【京都・文学散策1】

【京都・文学散策1】

〇京都・文学散策1.八百卯・丸善書店梶井基次郎檸檬


 どこをどう歩いたのだろう、私が最後に立ったのは丸善の前だった。平常あんなに避けていた丸善がその時の私にはやすやすと入れるように思えた。
「今日は一つ入ってみてやろう」そして私はずかずか入って行った。

 しかしどうしたことだろう、私の心を充たしていた幸福な感情はだんだん逃げていった。香水の壜にも煙管にも私の心はのしかかってはゆかなかった。憂鬱が立て罩めて来る、私は歩き廻った疲労が出て来たのだと思った。

 私は画本の棚の前へ行ってみた。画集の重たいのを取り出すのさえ常に増して力が要るな! と思った。しかし私は一冊ずつ抜き出してはみる、そして開けてはみるのだが、克明にはぐってゆく気持はさらに湧いて来ない。しかも呪われたことにはまた次の一冊を引き出して来る。それも同じことだ。それでいて一度バラバラとやってみなくては気が済まないのだ。それ以上は堪らなくなってそこへ置いてしまう。以前の位置へ戻すことさえできない。

 私は幾度もそれを繰り返した。とうとうおしまいには日頃から大好きだったアングルの橙色の重い本までなおいっそうの堪えがたさのために置いてしまった。――なんという呪われたことだ。手の筋肉に疲労が残っている。私は憂鬱になってしまって、自分が抜いたまま積み重ねた本の群を眺めていた。

 以前にはあんなに私をひきつけた画本がどうしたことだろう。一枚一枚に眼を晒し終わって後、さてあまりに尋常な周囲を見廻すときのあの変にそぐわない気持を、私は以前には好んで味わっていたものであった。……

「あ、そうだそうだ」その時私は袂の中の檸檬を憶い出した。本の色彩をゴチャゴチャに積みあげて、一度この檸檬で試してみたら。「そうだ」

 私にまた先ほどの軽やかな昂奮が帰って来た。私は手当たり次第に積みあげ、また慌しく潰し、また慌しく築きあげた。新しく引き抜いてつけ加えたり、取り去ったりした。奇怪な幻想的な城が、そのたびに赤くなったり青くなったりした。

 やっとそれはでき上がった。そして軽く跳りあがる心を制しながら、その城壁の頂きに恐る恐る檸檬を据えつけた。そしてそれは上出来だった。

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 丸善書店はもともと舶来品の輸入商社だった。バーバリのコートから、オーダーメイドの英国製スーツ生地、ドイツ製のローデンストック眼鏡にモンブラン万年筆、もっぱら学者先生たちのご愛用であって、我ら学生分際に手の届くものではない。梶井同様に、ひたすら雰囲気を味わいに店内に入るだけで、安い丸善特製原稿用紙などを購入して末席に連なる気分にひたるのみ。

 丸善の原稿用紙は著名文士たちも愛用しており、少し薄めの紙で升目は横広、これに太めの万年筆で書くと、いかにも作家になったような気分だった。そんな趣味人的なことではまともなものは書けないぞ、とか仲間と論争になったりした。それなら折り込み広告の裏で名作を書いてやる、などと啖呵を切ったものの、紙に関係なく、ついに名作を書くことはなかった(笑)

+写真1.『梶井基次郎全集』全2巻。若くして亡くなったため、小説創作作品等は1巻にすべて収まっている。
+写真2.梶井がレモンを買ったとされる八百卯。現在は閉店している。
+写真3.二代目丸善書店。長らく河原町六角で営業して親しまれたが、2005年に閉店した時の店舗の様子。
+写真4.八百卯と新旧丸善書店の位置関係。梶井が訪れたのは①の店舗。
+写真5.三高時代の梶井基次郎
+写真6.丸善書店特製原稿用紙。多くの作家が愛用した。
 

〇京都・文学散策2.比叡山夏目漱石虞美人草


 「随分遠いね。元来どこから登るのだ」と一人が手巾で額を拭きながら立ち留どまった。


 「どこか己にも判然せんがね。どこから登ったって、同じ事だ。山はあすこに見えているんだから」と顔も体躯も四角に出来上った男が無雑作に答えた。

 反を打った中折れの茶の廂の下から、深き眉を動かしながら、見上げる頭の上には、微茫なる春の空の、底までも藍を漂わして、吹けば揺くかと怪しまるるほど柔らかき中に屹然として、どうする気かと云わぬばかりに叡山が聳えている。

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 『虞美人草』の冒頭シーン。ヒロイン藤尾の兄甲野さんと、その友人で藤尾に気を寄せる宗近くんが、旅行で京都に来て、二人で叡山(比叡山)に登っている途上で交わす会話が続く。ヒロイン藤尾はいまだ登場しない。

 漱石はロンドン留学から帰国後、神経衰弱に悩まされながら東京帝国大学の講師などをしていたが、高浜虚子の勧めで俳句雑誌『ホトトギス』に『吾輩は猫である』を掲載する。これが好評をはくし、さらに『坊ちゃん』『倫敦塔』などで一躍人気作家になる。


 漱石はついに作家として食ってゆくことを決心し、朝日新聞社に専属として入社し、職業作家としての最初の作品が『虞美人草』だった。初の新聞連載にさいして、漱石はかなり気負って書き始めたようで、それまでの漱石には見られなかった絢爛たるストーリー展開は、後日漱石自身に失敗だったと述懐させるほどだった。

 私自身は若い時に読んだのだが、むしろ漱石の作品の中でも、最も面白い作品に思われた。漱石は執筆中に、弟子筋の小宮豊隆あてに、次のように書いている。

 《虞美人草は毎日かいてゐる。藤尾といふ女にそんな同情をもつてはいけない。あれは嫌な女だ。詩的であるが大人しくない。徳義心が欠乏した女である。あいつを仕舞ひに殺すのが一篇の主意である。うまく殺せなければ助けてやる。然し助かれば猶々藤尾なるものは駄目な人間になる。最後に哲学をつける。此哲学は一つのセオリーである。僕は此セオリーを説明する為めに全篇をかいてゐるのである。だから決してあんな女をいゝと思つちやいけない。(明治40年7月19日小宮豊隆あて書簡)》

 これを、字面とおりに受け取るわけにはいくまい。思い入れのできない女性像をヒロインにするわけはなく、漱石は藤尾という作中の女性にかなり入れ込んでいたはずで、その照れ隠しに悪態をついているのに違いない。

+写真1.鳥瞰写真の比叡。左下から登坂ケーブル線の軌道がみえる。

+写真2.修学院方面からの比叡。漱石らも、この辺りから登ったと思われる。
+写真3.出町付近から比叡を望む。比叡山は山頂が二つあり、市内南部からだと、ふたこぶラクダ風に観える。
+写真4.東京朝日新聞連載「虞美人草」の題字飾りカット。名取春仙画

+写真5.北区の中学校卒業アルバムより。グラウンドから東を観れば、勇壮な比叡がそびえていた。
+写真6.山頂の滋賀県側には延暦寺塔頭が拡がっている。
 

虞美人草

 垓下の戦いで項羽が敗れたあと、愛妃の虞美人も自刃し、その墓にそっとヒナゲシの花が咲いたので、以来虞美人草と呼ばれるようになった。


(垓下の戦・四面楚歌)
力拔山兮 氣蓋世 (力は山を抜き 気は世を蓋う)
時不利兮 騅不逝 (時利あらず 騅逝かず)
騅不逝兮 可奈何 (騅逝かざるを 奈何すべき)
虞兮虞兮 奈若何 (虞や虞や 汝を奈何せん)



〇京都・文学散策3.府立植物園・北山杉の町>川端康成『古都』


 植物園はアメリカの軍隊が、すまいを建てて、もちろん、日本人の入場は禁じられていたが、軍隊は立ちのいて、もとにかえることになった。

 西陣の大友宗助は、植物園のなかに、好きな並木道があった。楠の並木道である。楠は大木ではないし、道も長くはないのだが、よく歩きに行ったものだ。楠の芽ぶきのころも……。

 「あの楠は、どないなってるやろ」と、機(はた)の音のなかで思うことがあった。まさか占領軍に伐り倒されてはいまい。

 宗助は植物園が、ふたたび開かれるのを待っていた。

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 冒頭に出てくる京都府立植物園は、実家から歩ける距離にあったので何度も行ったことがある。両親も西陣の機(はた)織り職人で、毎日機織りしていた。北山杉で有名な周山街道沿いの旧中川町は、高校の耐寒マラソンコースになっていた。ということで、この小説で描かれる古都の風景は、生活の一場面に過ぎず何ら情緒を掻き立てられることがなかった。

 川端康成は、この作品などで昭和42年にノーベル文学賞を受賞することになるが、日本人最初の文学賞ということで、多分に選者の「オリエンタリズム」的視点が作用していたと思われる。川端作品で著名なものは、「伊豆の踊子」にしても「雪国」にしても、いわば旅先でのエトランジェとしての出来事を描いたものが多い。

 エトランジェとしての恋愛事は、いざ不都合となればとっとともとの居場所に逃げ帰られる、男にとってきわめて都合の良い状況なのである。川端作品での恋愛については、このようなエトランジェとしてのエゴしか感じないので、あまり好まない。

 この「古都」では、そのような恋愛はなくて、離れて育てられた双子姉妹の物語であり、その背景として古都京都での伝統的な生活が綴られる。しかし、すでにこの物語では、姉妹の物語が背景に退き、古都の情景の方が主題として浮き上がって来ていると見える。


 思えば川端は、京都に関しても徹底的にエトランジェなのである。大阪で育った川端だが、多くの秀才が京都の三高を選択する中で、東京の一高から東京帝大というコースを選択する。これは何よりも川端の上昇志向を示しており、京都をとっととスキップしている。

 そのようなエトランジェ川端が描く「古都」とは、自身の記憶の中でノスタルジー化された絵葉書のようなものであって、そこで生活する人々のナマの生活などは眼中にない。そのような川端をノーベル賞に選んだのは、当時選考委員だったエドワード・サイデンステッカーやドナルド・キーンといった、日本文学翻訳者でジャパン・オリエンタリストだったわけだ。

 ノーベル文学賞受賞後、まともなものを書けなくなった川端は、その数年後に自殺する。奇しくも、川端にノーベル賞を奪われた形になった三島由紀夫が自刃して二年後であった。


+写真1.『古都』文中の府立植物園内の楠並木。
+写真2.東山魁夷描く北山杉。周山街道途中の、旧中川町付近が有名。
+写真3.同じく、川端康成に描くことを勧められた東山魁夷の『京の四季』より「年暮る」。京の町屋に雪が降りつむ。

+写真4.北大路正門前のけやき並木プロムナード。
+写真5.広々とした正面広場のメイン花壇と大温室。
+写真6.高一の時の植物園。友達から借りたビートルズのシングル盤を眺めている。「古都」が発表されて数年後。


(追補1)

 植物園が返還された時のことは、よく憶えている。敗戦後、進駐軍に接収されていたのが、昭和34年ごろ返されて、無料開放された。小学生高学年のころで、近くのおじさんに連れられて、みんなで遊びに行った。

 再整備が始まる前で、園は荒れ放題、米軍家族の木造家屋が建っていた跡だろう、変な六角形の位置に柱穴が開いていた。その後、整備されて開園されたときは、目玉の大温室などとともに、見事に蘇っていた。中学、高校と、幾度となく遊びに行った。

 同時に周辺も整備された。北山橋が架けられ、畑地しか無かった園の北側に北山通が拡張され、ファッショナブルな街ができた。西側の賀茂川堤防沿いには桜の苗木が植えられ、それが「半木(なからぎ)の途」として、いまや桜の通り抜け名所となっている。川の対岸から植物園越しに眺める比叡山は、もっとも美しいと思う。


(追補2)
 たまたま、NHK-BS「プレミアムカフェ」で東山魁夷の「年暮る」を取り上げていた。京都市役所から、河原町通りを挟んで、東側に建っていた旧京都ホテルの屋上から見下ろした眺めを描いたものらしい。おそらくは、南東方面、祇園から清水寺にかけての東山山麓の家々で、今はすっかり変わっている。

 今は京都ホテルオークラとなっているが、当時の京都ホテルは、改築問題をめぐって京都仏教会と激しく対立した。60mの高層ビルへの改築計画が、東山方面の光景を著しく阻害するということだった。京都仏教会は、数年前にも「古都税」導入をめぐって激しく市と対立、金閣寺を始め有力観光寺院が、一年にわたって拝観拒否をするという事件となっていた。その後、景観条例など、様々な条例が定められたが、結局は現在60mの高層ホテルに改築されているようである。

 川端康成が、失われてゆく京の景観を惜しみ、東山魁夷に描くように勧めた結果、旧館の屋上から描いた「年暮る」が残され、その景観を阻害するといわれた高層の新館が、その場所に建っているという、いかにも皮肉な歴史が残されたのであった(笑)

  1. 写真は旧館京都ホテル


(追補3)
「古都」に出てくる楠並木をたまたまスケッチしていたw 受験浪人の時に、まわりに触発されて始めたスケッチブックだが、美術部に所属していた奴に「風景をしっかり見ろよ、木の枝はもっとごつごつ折れ曲がってるはず」と言われて、なるほどと納得したが、以後絵を描くことは無かった(笑)

 

なお「古都」は3度映画化されている。
https://filmarks.com/movies/37020 (1963/中村登監督/岩下志麻主演)
https://filmarks.com/movies/32368 (1980/市川崑監督/山口百恵主演)
https://eiga.com/movie/85122/ (2016/Yuki Saito監督/松雪泰子主演)