら初代内務卿として実権を掌握、学制や地租改正、徴兵令などを実施し、「富国強兵」のスローガンのもと、殖産興業政策を推進した。明治前半の重要政策は、ほとんどを大久保利通が推進したと言ってよい。
 


 大久保は、当時ビスマルクが仕切るプロイセン(ドイツ)を、手本とすべき国家と考えていたといわれる。しかし、内務卿就任以後の大久保への権力の集中は、「有司専制」として批判され、暗殺へと繋がってしまった。今風に言えば「開発独裁」に擬せられることもあるが、「官僚的権威主義」というのに近いか。

 暗殺当日の早朝、大久保は訪問客と歓談し、自身の考える三十年計画について述べている。明治の30年を3期に分け、最初の10年を創業の時期としており、納得できる国の体制確立には30年は必要と考えていた。その第1期を終えたところで殺されるのは、いかにも残念であったであろう。
 

 俗に、情の西郷に理の大久保と言われるように、大久保利通は怜悧に政策を進め、冷徹な性格と見なされることも多い。しかし、金銭には潔白で私財を蓄えることをせず、むしろ予算のつけられなかった公共事業には、私財を投じてまで行い、死後にも財産は残らず、むしろ借金が残された。一方で、家庭的には子煩悩で、毎朝出仕前には子供を抱き上げ、忙しい公務にもかかわらず土曜日には必ず、家族全員で夕食をとることにしていたという。

 公務を冷徹にこなし、公費には潔癖、家庭では子煩悩な家族思い。文句のつけどころのない人物ではあるが、物語りにするには面白みがない。つまり、一般大衆に人気がなく、小説などでも、必ず西郷との対比で扱われることが多いようだ。しかし、日本を近代国家として成立させた、唯一無二の功労者は、やはり大久保利通ではないだろうか。

 
 
$『翔ぶが如く』(司馬遼太郎/1975)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BF%94%E3%81%B6%E3%81%8C%E5%A6%82%E3%81%8F


NHK大河ドラマ翔ぶが如く』(1990)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BF%94%E3%81%B6%E3%81%8C%E5%A6%82%E3%81%8F_(NHK%E5%A4%A7%E6%B2%B3%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%9E)
 
 

〇この年の出来事

*1.31/ 閣議で、西南戦争の戦後処理に関し、各省経費の一律5分(5%)削減案と、陸海軍省の軍備拡張案との妥協が成立する。

*5.27/ 貿易銀の一般通用が許可される。これにより、事実上、金本位制から金銀複本位制に移行する。

*7.22/ 群区町村編成法・府県会規則・地方税規則の3新法が制定される。これらの法は、農民騒擾事件や地方民権の要求に沿って、地方政治の自治的側面を許容するものであった。

*7.25/ワシントン 日米条約・協定を修正し、日本に関税自主権を認める約書が調印されるも、英独仏の反対で発効せず。

*7.27/長崎 高島炭鉱鉱夫2000余人が、賃上げを要求し暴動を起こすも、100余人が逮捕される。

*8.23/東京 近衛砲兵隊が、減給などに反発し反乱を起こす。(竹橋騒動)

*9.12/大阪 民権運動家の大会が11日より開催され、この日、「愛国社」再興を決議する。

*12.5/ 参謀本部条例を制定し、陸軍省参謀局を廃止する。これにより参謀本部が独立し、政府の手から切り離された統帥権が、のちの軍部独走の遠因となる。