『Get Back! 40’s / 1946年(s21)』

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『Get Back! 40's / 1946年(s21)』
 
○1.4 GHQ連合国軍総司令部)が、軍国主義者の公職追放および超国家主義団体の解体を指令する。(公職追放
○2.28 公職追放令が公布される。

 1946年1月4日附連合国最高司令官覚書「公務従事に適しない者の公職からの除去に関する件」により、「公職に適せざる者」を追放することとなった。連合国最高司令官覚書を受け、同年に「就職禁止、退官、退職等ニ関スル件」(公職追放令)が勅令として公布・施行された。さらに翌年「公職に関する就職禁止、退職等に関する勅令」で改正され、公職の範囲が広げられた。

 公職追放によって政財界の重鎮が去り、中堅層に代替わりすることになった。政界では保守層の有力者の大半が追放された結果、左派勢力が大幅に伸長した。財界産業界ではトップが引退し、中堅管理職の若手が一気に重役になり、当時は「三等重役」と呼ばれたりした。産業界ではむしろこれによって、若手経営者による新取な試みがなされて、好結果をもたらしたというメリットもあった。

 この年4月10日に行われた戦後初の総選挙では、日本自由党が比較第一党となり、自由党総裁の鳩山一郎が就任を目前にしていたが、GHQの指示で公職追放の対象となる。戦前は外交官として、終戦を早めるために動くなど反軍部的な立場だったため、公職追放から免れた吉田茂は、戦後貴族院議員として幣原内閣で外務大臣を務めたが、鳩山の代わりに総裁に就任することになった。「追放が解けたらすぐに返す」との約束で首相の座に就いた吉田だが、鳩山の復帰後も5回8年ににわたって内閣総理大臣を務め、1954年末にやっと鳩山政権が成立した。

 20万人にまでのぼったという公職追放は、A級戦犯などとは桁違いの影響を日本の社会に及ぼした。官僚に対する追放は比較的不徹底で、治安に必要な司法・警察関係などは旧来の人脈が温存されたが、戦前の思想に寄与したような学界教育界や報道関係に対する公職追放は徹底された。このような、教育界やジャーナリズムの「民主化」を意図したGHQの施策は、かえって行き過ぎた「左傾化」をもたらすことになり、その後の「逆コース」政策でレッド・パージなどその是正措置が極端に揺れ動く。

 このような、行き過ぎた占領政策の見直しの一環として、公職追放の緩和や追放解除が行われた。やがて、公職追放令はサンフランシスコ平和条約発効(1952年)と同時に施行された「公職に関する就職禁止、退職等に関する勅令等の廃止に関する法律」により廃止されることになる。
 

○5.3 [東京] 極東国際軍事裁判東京裁判)が開廷される。

 極東国際軍事裁判東京裁判)は、日本が降伏した後の1946年(昭和21年)5月3日から1948年(昭和23年)11月12日にかけて行われた。裁判の被告は、「平和に対する罪」(A級犯罪)、「人道に対する罪」(C級犯罪)および「通常の戦争犯罪」(B級犯罪)という3つの容疑に分類され裁かれた。B級・C級の被告などは、多くは戦争現地で開廷された不備な軍事裁判で裁かれたが、東京裁判ではもっとも重要とされたA級戦犯28名が起訴された。逮捕出頭前に自殺したものが5名おり、起訴された者のうち、大川周明精神障害で訴追免除、永野修身松岡洋右は判決前に病死したため、25名が被告として判決を受けた。

東条英機の頭をはたく大川周明 >https://www.youtube.com/watch?v=hwaEgrfEcsI

 1948年11月に下された判決は、死刑7名(東條英機/板垣征四郎/松井石根/土肥原賢二/木村兵太郎/廣田弘穀/武藤章)、終身刑16名、有期禁固刑2名であり、同12月23日、7名の絞首刑は執行された。なお収監されていた受刑者は、獄中死亡者をのぞいて、1956年3月末時点ですべて仮釈放されている。

 石原莞爾のように戦犯指名を免れた者や、岸信介のように戦犯指名されながら不起訴となったもの、また本来は軍国主義者でなかった文民広田弘毅のように、首相として軍国主義者に流されたとして死刑に処された者もいる。東京裁判を、戦勝国による戦敗国を裁いたものだとか、「平和に対する罪」が事後法であって罪刑法定主義の原則に逸脱するとか、裁判としての不備を指摘されるのはもっともである。しかし、あくまで「軍事裁判」であり、あまりにも不当な戦争の事後処理として、裁判の不当性は、戦争自体のはらむ不当性に起因するものとしての必要悪だとも考えられる。正当な戦後処理裁判など、かつて一度もなかったし、当然と言えば当然でもある。

 私事だが子供の頃の実家には、何か漢語が書かれた額が掲げてあった。本文は読めなかったが、「畑俊六」という署名落款があったのだけは鮮明に憶えている。家族の誰もがその謂れも人物も知らず、奥の間の飾りとして掲げてあった。父親が、友人の古道具屋の片隅に無造作に転がしてあったものを、ただでもらってきて掲げただけだという。のちになってから、畑俊六がA級戦犯として、東京裁判無期懲役刑の判決を受けた人物だと知った。戦前戦中ならばそれなりの価値のある揮毫であっただろうと思うと、なぜかその額をいとおしく思ったものである。
 

○5.19 [東京] 食糧メーデーが宮城前で開催される。

 1946年5月19日に日本の東京都の皇居前で行われた「飯米獲得人民大会」は、政府の食糧配給遅延に抗議する集会で、皇居前広場には各種団体のデモ隊が集結した。この年5月1日には11年ぶりに本来のメーデーは開催されていたが、この日の盛り上がりぶりから「食糧メーデー」とも呼ばれた。

 戦争による食糧事情の極度の悪化に、前年収穫期に襲った台風被害などが重なって、国の食糧配給は滞り、闇市での食料は極端に高騰していた。各地で「米よこせ大会」が巻き起こっていたが、特に都市部の食糧不足は深刻であった。さらに、GHQの指令で徳田球一共産主義者が釈放され日本共産党が合法政党として再結成されたり、労働運動の活発化で日本社会党が大幅に勢力を拡大するなど、社会主義運動の拡大の兆しがあり、これらの団体がデモや集会を強力にリードするという背景があった。

 根源は民衆の空腹にあったが、それを組織した運動は政治的なイデオロギーを帯び、鳩山一郎の代理で就任したばかりの吉田茂首相の組閣そのものを阻止する方向に向けられた。状況を察したマッカーサーは、翌日、社会党共産党の政治的意図を牽制する声明を出しデモ隊はを散会させた。それと同時に、食糧問題の特別使節団として派遣されていたフーヴァー元大統領は、90万トン近い食料を日本に供給すべきと米政府に進言し、その通り緊急食糧供給が実行された。

 事態を心痛した天皇は、ラジオ放送で「食生活の安定は重要で、ともにこの窮状を分かち合い切り抜けよう」と呼びかけ、吉田首相は農林大臣に革新官僚を起用するなど、無事に組閣を終えた。その上、幸いにも同年は気候が安定し豊作となったため、極端な食糧危機は回避された。

 GHQによる戦後の「公職追放」や「民主化解放政策」は、穏健な民主勢力が養成される以前に、貧困を基盤にして極端な左翼勢力が伸長する結果を呼んだ。この食糧メーデーは、それが認識される最初の出来事だった。その後の朝鮮戦争を経ることで、GHQ占領政策は、「逆コース」と呼ばれた大幅な転換を余儀なくされた。
 

○11.3 日本国憲法が公布される。(翌1947.5.3 施行)

 日本国憲法は、1946年(昭和21年)11月3日に日本国憲法として公布され、その6か月後の翌年1947年(昭和22年)5月3日に施行された。1.「国民主権」の原則に基づいた象徴天皇制、2.個人の尊厳を基礎に「基本的人権の尊重」、3.戦争の放棄・戦力の不保持・交戦権の否認という「平和主義」は、日本国憲法を特徴づける三大要素と言われる。

 1945年ポツダム宣言を受諾し、そこで要求された民主化体制を実現するためには、事実上、憲法の改正が必須とされた。そこで、占領中のGHQの監督の下で「憲法改正草案要綱」を作成し、その後の紆余曲折を経て起草された新憲法案は、大日本帝国憲法の改正手続に従うという形で公布施行された。

 昨今の憲法改正論議は、その内容が現状にそぐわなくなったので改正すべしというのが一つ、もう一つは、その制定過程がGHQに押し付けられたものだと言うのが根拠となる。これらが翻然と混じり合って論議されているが、今は内容については触れないで、その制定の経緯を振り返ってみる。

 まずマッカーサーの指示で、実質的には幣原内閣が憲法問題調査委員会(松本委員会)を設置して、憲法改正の調査研究を開始した。一方で、国民の間にも憲法問題への関心が高まり、政党や知識人などから多数な民間憲法改正案が発表された。しかし、その多くは旧憲法に手を加えたものに過ぎず、そうこうする内に憲法問題調査委員会の試案が新聞にスクープされたが、「あまりに保守的、現状維持的なものに過ぎない」との批判を受けた。

 かくしてGHQは、独自の憲法草案の起草作業を始めた。GHQは、日本の民間から発表された草案の中でも、象徴天皇制を掲げた憲法研究会の「憲法草案要綱」に注目して、いわゆる「GHQ憲法草案」の作成作業がはじめられた。マッカーサーは、「マッカーサー・ノート」とされる基本三原則を、憲法草案起草の責任者とされたホイットニー民政局長に示し、GHQ憲法草案(マッカーサー草案)は練り上げられる。

 GHQは起草作業を急ぐ一方、日本政府に対して政府案の提出を要求し、松本委員会より「憲法改正要綱」「憲法改正案ノ大要ノ説明」等がGHQに提出された。しかしその政府案は保守的すぎると拒否され、逆にGHQ憲法草案が提示され、それを基に改正案を起草するように指示された。政府はそれを受け入れ、改定作業を進め「憲法改正草案要綱」として発表した。その後、ひらがな口語体の条文化としたものが「憲法改正草案」として公表された。

 マッカーサーGHQ憲法草案を提示し、それに沿った日本政府による「憲法改正草案」を急がせた背景には、「極東委員会」の存在があったとされる。極東委員会は、日本を連合国が占領するに当たり、日本を管理するため設けられた政策機関で、ソ連アメリカ・イギリスを中心に11ヶ国の戦勝国代表によって構成される機関で、いわばGHQ行政の上位に位置する機関であり、日本国憲法の制定に当たっては委員会の承認を必要とするとされた。

 日本政府が情勢を把握せずに保守的な改正案を出しているうちに、現実の日本行政にはうとい極東委員会の判断にゆだねると「天皇制の廃止」を要求される懸念があった。戦後日本の統治に当たって、天皇制の維持は有効であると考えたマッカーサーは、極東委員会の介入を極力排除しようとし、「象徴天皇制」のもとに天皇を残すために、本国米国政府も驚く如くに新憲法案を支持する声明を出し、新憲法の公布施行にこぎつけた。

 押し付け憲法云々より以前に、日本国憲法の制定には、国の外からと内からの双方の力が働いていたと考えるべきであろう。もちろん連合国最高司令官のもとで、大日本帝国憲法の決定的な変革が求められたことがその一つ。一方で、日本の真の民主化を希求する勢力が、旧来の天皇主権から人民主権を勝ち得ようとし、その二つの流れの狭間であみ出されたのが「象徴天皇」であるとするべきではなかろうか。
 

*この年
主食の遅配が続く/宝くじなどの売上げ10億円/伝染病が流行/出版社の創業あいつぐ

【事物】接吻映画/婦人議員/婦人警察官

【流行語】あっ、そう/愛される共産党/カストリ

【歌】リンゴの歌(霧島昇並木路子)/東京の花売り娘(岡晴夫

【映画】はたちの青春(佐々木康)/わが青春に悔なし(黒沢明)/カサブランカ(米)

【本】創刊雑誌(「世界」「展望」「リーダーズダイジェスト」など)/ヴァン・デ・ヴェルデ「完全なる結婚」/尾崎秀美「愛情はふる星のごとく」