『Get Back! 40’s / 1949年(s24)』

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『Get Back! 40's / 1949年(s24)』

(8月で満1歳になる、写真は春先のようで、まだ1歳前だと思われる)
 
○1.26 [奈良] 法隆寺金堂から出火、模写中の壁画12面が全焼する。

 1月26日早朝、法隆寺の金堂に火災が発生した。当時は模写事業のため解体中で、一部の文化財は無事であったが、模写中の壁画12面が焼損した。出火原因はさまざまな説があるが、結局原因不明で不審火とされた。インド・アジャンター石窟群の壁画、敦煌莫高窟の壁画などと並び、アジアの古代仏教絵画の到達点を示す文化財であったが、焼損のためその価値は失われた(壁画は黒焦げ状態で保管されている)。


 昭和30年代には、焼損した壁画中の写真の菩薩像が、封書に貼られる10円切手に描かれていたので、いまでも記憶にとどめてる人が多いと思われる。翌年の金閣寺焼失と併せて、戦時中の空襲の火災から焼失を免れた貴重な文化財が、戦争が終わってから焼け落ちるのは極めて残念なことである。

 現在、法隆寺金堂にある壁画は1967年から1968年にかけて、当時の著名画家たちによって模写されたものである。焼け焦げたオリジナルの壁画は、法隆寺内の大宝蔵殿の隣の収蔵庫に、焼け焦げた柱などと共に保管されているが公開はされていない。


○3.15 [ウランバートル] モンゴルのウランバートルにある日本人捕虜収容所で、ソ連人に迎合した自称吉村隊長(池田重喜)が同胞を酷使・虐殺したリンチ事件が、朝日新聞で報道される。(暁に祈る事件)


 第二次大戦終結後、ソ連軍のモンゴル・ウランバートルの収容所において、抑留されていた日本人捕虜の間で引き起こされた組織的リンチ事件。ソ連軍から日本人捕虜の隊長に任じられた池田重善元曹長は、労働ノルマを果たせなかった隊員などにリンチを加え、多数の隊員を死亡させていたとされる。暴行のあと裸にして一晩中木に縛り付けておくと、明け方には失神したり息が絶えたりして、首をうなだれている姿が祈りを捧げているように見え、仲間の隊員たちは「暁に祈る」と呼んだという。池田は収容所内で吉村久佳の変名を名乗っていたため、「吉村隊事件」とも呼ばれる。


 この事件は抑留から帰国後の1949年3月に、朝日新聞がスクープしたことから世間に知られることになり、池田元曹長は逮捕起訴され、懲役3年の有罪となった。物証など無く元捕虜の証言だけに基づき下された判決のため、池田は無罪だとして再審の申し立てを行ったが、請求は棄却されたまま1988年に亡くなった。

 各地の収容所では、多かれ少なかれ似たような事件があったようである。ソ連軍の収容所では、指示に従わせるために赤化(共産主義化)教育して、思想に忠実な者を日本人捕虜のリーダーに抜擢する。リーダーになったり帰還を早めたいため、積極的に思想を学んだり、それに染まった振りをしてリーダーの立場を得ようとする者もいたようだ。そのような者にかぎって、同胞の抑留者に対しては権力を振るうことになる。

 抑留から帰還の船の中では、抑留中のリーダーに対して、仕返しの逆リンチなどもあったと言われる。戦争の悲惨に加えて、その後にも多くの悲惨を生んだということである。
 

【戦後日本経済の健全化】

○3.7 [東京] 米のドッジ公使が、経済9原則の実施に関する声明を発表する。(ドッジライン)
○4.23 [東京] GHQが、円に対する公式為替レート設定の覚書を公布する。(1ドル=360円 固定為替レート制)
○8.26 [東京] 米のシャウプ税制使節団長が、第一次税制改革勧告文概要を発表する。(シャウプ勧告

 デトロイト銀行頭取ジョゼフ・ドッジが、米政府公使として来日、GHQ経済顧問として、日本経済の自立と安定のために経済安定9原則を提示した。ドッジは当時の日本経済を竹馬にたとえ、片脚は米国の膨大な援助、他方は国の補助金に頼っており、竹馬のように不安定なバランスとなっているとした(竹馬経済)。ドッジ勧告は、次のような項目を含んでいた。

・緊縮財政や復興金融公庫融資の廃止による超均衡予算
・徴税システムの改善
・日銀借入金返済などの債務償還の優先
・複数為替レートの改正による、1ドル=360円の単一為替レートの設定
・戦時統制の緩和、自由競争の促進


 ドッジの勧告に従って、4月23日にはGHQによって円に対する公式為替レート設定の覚書が公布され、以後長く続いた1ドル=360円の固定為替レート制が施行されることになる。8月26日には、カール・シャウプ率いる日本税制使節団(シャウプ使節団)による日本の税制に関する報告書(シャウプ勧告)が公表され、旧来の複雑化した税制を改革し、合理的公平な税体系への移行を示した。

 ドッジラインなどの戦後経済の健全化政策は、極度の戦後インフレを収拾した。とともに、その徹底した緊縮財政政策は、反動的にデフレを進行させ、失業や倒産が相次ぐ「ドッジ不況」(安定恐慌)を引き起こした。しかし翌年の朝鮮戦争勃発により、朝鮮特需と呼ばれる戦時物資や役務の調達に伴う需要が増大し、この特需により奇跡的な不況からの回復を果たした。

 終戦直後の日本は、生産産業の壊滅により、極度の物資不足で急速なインフレーションが進んでいた。喫緊の課題は生産力増強による供給力拡大で、必要最小限な物資の充足を図ることであった。第1次吉田内閣は、「傾斜生産方式」を策定し、鉄鋼、石炭などの基幹産業に資材・資金を超重点的に投入、それを契機に産業全体の拡大を図る経済政策をとった。

 傾斜生産方式は次の片山内閣、芦田内閣でも引き継がれた。それにより鉱工業生産は拡大し、日本経済は復興に向かったが、復興金融金庫による過剰な資金投入になどにより、「復金インフレ」と呼ばれるインフレーションが亢進した。そこへ復興金融金庫融資をめぐる汚職事件「昭電疑獄」が発生し、方向転換をはからざるを得なくなる。


 ドッジラインでは、統制経済色の強い傾斜生産方式から、自由競争経済への方向転換をめざし、緊縮財政により「企業合理化」という名の非効率企業の整理を進めた。引き起こされる一時的な不況も、能率や生産コストの良好な企業に資金が集中することで、国際的に競争力のある産業の生長で克服することを目指した。

 写真はドッジ公使と握手する白洲次郎。日本で最初にジーンズを着こなした男と言われる白洲は、英ケンブリッジ大学留学中に欧米文化になじみ、駐英大使であった吉田茂と知己を得た。戦後、吉田が内閣を組織すると、請われて外交ブレーンとしてGHQとの交渉などで活躍する。ドッジ来日時には「経済安定本部」次長に就任しており、さらに貿易庁長官に就くと、旧商工省を改組し「通商産業省」(現 経済産業省)を設立、のちの高度成長期を支えた通産省の枠組みを確立した。
 

【列車恐怖時代】

○7.5 [東京] 下山定則国鉄総裁が、登庁の途中で行方不明となる。6日、常磐線の北千住-綾瀬間の線路上で轢死体となって発見される。(下山事件
○7.15 [東京] 中央線の三鷹駅車庫から無人電車が暴走し、6人が即死する。(三鷹事件
○8.17 [福島] 東北本線金谷川-松川駅間で旅客列車が脱線転覆、3人が死亡する。(松川事件

 この一ヶ月余りの間に、関東・東北の国鉄線で「下山事件」、「三鷹事件」、「松川事件」という重大事故が相次いで発生した。これらは戦後の「国鉄三大ミステリー事件」と呼ばれ、一部容疑者は逮捕され有罪判決も下りたが、事件全貌の解明はほとんどなされなかった。


 7月5日、日本国有鉄道国鉄)が発足し、その初代総裁に就任したばかりの下山定則が、出勤途中で失踪し、翌未明、国鉄常磐線北千住駅 - 綾瀬駅間の線路上で轢死体として発見された。行方不明および死亡の理由は不明であり、自殺説・他殺説両方が飛び交ったが、事故原因は未解明のままに終わった。一部新聞が「鉄道マンは鉄道自殺をしない」と報じるなど、他殺事件説も強く示唆された。(下山事件


 10日後の7月15日夜には、国鉄中央本線三鷹駅構内で、7両編成の無人電車が暴走、車止めを突き破って脱線転覆した。事故では、突っ込まれた商店街で一般人6名が即死、負傷者も20名出す大惨事となった。国労組合員で日本共産党員10人と非共産党員であった元運転士竹内景助らが、ストライキから革命を引き起こすために行った共同謀議による犯行として逮捕された。裁判は二転三転する迷走を続け、最終的に竹内による単独犯行とし、死刑判決が下された。竹内は無実を訴え続けたが、のちに45歳で獄死する。(三鷹事件


 8月17日未明、東北本線松川駅 - 金谷川駅間のカーブ入り口地点で、先頭の蒸気機関車が脱線転覆、後続車両も脱線し、機関車の乗務員3人が死亡する事故が発生した。現場検証では、付近の線路を固定するボルト・ナットや犬釘が、緩められたり抜かれたりしているのが発見された。捜査当局はこの事件を、当時の大量人員整理に反対していた東芝松川工場労働組合国鉄労働組合構成員の共同謀議による犯行と見て捜査を行った。

 元国鉄線路工の少年の自供から、東芝労組員や国労組合員の合計20名が逮捕された。一審判決では被告20人全員が有罪うち死刑5人という判決が下されたが、裁判が進むにつれ捜査機関による重要証拠隠蔽などが明らかになり、10年以上に及ぶ5回の裁判の結果、最終的に被告全員に無罪判決が確定した。(松川事件

 戦後のGHQによる解放路線のため、共産党員や労働組合の活動が自由化されたが、それらが想定を超える過剰な運動になったため、いわゆる「逆コース」により締め付けが厳しくなっていた。またドッジライン施行による「安定恐慌」により、国鉄をはじめ大手企業では合理化のための大量解雇が頻発していた。そんな背景の下で、一部左翼活動は地下に潜り先鋭化する一方で、警察やGHQなどの特務機関が暗躍するなど、目に見えない地下の流れが渦巻いていた。そのような背景の下で連続して起こった奇怪な国鉄事故であった。
 

【敗戦日本を鼓舞するニュース】

○7.19 映画『青い山脈』が公開された。石坂洋次郎の小説『青い山脈』を映画化した作品で、監督今井正、主演原節子池部良で撮影され、その戦後の生き生きとした青春群像は、敗戦で打ちひしがれた日本人に明るい希望をもたらして大ヒットした。>
https://www.youtube.com/watch?v=bAKmKJxtWZg


 石坂洋次郎の小説『青い山脈』が映画化され、戦後の希望にあふれる青春像を描き大ヒットした。今井正監督、主演 原節子 池部良で、主題歌は藤山一郎奈良光枝が歌い、その軽快なメロディは青春歌謡として愛唱された。その後も数回、その時代を代表する男女タレント主演で映画化されている。

 原作者石坂洋次郎は、「明るく健全な青春文学」で代表されてしまうような流行作家として受け止められたが、本人はその評価には反発していたという。物語は、東北地方の港町を舞台に、若者の男女交際をめぐる騒動をさわやかに描いた青春小説で、作者の青森県弘前高等女学校の教員としての経験を素材として書き上げた。

 作品中のラブレター文に、「恋しい恋しい私の恋人」と書くべきところ、「変しい変しい私の変人」としたという滑稽なエピソードは名高い。そんな間違いするだろうかという疑問があるが、旧字体の「戀」と「變」だと、紛らわしいのが分かる。
 
○8.16 [アメリカ] ロサンジェルスの全米水上選手権大会で、古橋廣之進と橋爪四郎が1500m自由形でともに世界新記録を出し、1、2位となる。


 敗戦国として1948年のロンドンオリンピックへの日本の参加は認められなかったが、ロンドン五輪と同時開催された日本水泳選手権で、古橋廣之進は400m・800m自由形で当時の世界記録を超える記録をだし、一躍、敗戦で打ちひしがれた国民を勇気づけるヒーローとなった。

 翌年8月には、ロサンゼルスでの全米選手権にライバル橋爪四郎らとともに招待され、400m・800m・1500m自由形のすべてで世界新記録を樹立、当地の新聞で「フジヤマのトビウオ」(The Flying Fish of Fujiyama)とたたえられた。1952年、戦後日本が参加を認められた初のヘルシンキオリンピックに出場したが、その時すでにピークを過ぎていたため惨敗、しかしNHKラジオ実況のアナウンサーは涙声でそれまでの古橋の奮闘をたたえた。
 
○11.3 [スウェーデン] 湯川秀樹京大教授に対し、ノーベル物理学賞授与が発表される。


 湯川秀樹京大教授は、大阪帝国大学講師の1934年(昭和9年)、中間子理論構想を発表、1935年(昭和10年)、「素粒子の相互作用について」を発表、中間子(現在のπ中間子)の存在を予言した。アインシュタインオッペンハイマーらと親交を持ち、一部の先端研究者からは戦前から研究を評価されていたが、戦後1947年(昭和22年)になって実際にπ中間子が発見されたことで1949年(昭和24年)にノーベル物理学賞を受賞することとなった。

 湯川は日本人として初めてのノーベル賞受賞であり、敗戦・占領下の日本国民に大きな力を与えることになった。湯川秀樹は地質学者小川琢治の三男として東京で生まれたが、すぐの京都に転居しほとんどの生涯を京都で過ごす。湯川スミと結婚し養子となって湯川姓となるが、小川琢治の子には、長男小川芳樹(冶金学者)、次男貝塚茂樹東洋史学者)、三男湯川秀樹(物理学者)、四男小川環樹(中国文学者)と連なり、学者一家として有名である。
 

 ドッジ不況や謎の鉄道事故連鎖といった暗い世相の中で、これら各分野における明るいニュースは、敗戦でダメージを受けた国民を鼓舞することになった。やがて朝鮮特需などを経て、力強い経済復興や高度成長経済に繋がってゆく。私たち団塊世代が、将来に夢を描ける成長期をすごしたことは、戦後の50年を規定したと言えるが、その後の50年は未だ見えない霧の中にあるようである。
 

*この年
アメリカンファッション全盛/ビアホール復活
【事物】成人学校/香料入り広告/お年玉付年賀ハガキ/JISマーク
【流行語】厳粛な事実(労農党代議士松谷天光光と民主党代議士園田直の結婚)/ノルマ/ワンマン
【歌】銀座カンカン娘(高峰秀子)/悲しき口笛美空ひばり
【映画】晩春(小津安二郎)/野良犬(黒沢明)/戦火のかなた(伊)
【本】日本戦没学生手記編纂委員会「きけわだつみのこえ」/三島由紀夫仮面の告白」/チャーチル第2次大戦回顧録