【京都・文学散策2】
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〇京都・文学散策4.紫野・賀茂の祭>『今昔物語集』巻二十八第二「頼光の郎等共、紫野に物見たる語」
今は昔、摂津守源頼光朝臣の郎等にて有りける、平貞道・平季武・坂田公時と云ふ三人の兵有りけり。・・・
然て、紫野樣に遣らせて行く程に、三人ながら、未だ車にも乘らざりける者共にて、物の蓋に物を入れて振らむ樣に、三人振り合はせられて、或いは立板に頭を打ち、或いは己れ等どち頬を打ち合はせて、仰樣に倒れ、樣にし轉びて行くに、惣て堪ふべきに非ず。
此くの如くして行く程に、三人ながら酔ひぬれば、踏板に物突き散らして、烏帽子をも落してけり。
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源頼光の四天王のひとり坂田公時(金太郎のモデルと言われる)ら、3人の豪の者が、御所の警護をさぼって加茂の祭り(葵祭り)を見物に行こうと、女官を装って女車に乗り込んで加茂川の河原方面に向かう。
やっと紫野あたりまで来ると、日ごろ馬を乗りこなす強者も、ガタゴトと狭い牛車(ぎっしゃ)に揺られて、ひどい車酔いでひくっくり返っているうちに、行列は通り過ぎてしまった、という笑話。
「紫野」という土地に生まれ育ったので、彼らの辿った道筋など何となく分かり、この話が記憶にのこった。平安京の大内裏(今の京都御所よりは西にあった)を北側の裏口から出て、舟岡山周辺から今宮神社の紫野を通り、そのまま北東の加茂川堤防に向かう予定だったと思われる。
+写真1.頼光と四天王 +2.女車 +3.葵祭りのヒロイン斎王代 +4.舟岡山より北方、今宮神社・大徳寺を望む。正面は母校紫野高校 +5.今宮神社門前のあぶり餅屋、創業1000年と400年の店が向かい合うが、さすがにこの時期にはまだ無かった。
それから、四五日たつた日の午前、加茂川の河原に沿つて、粟田口(あはたぐち)へ通ふ街道を、静に馬を進めてゆく二人の男があつた。一人は濃い縹(はなだ)の狩衣に同じ色の袴をして、打出の太刀を佩いた「鬚黒く鬢(びん)ぐきよき」男である。
もう一人は、みすぼらしい青にびの水干に、薄綿の衣を二つばかり重ねて着た、四十恰好の侍で、これは、帯のむすび方のだらしのない容子と云ひ、赤鼻でしかも穴のあたりが、洟にぬれてゐる様子と云ひ、身のまはり万端のみすぼらしい事おびただしい。
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豊臣秀吉が、当時の京の街を「御土居」と呼ばれる土塁で囲った。平安京は、唐の都にならって造営されたが、西半分は「長安」、東半分は「洛陽」に擬したとされる。西ノ京の地域は早くから寂びれ、秀吉の時代には、東の洛陽部分が都市として栄えていた。そして御土居で囲われた都市部を「洛中」、その外側を「洛外」と呼ぶようになった。
御土居には「京の七口」ないし「九口」と呼ばれる、洛外への出入り口が設けられ、そこから各地への街道がのびていた。「粟田口」はそれより以前から、東国に至る街道(のちの東海道)の出入り口として、最も重要な関の一つであったと考えられる。
拠点は鴨川に架かる三条大橋(秀吉が本格的な橋を造ったとされる)で、橋を渡って東に向かい蹴上の峠に至る地域が「粟田口」と呼ばれた。三条の河原や粟田口などには刑場があり、都を出たばかりとはいえ、もの寂しくおどろおどろしい道が延びるだけの荒地であったと想像される。
「芋粥」は「鼻」とともに、芥川龍之介の初期の秀作であり、デビュー作の「羅生門」よりも優れている。これらは今昔物語などの中世の説話集などから題材を取り、芥川が独自の創作を加えたものである。とくに「芋粥」と「鼻」は、それぞれゴーゴリの「外套」「鼻」から主題を借用したとも考えられる。
「芋粥」の場合、主人公の五位が、長年の願望であった鍋一杯の芋粥を目の前にして、急に食欲がなくなるという、願望の達成と希望の喪失という不安定な人間心理を描いたとされる。「羅生門」や「鼻」でも同様に、簡単に移ろってゆく人間心理をテーマにしているが、これらは人間の深層意識に着目すれば、一貫した意識の働きに過ぎない。
芋粥を腹いっぱい食べたいという五位の願望は、みすぼらしく惨めな自らの境遇から目をそらすために抱き続けてきた願望に過ぎず、それが叶えられてしまうと意味を持たなくなるもので、五位の食欲を失せさせるのも当然のことでしかない。同様に、「羅生門」の老婆を前にして盗賊に豹変してしまう下人や、「鼻」で禅智内供の鼻が元に戻るのを心よしとしない周囲の「傍観者の利己主義」も、深層的エゴの一貫した働きに過ぎない。
「芋粥」や「鼻」の真髄は、漱石が「鼻」で「自然其儘の可笑味」と表現したユーモアでありペーソスにあるのであって、若い芥川が勘違いしていた、移ろいやすいエゴの心理主義的説明などではなかったのである。
+写真1.御土居と「京の七口」図 +2.青蓮院そばにある粟田口の掲示と石碑 +3.粟田口終点の蹴上げ付近 +4.三条大橋西詰、弥次喜多の像がある +5.三条から四条の鴨川河原には、夏場になると「川床」が並び立ち、川風を浴びながら酒食を味わえる。三条スタバの川床は珈琲一杯でもOK(笑) +6.「芋粥」の挿絵
(追補)
この洛外には刑場がいっぱいあった。粟田口だけでなく、「蹴上(けあげ)」から上って行く先の「九条山」にもあり、嫌がる罪人を蹴り上げながら刑場に上って行ったので地名がケアゲとなったり、ひどいのは刑で斬り落とされた首を蹴り上げたのでケアゲだとか言われた。
九条山の峠を越えて山科に入ったあたりの「日ノ岡」には「ホッパラ町」という土地があり、処刑された罪人の遺体を、そのあたりの野原に放りっぱなしにしたから「放り原」、つまりホッパラ町だとか、何かひどい話だな(笑)
さらに一駅先に行くと、天智天皇の陵があり「御陵(みささき)」と呼ばれる。ここには「御陵血洗町」という地名があり、源義経が平家の兵の首を落して、刀の血を洗ったという逸話かららしい。
〇京都・文学散策6.御室仁和寺>『徒然草』53段「仁和寺の法師」
これも仁和寺の法師、童の法師にならんとする名残とて、おのおのあそぶ事ありけるに、酔ひて興に入る余り、傍なる足鼎(あしがなへ)を取りて、頭に被きたれば、詰るやうにするを、鼻をおし平めて顔をさし入れて、舞い出でたるに、満座興に入る事限りなし。
しばしかなでて後、抜かんとするに、大方抜かれず。酒宴ことさめて、いかがはせんと惑ひけり。
とかくすれば、頸の廻り欠けて、血垂り、ただ腫れに腫れみちて、息もつまりければ、打ち割らんとすれど、たやすく割れず、響きて堪え難かりければ、かなはで、すべきやうなくて、三足なる角の上に帷子をうち掛けて、手をひき、杖をつかせて、京なる医師のがり率て行きける、道すがら、人の怪しみ見る事限りなし。
医師のもとにさし入りて、向ひゐたりけんありさま、さこそ異様なりけめ。ものを言ふもくぐもり声に響きて聞えず。
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仁和寺の僧たちの話で、小僧が僧になる祝いの席で、酔っぱらった僧が、そばの足鼎(あしがなえ:三脚の付いた鉄の壷の置物)を被って余興に踊った。踊ってから、いざ抜こうとしたが、これが抜けなくなって大騒ぎ。最後には、耳や鼻が引きちぎれても命には代えられないと、無理やり引き抜いた。その僧はその後しばらく病に伏したという。
御室仁和寺のオバカ坊主のドジ話というところだが、実は徒然草には他にも、仁和寺の法師の失敗談が出て来る。石清水(いわしみず)八幡宮に一度は参詣したいと思いつつ、ついつい歳を取ってしまったので、ある時、思い立って詣でることにした。ふもとの極楽寺・高良明神などを有難く拝んで満足して帰った。やっと念願がかなったとか知人に語ったが、実は八幡宮の本殿は男山の山上にあり、それも知らずにうかつなことだ、このドジ坊主、みたいなことが書いてある。
筆者の吉田兼好は、出家して兼好法師とも呼ばれるが、特に仁和寺で修業したという事実は確認できない。仁和寺の僧の悪口めいた話が続いて、特に仁和寺に恨みがあったわけでもなかろうが、仁和寺が身近な立場にあったのかとも思われる。
仁和寺(にんなじ)は、京都市右京区御室(おむろ)にある真言宗御室派総本山の寺院で、世界遺産にも登録されている。開基は宇多天皇で、出家後も僧坊を建て住まったため「御室御所」とも呼ばれる。
京福電鉄北野線には「御室仁和寺駅」があり、また山門前を通る道路は「きぬかけの路」と呼ばれ、衣笠山の麓に沿って、北東方向にうねうねと伸びて金閣寺に至る。途中にも、龍安寺があり、妙心寺、等持院なども近辺に散在する。気候の良い時期、きぬかけの路をレンタル自転車で散策するのも好適だ。
御室仁和寺の境内や裏山一帯は、「御室桜」と呼ばれる桜の名所でもある。御室桜には八重桜が多く、ソメイヨシノなどが散り去った後も、かなりの期間、遅咲きの桜として花見が楽しめる。
+1.御室仁和寺山門 +2.被りもので踊る僧 +3.足鼎 +4.男山石清水八幡宮、配置図 +5.きぬかけの路、案内図 +6.御室の桜は遅咲きで有名
(追補1)
「きぬかけの路」は、金閣寺から連なる「衣笠(きぬがさ)山」の麓に沿って走っているが、この山はかつて「衣掛(きぬかけ)山」とも呼ばれたことにちなむ。
御室の御所の宇多天皇が、夏の盛りに「雪のかかった衣笠山を見たい」とおおせられ、山の松の枝に綿衣を掛けて雪に見立てたという逸話から、「きぬかけ」ないし「きぬがさね」という呼び名がはじまったという。
ちなみに京都には「衣笠丼」という独自の丼ものがある。京揚げに九条葱を載せ玉子で閉じたドンブリで、ネギが松の緑、アゲが幹の茶色、そして玉子のシロミが綿衣の雪、というわけだが、大阪人に言わせると「ただのケツネ丼」やないかと言うことになる(笑)
(追補2)
昔はカナに濁点が無かったので、金閣寺への道標には「きんかくし」と書いてある、という笑話がある。では銀閣寺も同じになるじゃないかというのは置いておいて、和式便器にある「きんかくし」についてのウンチクをひとつ。
王朝時代の女房たちは、いわゆる「おまる」で用をたした。オマルは木枠の桶に、つい立て状の板などが付いている。で、現在とは逆で、このつい立に尻を向けてまたぐ。十二単など大層な着物の裾をこの板に掛けて、汚れないようにするもので「衣(きぬ)かけ」と呼んだ。
それがなまって、やがて「キヌカケ→キンカケ→キンカクシ」と変わっていった。そしてその名につられて、男どもはキンカクシを前にしゃがむようになって、現在にいたる、というわけである(笑)