25【20世紀の記憶 1923(T12)年】

25【20世紀の記憶 1923(T12)年】(ref.20世紀の全記録)
 

*7.24/ス 連合国とトルコが、スイスのローザンヌで「ローザンヌ平和条約」を締結。第一次大戦の敗戦国オスマン・トルコの処理が終了し、大幅に領土が削減された「トルコ共和国」が成立した。 
 


 第一次大戦で敗戦国となったオスマントルコは、1920年にスルタン(オスマンイスタンブール政府)が結んだセーヴル条約があったが、その後の「希土戦争」で、ムスタファ・ケマル・アタテュルク(通称ケマル・パシャ)がギリシャを撃退し、連合国側は新たにケマル・パシャ率いるアンカラ政府と「ローザンヌ条約」を締結した。


 翌1923年、ケマル・パシャは「トルコ共和国」の成立を宣言し、共和人民党(トルコ国民党)を率いて初代大統領に選出された。憲法を発布し、カリフ制を廃止して政教分離を実現、トルコの世俗主義化を推進した。ムスタファ・ケマル・アタテュルクは、「世俗主義民族主義・共和主義」などを柱とするトルコ共和国の基本路線を敷き、近代国家として自立させた。

 ムスタファ・ケマルが進めた一連の改革は「トルコ革命」と呼ばれ、これらのトルコ共和国の政治路線は「ケマル主義(ケマリズム)」とされて、現代トルコの政治思想における重要な潮流となった。やがてムスタファ・ケマルは、「アタチュルク(トルコ人の父)」の称号を贈られ、トルコ共和国建国の父とされている。
 


 ローザンヌ条約で完全消滅することになった「オスマン帝国」は、その建国を13世紀末にまでさかのぼる。やがて15世紀になると、テュルク系(後のトルコ人オスマン家出身のスルタン メフメト2世が、1453年、東ローマ帝国の首都コンスタンチノープルを征服し、古代ローマ帝国を継承してきた東ローマ帝国を滅ぼした。その首都であったコンスタンチノープルはやがて「イスタンブール」と呼ばれるようになるが、この大都市を首都として、オスマン大帝国を出現させることになった。


 オスマン帝国は、17世紀には最大の領土をほこり、西欧キリスト教世界に「オスマンの衝撃」をもたらした。オスマン帝国は、イスラム世界をほぼ覆いつくしたが、17世紀末頃から徐々に衰退して、その領土は縮小していった。南下してくるロシアと対抗するために、第一次大戦に同盟国側で参戦するも敗退し、事実上解体され、トルコ共和国に取って代わられた。

 オスマン帝国の領土は、直轄州、独立採算州、従属国からなっていたが、おおむね上納金ないし税を収めさせる以外は、緩やかな自治に任せられた。しかしオスマン帝国の解体により、西欧帝国主義の進出やアラブのイスラム国家分立などから、その後の中東の混乱を招くことになった。
 
 

$『アタチュルク―あるいは灰色の狼』(2006/三浦伸昭著)
https://www.amazon.co.jp/%E3%82%A2%E3%82%BF%E3%83%81%E3%83%A5%E3%83%AB%E3%82%AF%E2%80%95%E3%81%82%E3%82%8B%E3%81%84%E3%81%AF%E7%81%B0%E8%89%B2%E3%81%AE%E7%8B%BC-%E4%B8%89%E6%B5%A6-%E4%BC%B8%E6%98%AD/dp/4286008975


*9.1/日 関東大震災、起こる。東京は地獄絵巻。
 


 1923年(大正12年)9月1日11時58分32秒頃、南関東地域を大地震が襲った。190万人が被災、10万5千人余が死亡あるいは行方不明、建物被害は全壊が10万9千余棟、全焼が21万2000余棟と推定される。東日本大震災の起こる前までは、最大の被害を出した未曾有の大震災であった。

 東日本大震災では、あとから押し寄せた大津波によって被害が拡大され、津波に飲まれた溺死者が多くを占めた。それに対して、阪神淡路大震災では、振動による倒壊家屋と、そこでの圧死者が多かったが、関東大震災では、その後広範囲に発生した火災による家屋焼失と焼死者が、被害を最大に拡大することになった。

 

 地震の発生時刻が昼食準備の時間帯と重なったことから、136件の火災が発生した。地震当日、日本海側にあった台風に空気が吹き込み、関東地方全域では強風が吹いており、各地で発生した火災が、その強風にあおられて一気に拡大した。一帯の火災で「火災旋風」が発生し、多くの被災者は吹き飛ばされ、またその火炎に包まれた風が、一団の避難者をひとなめして、一気に焼死者を出すことになった。


 震災による火災は、旧東京市の約43%を焼失させ、鎮火は2日後の9月3日10時頃とされ、火災による焼死者は全犠牲者の約九割に上った。大震災による影響も多大であり、東京市から郊外に移り住む者が多く、山の手地域などへの居住も進んだ。また大阪府や愛知県等に移住する者も多くみられ、大阪市東京市を超え、世界第6位の人口を擁する都市になった。さらに、谷崎潤一郎など関東の文化人が関西に大勢移住して、「阪神間モダニズム」に影響を与えるなど、文化面での動きもあった。
 

 震災発生後の情報の空白のなかで、さまざまな流言飛語が飛び交った。当初は巨大地震の再来や富士山大噴火など自然現象の噂が流れたが、状況が小康を得るにつれて消えてゆき、取って代わって、世情不安に絡む陰謀、暴動など噂が拡がった。地震で刑務所から解放された犯罪者による暴動、共産主義社会主義者たちによる陰謀や暗躍などの噂だったが、世情不安型の噂の中でも猛威を振るったのが、朝鮮人に関する噂であった。


 震災の混乱に乗じて、朝鮮人による組織的な凶悪犯罪、暴動などひき起こされつつあるという噂が、民間の噂だけでなく、新聞などでも「不逞鮮人の暴動」などとあおられた。一方これらの暴動に対処するため、軍・警察の主導で自警団が組織されたが、これらの自警団とそれに連動した民衆により、集団暴行・虐殺事件が頻発する。
 

 不確かな噂によって行動した軍・警察・自警団などと、それに付和雷同する民衆により、解放受刑者・社会主義者などが殺傷されたが、中でも「不逞鮮人」と呼ばれた朝鮮人が、もっとも多くの被害にあったと言われる。実際に凶悪行為を働いた朝鮮人集団などもあったようだが、それは日本人にもあったわけで、虐殺行為を緩和するものではない。

 実際、朝鮮人を見分けるために、自警団などが「シボレス(文化的指標)」を用い、道行く人に国歌を歌わせたり、朝鮮語では発音しにくい言葉を言わせ、うまく言えないと朝鮮人として暴行、殺害したという。これは「不逞」とは関係なく、「朝鮮人」というだけで殺害したという事実を示すものである。決して笑えないが、うまく言えない地方の方言なまりの強い人や、ろうあ者、中国人なども間違えられて被害にあったと言われる。
 

 首都機能を破壊され尽くした「帝都東京」の復興は、山本権兵衛首相を総裁とした「帝都復興審議会」を創設される事で、復興計画が始まった。江戸以来の東京市街地の大改造、道路拡張や区画整理などインフラ整備も進められ、また震災による情報空白への反省から、初めてラジオ放送も始められた。

 9月27日、帝都復興院が設置され、総裁の「後藤新平」により「帝都復興計画」が提案された。壮大な復興案であったが、第一次大戦後の長い景気低迷期にあった経済状況や、当時の政党間の対立などにより予算が縮小され、当初の計画は実現できなかった(後藤案では30億円だったが、最終的に5億円強)。この復興計画の縮小は、のちの東京大空襲時の大火災を防げなかったことや、戦後の高度成長にともなう高速道路整備などのネックともなった。
 


$『帝都物語』 (角川文庫/1995/荒俣宏著)
https://www.youtube.com/watch?v=cs44XXWAnHw
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%9D%E9%83%BD%E7%89%A9%E8%AA%9E 

 


 
$TV『関東大震災 世界に眠る幻の未公開映像』
https://www.youtube.com/watch?v=7cRS9ag7ETk



*9.16/日 アナーキスト大杉栄伊藤野枝らが、憲兵大尉甘粕正彦に殺害される。(甘粕事件)
 


 関東大震災直後の混乱下にある1923年(大正12年)9月16日、アナーキストの「大杉栄」と内縁の妻「伊藤野枝」が、大杉の6歳の甥と共に、不意打ちで憲兵特高に連行された。やがて、憲兵隊司令部で憲兵によって拷問の末、絞殺され、同本部裏の古井戸から遺体が見つかった。

 軍法会議では、憲兵大尉分隊長の「甘粕正彦」と部下らによる犯行と断定された。甘粕大尉は、すべて自分の一存で実行したと証言した。憲兵隊の上層らの組織的関与が疑われたが、軍法会議は事件の背後関係には立ち入らず、甘粕大尉を首謀者として懲役10年、部下らも軽微な刑で判決が下され、裁判は早々に幕が引かれた。
 


 関東大震災における戒厳令下で、どさくさに紛れて、反政府主義者らの不法な虐殺事件が頻発した。震災直後には、東京府の亀戸で、社会主義者の川合義虎ら10名が亀戸警察署に捕らえられ、軍の手で殺害される事件があり、続いて、上記の甘粕事件が引き起こされた。

 さらに3年後の1926年(t15)には、第二の大逆事件と言われた「朴烈事件」があり、無政府主義者 朴烈(パク・ヨル/ぼく・れつ)とその愛人 金子文子が、治安警察法に基づく「予防検束」の名目で検挙された。このように、震災後の社会不安の世情に乗じて、官憲による思想弾圧は一気に強化されていった。
 


 甘粕正彦は10年の刑を受けたが、3年後には仮釈放され予備役となり、陸軍の予算でフランスに留学するなど厚遇された。これには、甘粕が、反社会的な人物を自身の責任で処断し、その責任を独りで背負ったとして、「国士」として称賛する庶民の評価が寄与したと考えられる。ただしそれも、軍関係者などから作り上げられた世論という側面も否めない。

 フランスから帰国後、満州に渡り、南満州鉄道経済調査局員となると、さらに奉天関東軍特務機関の指揮下で情報・謀略工作を行うようになり、右翼団体のメンバーの一部を配下として、甘粕機関という民間特務機関を設立。また満州の国策としての阿片ビジネスをも仕切る。


 1931年(昭和6年)9月の柳条湖事件に連動して、ハルピン出兵の口実作りに爆破事件を起こすなど、特務工作に従事。また、幽閉中の清朝最後の皇帝 愛新覚羅溥儀を脱出させ、満州国皇帝に擁立する準備工作にも関わった。これら満州国建国に関する様々な謀略の親玉として暗躍した働きの為、満州国建国後には、警察庁長官に抜擢され、表舞台に登場する。
 
$映画『ラストエンペラー』 (1987/ベルナルド・ベルトルッチ) *坂本龍一が「甘粕元大尉」として出演している
https://movies.yahoo.co.jp/movie/%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%A9%E3%83%BC/24562/
 

 さらには、甘粕正彦は「満洲映画協会満映)」の理事長となる。満映は、満州人に対するプロパガンダとして、文化映画や啓蒙的な映画、プロパガンダ映画を多く創った。甘粕の理事長への抜擢は、軍部の満映支配と恐れられたが、甘粕はむしろ満映の自立運営やスタッフ待遇の改善などに、毅然と対処したため、満映関係者からは慕われたらしい。

 満映の理事長職は、いわば表の顔であり、満州時代の甘粕は、日本政府の意を受けて満州国を陰で支配していたとも言われる。しかし、甘粕はその硬骨漢ぶりと言動ゆえに関東軍には煙たがられ、むしろ冷遇されていたとされる。1945年(昭和20年)、日本が降伏し、ソ連軍が新京に迫りくる中、満映の閉所処理をきちんと済ませた後、20日早朝、甘粕は独りで服毒自殺した。
 


 甘粕事件で惨殺された「大杉栄」は、その性格として「強情・我儘」や「傲岸・不遜」といった言葉が並ぶが、良くも悪くも、自由奔放で天真爛漫な性格であったと思われる。その生来の性格に、社会的な理屈を付ければ「アナーキズム無政府主義)」となり、個人生活面では「自由恋愛論」となる。

 女性関係にはかなりデタラメであり、それを「自由恋愛」と呼んだに過ぎないという側面もある。大杉は、堺利彦の義妹で婚約者のいた堀保子を、強引に犯して結婚する。だが、栄は保子と入籍せず、「神近市子」に近づき、さらに「伊藤野枝」とも愛人関係となって、野枝は長女魔子を身ごもった。これら女性達からは常に経済的援助を受けており、とりわけ献身的に大杉に尽くした神近市子は、野枝との関係に嫉妬し、大杉に瀕死の重傷を負わせる「日蔭茶屋事件」を起こした。

 「自由奔放」と言えば、大杉と共に惨殺された「伊藤野枝」は、大杉以上に奔放な生涯を送った。野枝に関しては、別に触れたことがある。>http://d.hatena.ne.jp/naniuji/20170422

 

$『甘粕大尉』(ちくま文庫/2005/角田房子著)
https://www.amazon.co.jp/%E7%94%98%E7%B2%95%E5%A4%A7%E5%B0%89-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E8%A7%92%E7%94%B0-%E6%88%BF%E5%AD%90/dp/4480420398

〇この年の出来事

*1.*/日 菊池寛が月刊雑誌『文藝春秋』を創刊。

*1.14/伊 イタリア国王が、「ファシスト国防義勇軍(黒シャツ隊)」を国防軍と正式認可。

*5.1/独 ヒトラーとその支持者が、ミュンヘンで軍隊式武装でデモ。

*6.5/独 ドイツのインフレが天文学的数字に。独中央銀行総裁が、マルク通貨維持にお手上げ宣言。

*11.8/独 ヒトラーミュンヘン武装蜂起。バイエルン州政府の転覆を図るが鎮圧される。(ミュンヘン一揆

*12.27/日 無政府主義の影響を受けた青年が、摂政宮皇太子裕仁殿下に発砲。(虎の門事件)