『Get Back! 20’s / 1926年(t15/s01)』

『Get Back! 20's / 1926年(t15/s01)』

○1.7 [東京] 菊池寛の提唱で、小説家協会と劇作家協会が合同して、文芸家の権利擁護と相互扶助を目的とする日本文芸家協会が設立される。

 1926年(大正15年)に劇作家協会と小説家協会が合併して発足した。初代会長には提唱者でもあった菊池寛が就任。戦時中の軍国主義下では、国策に添って日本文学報国会に再編成されたが、戦後の1946年(昭和21年)に再発足した。1990年(平成2年)には、殺人犯死刑囚で俳人でもあった永山則夫の入会拒否問題をめぐる対立が起り、一部有力作家が抗議のため脱会するというもめ事もあった。

 文芸家の職能団体として、政治的主張は基本的には行わず、もっぱら文芸家の地位向上、言論の自由の擁護、文芸家の収入・生活の安定などが活動の主軸であり、健康保険組合の加盟団体であり、共同墓「文學者之墓」を所有するなど、文学者の生活向上を目的と活動が主であるが、もちろん、広く文芸の振興に寄与し、関連教育、福祉等への尽力も基本的な目的としている。

 著作物創作者の団体として著作権管理業務を担うが、日本音楽著作権協会(JASRAC)ほどの強力な統合的著作権管理は行っていない。著作権保護期間の延長(50年→70年)や再販売価格維持制度の維持を訴えるが、緩やかな文芸者の団体として、さほど統合的な政治的活動は展開しない。

 なお類似団体として「日本ペンクラブ」があるが、こちらは国際ペンクラブの日本センターとしての役割を担い、創作者に加えて編集者・エッセイスト・ジャーナリストなどの会員も多く、その活動目的も、言論の自由表現の自由・出版の自由の擁護・文化の国際的交流などとされる。


 日本文藝家協会の設立者 菊池寛は、芥川賞直木賞の創設者でもある。旧制一高同級だった芥川龍之介久米正雄らと第4次「新思潮」を創刊し、同誌に戯曲『屋上の狂人』『父帰る』などを発表する。菊池・芥川・久米ら第4次新思潮同人は「新思潮派」と呼ばれ、大正文学の一潮流を築いた。

 のちには大衆文学に転じるとともに、雑誌「文藝春秋」を創刊し出版事業へ進出、さらに日本文芸家協会を設立するなど、文芸活動の支援者・事業者としての顔が主となる。個人的に横光利一川端康成小林秀雄らの新進の文学者に援助をおこない、新人作家を対象とした芥川賞直木賞の設置するなど、戦前の文学界の振興に果たした菊池の役割は大きい。

 戦時中には文芸翼賛運動の一翼を担い、戦後は公職追放の憂き目にあい、昭和23年、失意のうちに狭心症により急逝、死亡時には「キクチカン、ああ、もうクチキカン」などという不謹慎な記事が出たという逸話を聞いた気がしたが、確認はできなかった。
 

○1.15 特高警察が、全国社会学研究会の学生の一斉検挙を開始する。4か月にわたって、京都帝大学生など38人が起訴され、初の治安維持法適用事件となる。(京都学連事件


 大正年間には、世界では第1次世界大戦、ロシア革命など大きな事件が起こり、国内では欧米思想の流入大正デモクラシーという民主化の流れとともに、戦後不況、就職難、米騒動、そして関東大震災と社会不安が拡大していた。そのような流れの中で、学生たちは社会に目を向ける傾向が強まり、東京帝国大学をはじめとし、各地の大学や高等学校などで社会情勢を研究する社会科学研究会(社研)などが多く組織された。

 それら研究会をまとめる全国組織「学生社会科学連合会(学連)」が発足し、学連はまたたくまに大組織に成長し、マルクス主義の普及・研究を基本に、労働争議や労働者教育運動などへの関与も積極的に行った。一方で、学生らの活動は官憲の監視・妨害を受けることになり、1925年12月京都府特高課が京都帝国大学同志社大学の学生を検挙。そして翌26年1月には、治安維持法違反として全国的な社研会員の大検挙が行われた。

 同時に、左翼系思想指導者として、河上肇、山本宣治・河上丈太郎ら教員に対しても捜索が行われるなど、思想弾圧の様相が濃く表れた事件であり、あの悪名高い「治安維持法」の最初の適用事案ともなった。その後、京都帝国大学で滝川事件がひき起こされると、学生運動はほぼ壊滅状態となる。


 原敬に始まる政党内閣は、本格的な政党内閣として加藤高明内閣に引き継がれたが、加藤は普通選挙法を成立させると同時に治安維持法を制定した。加藤の政策は「飴と鞭」とも呼ばれ、ある意味大正デモクラシーの達成点でもあるが、他方でその限界をも示した。奇しくも学連事件の数日後の1月22日、加藤が急逝するとともに、大正時代も終わりを迎えた。やがて昭和は、軍国主義と弾圧の時代を迎えてゆくことになる。
 

○3.25 [東京] 大審院が、朴烈・金子文子夫妻に大逆罪で死刑を宣告する。(4.5 無期懲役減刑、7.23 金子が獄中自殺)(朴烈事件/朴烈・文子事件)


 1923年9月1日関東大震災直後の混乱の下、流言飛語が飛び交う中で多くの朝鮮人が、民衆による私刑で殺されたとされる。また、戒厳令が敷かれた震災後の混乱に乗じて、憲兵大尉 甘粕正彦らによってアナーキスト大杉栄伊藤野枝らが殺される事件(大杉事件)が起こされたりしたが、一方で朝鮮人の組織的暴動など懸念した官憲は、無政府主義者 朴烈(パク・ヨル/ぼく・れつ)とその愛人 金子文子を、治安警察法に基づく「予防検束」の名目で検挙した。

 当初警察当局は、朝鮮民族主義と反日運動に拘わってきた朴が、朝鮮人暴動や爆弾テロを画策したとして逮捕したが、起訴段階で二人の容疑は皇室暗殺を計画したという「大逆罪」に切り替えられた。しかし実際にテロが画策された証拠はほとんどなく、大審院での朴と金子の証言や言動のみに基づいて有罪とされた。

 事件は政治・警察的な思惑からでっち上げられた側面が多い。当初は、朝鮮人暴動計画があったということで、震災直後の朝鮮人殺害に対する批判への収拾策とする意図があったが、さらには、朝鮮独立運動家や社会主義者らへの威圧・弾圧を目的として、起訴容疑を大逆罪に切り替えられることとなった。

 朴烈は、「朝鮮民族独立の英雄」としての名声を得て死ぬ事を良しとしたのか、積極的に大逆計画を認める証言をし、金子も皇室を狙ったような発言をしたため、1926年3月25日両者に死刑判決が下された。しかし続く4月5日には天皇の慈悲と言う名目で恩赦が出され、共に無期懲役減刑された。しかし両人ともに特赦に激怒し、これを拒否する意志を表明したとされる。


 判決後の7月22日、刑務所に拘置されていた金子文子は自殺(縊死)したと発表されたが、死亡の経緯は不明のままとなった。しかもその直後の7月29日、朴と文子が睦みあっている怪写真が報道関係に公開され、世論は騒然とわき立った。第1次若槻内閣の転覆を計画する北一輝の意向を受けて、西田税が入手・公開したものと言われるが、この写真が政争の具となり議会は空転した。しかし、写真の撮影時が加藤高明内閣時の1925年5月2日であったことなどが判明し、若槻内閣は倒閣を免れた。

 無期懲役刑となった朴烈は、1945年の終戦を迎えるまで刑務所に収容され、解放後には、日本本土や独立後の韓国で政治活動に加わったが、朝鮮戦争中に北朝鮮軍に拘束されスパイ罪で処刑されたとされる。

 金子文子の死後、救援活動をしていた人物の手元に残された文子の原稿などをまとめ、歌集と自伝が刊行されたが、歌集は発禁処分となった。その悲惨な成長期の境遇や、自力で学習し大正期日本の数少ない女性社会主義思想家として成長する姿など、社会思想家だけでなく女権拡張家などにも注目される存在となった。
 

○12.25 大正天皇(48)崩御(ほうぎょ)。摂政裕仁親王践祚(せんそ)し、昭和と改元する。


 かねてから葉山御用邸で病気療養中の大正天皇が、気管支炎・肺炎などから心臓麻痺をひき起こし、この日1時25分に逝去した。その死去の2時間後には、摂政を務めていた皇太子裕仁ヒロヒト)が践祚式を行い、時の若槻内閣が新元号「昭和」を発表した。政府では「光文」が予定されていたが、発表前に漏れたため改めて昭和に定められたという。

 翌年2月7日には新宿御苑において大葬(たいそう)がとり行われ、「大正天皇」と追号された。ちなみに在位中の天皇を固有名で呼ぶのは畏れ多いとされ、今上・聖上・お上などと呼び、亡くなった後に追号がおくられるのは昭和天皇も同じ。

 大正天皇は、1879年(明治12年)、明治天皇の第三皇子として誕生、生母は典侍(女官の長・側室でもない)柳原愛子であり、明宮嘉仁(はるのみや・よしひと)と命名された。生来健康に恵まれなかったが、明治天皇と皇后一条美子(昭憲皇太后)との間には子供が無く、側室出生の親王らもすでに薨去していたこともあり皇太子となった。

 天皇の後継としての必要から皇后一条美子の養子となり、皇族でなかった実母柳原愛子とは、ほとんど接見を許されなかったもよう。生来の病弱に加えて寂しい家族生活を送り、学習院に入学するも学習は進まなかったという。


 満18歳となると、成年式をひかえ、15歳の九条節子(さだこ)と婚姻の儀を終えると、側室を置かず一夫一妻を貫き、4人の男子をもうけるなど、家庭生活には恵まれ、子煩悩な親としての側面を見せたと言う。皇太子時代には健康も立て直し、天皇に代って沖縄県を除く日本全土を行啓し、併合前の大韓民国をも訪問している。

 1912年(明治45年/大正元年)、明治天皇崩御を受けて践祚し「大正」と改元。3年後の1915年(大正4年)に京都御所即位の礼を行う。しかしその後、生れながらの病弱にくわえ、天皇としての公務による過労・心労が体調の悪化をもたらし、大正10年には、20歳になった皇太子裕仁親王昭和天皇)が摂政の宮として、実質の公務を代替することになった。

 人前に姿を現す事の無くなった大正天皇については、さまざまな噂がかけ巡らされた。その嚆矢が「遠眼鏡事件」と言われるもので、大正天皇が国会開会の詔書を読み上げる時に、丸めた詔書を望遠鏡のようにして議員たちの方を覗いたというのだ。ただし、丸めて置いてある詔書を広げるときに、さかさ向けに開かないようにと、ちょいと筒先から中を見た仕草が、尾ひれがついてそのように流布されてしまったという説もあり、真偽はさだかではない。

 時の政府や宮廷は「病弱」ということで通したが、生来の虚弱病弱に加えて、知的障害・精神病などの噂も庶民の間では噂された。大正天皇は肺病で、弱った肺は金で覆ってあるなどという、子供心にもあり得ないと分かる話まで耳にしたこともあった。そして、1926年12月25日午後、美子皇后の配慮で臨終の床に呼ばれた実母柳原愛子に手を握られて、大正天皇は息を引き取ったと言われる。
 

*この年
モガの断髪が流行/ハンドバッグが洋装の必需品に/十姉妹・セキセイインコなど小鳥の飼育が人気
【事物】予約演奏会(日本交響楽協会)/電車の自動ドア/電波指向方式八木アンテナ/青年訓練所
【流行語】文化○○(文化住宅・文化なべ・文化たわしなど)/モダーン/円本
【歌】酋長の娘(新橋喜代三)/この道/関の五本松/ヨサホイ節
【映画】足にさわった女(阿部豊)/狂った一頁(衣笠貞之助)/鉄路の白薔薇(仏)
【本】川端康成伊豆の踊子」(文芸時代)/吉川英治鳴門秘帖」(大阪毎日新聞)/改造社現代日本文学全集」刊行開始(円本時代の始まり)/「驢馬」創刊