『Get Back! 70’s / 1978年(s53)』

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『Get Back! 70's / 1978年(s53)』

#そのころの自分#
 この時期、デパート量販店担当から一般小売店へと担当が替わった。しかも毎日営業車で、あの明智光秀が「敵は本能寺にあり」といって折り返したという峠を越えて、はるか丹波地方へ行くというローカル地域の担当。まあデパート部門の上司と喧嘩して放り出されたわけだが、これはこれで楽しかった。

 夏場は保津川下りの起点となる亀岡保津大槁下の河原に車を下ろして、ドアを開け放って涼風に吹かれていねむる(当時、車にエアコンなし)。冬場は、まれに雪が数センチ積でもると、もう峠越えは無理と一日社内でぶらぶら時間をつぶす。仕事さえ慣れてしまえば、なんとも気楽な営業マンであった。
 
○3月 [東京] 原宿に「ブティック竹の子」が開店する。

 このころから'80年代に掛けて、原宿歩行者天国や代々木公園入口などで、中高生を中心としたグループが、もち込んだラジカセから流れるディスコサウンドに乗り、奇抜なファッションで終日踊りまわった。原宿竹下通りに開店した「ブティック竹の子」で購入した奇抜なファッションなどから、「竹の子族」と呼ばれだしたという。

 '60年代にも「みゆき族」や「サイケ族」などというグループがあったが、それらはファッションを見せるだけで、特別なパーフォーマンスはしなかった。竹の子族は集団でステップを踏み、しかも年齢層がハイティーンで、それまでの族よりはかなり若い。

 そして彼らの風俗が、その後の原宿の街全体のイメージを変えた。アニメブームとも相まって、竹の子族はコスプレファッションの元祖とも言えるのかも。おもなグループ名一覧があったので、一部、並べてみる。

愛羅舞優(あいらぶゆう)・加速装置 (アクセル)・悪夢瑠(アムール)・異次元 (いじげん)・恵女羅流怒(エメラルド)・可愛娘不理子(かわいこぶりっこ)・呪浬悦賭 (ジュリエット)・・・暴走族グループ名とも少し違う、いわゆるキラキラネームを想像した(笑)


 
 
○3月 [千葉] 開港反対派ゲリラが成田空港管制塔を破壊。開港が大幅に遅延する。
○5月 [千葉] 新東京国際空港(現「成田国際空港」)の開港式が行われる。

 '62年に新国際空港の建設が閣議決定されてから16年、やっと開港が目前にせまった3月26日、ほぼ完成した成田空港に空港反対派4千人が突入、一部別動隊が管制塔を占拠し準備完了していた管制塔通信機器を破壊した。これにより開港は2ヶ月以上遅れることになり、やっと5月20日に開港式典がとり行われるはこびとなった。

 当初の反対運動は地元農民たちが主であり、それを支援する社会党共産党などの既成政党は、反対運動を党勢拡張に利用しようとしたりして、反対同盟から追出される形で脱落した。その隙間へ新左翼が参入してきて、反対運動は過激さを増してゆくことになった。

 70年安保問題が決着して以降、新左翼運動は大きな活動テーマを見失う形になり、世間の関心の外におかれるようになった。赤軍派のような過激武装路線をとった急進派は、有力幹部らが国外に脱出して海外テロやハイジャックを連発した。日本残留組は、指揮系統の弱体化をともなって、内部分裂や身内リンチ事件をひき起こし、浅間山荘事件などで殲滅された。

 別の新左翼セクトらは、農民大衆との共闘をうたえる成田の空港反対運動に目をつけた。国家権力側も、赤軍派のような遊離した跳ね返りなら実力行使で鎮圧できるが、地元農民・住民を巻き込んだ反対運動は、おいそれと鎮圧行動には出られないため、その沈静にまで多くの時間と犠牲を払うことになった。

 やっとのことで開港にこぎつけた「成田国際空港」であるが、その後の拡張工事など残された問題も多く、いまだ反対運動さえある。当初、東・東南アジアのハブ空港を期待されたが、開港までの長期におよぶ工事遅延の上に、空港自体の機能制限(滑走路・離着陸時間制限・利用料金の高さなど)、さらには首都圏中心部からの遠さ及び移動料金の高さなどの問題をかかえ、シンガポールチャンギ国際空港や韓国の仁川(インチョン)国際空港などに遅れをとっている。

 さらに、羽田空港東京国際空港)への国際線乗り入れや、首都圏第三の空港としての茨城空港の開港、さらには関西国際空港などとの競合により、相対的な地盤沈下さえ心配される。近年増加一方の LCCなど格安航空への対応など、さらに一層の競争にさらされることになるであろう。


 
 
○4月 [東京] キャンディーズ解散 5万5000人の聴衆に「私たちは幸せでした」

 「普通の女の子に戻りたい」という名言を残したキャンディーズ、その言葉は後に、都はるみ「普通のおばさんになりたい」に無事継承された。突然引退宣言をしたので半年延長されて、この4月4日、後楽園球場(東京ドームはまだない)の特設ステージで、史上空前の5万5千人のファンをあつめ解散コンサートが開かれた。

 最後に述べた「本当に私たちは、幸せでした」の口上も、「普通の女の子の幸せ」に共感するファンたちの歓声につつまれた。キャンディーズに関心がなかった私などでも、この二つの言葉とキャンディーズが結びついて記憶に残された。そして、写真の某大臣も、若き日の一ファンとして涙を流したことであろう。

キャンディーズ・メドレーで>
www.youtube.com



 
 
○9月 [京都] 1895年開業の京都市路面電車が全廃される。

 日本最初の路面電車は、明治28年、民間会社の京都電気株式会社(京電)によって開通した。東京遷都により衰退が懸念された京都は、東京政府からの「手切れ金」を活用して「琵琶湖疏水」の大事業と取組んだ。琵琶湖の湖面と京都市街地の間には50mの落差があり、その高低差を利用して京都市内に疎水を引く。そしてその京都への入り口「蹴上」に、これも日本初の発電所を設置した。コンプレックスの裏返しだろうが、かように京都人はやたらに「日本初」というのが好きなのである(笑)

 かくして日本最初の電力を利用して、日本初の路面電車を走らせた。のちに市営の「京都市電」に吸収されたが、戦前戦後を通じて市電網が、京都独特の碁盤の目の道路上に張りめぐらされた。最盛期の路線図(写真2)で緑で囲まれた矩形部分は、旧洛中をほぼ含み、ほぼ京都の市街地を構成していた。

 電停名を見れば分るが、京都の地名は南北の通りと東西の通りとの交差で表されることが多い。たとえばJR京都駅からタクシーに乗り「四条」と行き先を告げると、意地の悪い京都人運転手なら「はい、四条のどちらどすか?」などと前方を向いたまま聞き返す。「四条通は東から西の端まで5kmぐらいある通り、そのどこか分らんじゃないか」ということを慇懃無礼に言っているのである(笑)

 開業時の「京電」を偲ばせる路線も、昭和36年に廃止されるまで堀川の東(東堀川通り)に沿って走っており、「チンチン電車」として親しまれた(写真3)。線路幅も狭くマッチ箱のような車体で、乗降口のドアはなく鎖掛け、チンチンと発車音を鳴らして出発する。実際に走っているのは見たが、残念ながら乗る機会はなかった。

 写真1は旧国鉄京都駅前から烏丸通を北に向かう市電、昭和40年代だと思われ、京都駅も旧駅舎が写っている。のちにモータリゼーションが進むと、さほど広くない京都の主要道路の真ん中を走る電車軌道は邪魔にされるようになってきた。そして昭和53年9月全面廃止となった。なつかしいグリーンとクリームのツートンカラーの電車車両は、いまでも地方の都市で活躍していると言う。


 

(追補)
 戦後まもなくの時期に、先代の木造駅舎が火災消失したため、仮駅舎として急造されたのがこの駅舎。薄っぺらなモルタル鉄骨駅舎は、京都の正面玄関なのに恥ずかしいという声が多かったのに、貧乏国鉄は長年、建て直す甲斐性もなかった。
 40年後にやっと新築されることになった現駅ビルは、国内外の7人の建築家による指名コンペで競われた。黒川紀章安藤忠雄という一般にも著名な建築家も参加していて、黒川などは羅城門をイメージした、120mの巨大な黒い門を建てる案を出してあっけなく落選w
 結局、原広司設計のポストモダンな建築が選ばれた。しかしこの建築には、審査員の一人で哲学者(らしいw)梅原猛らが批判している。それらの批判的な意見は、おおむね「古都の京都らしくない」というところに行きつく。
 京都らしいとは何ぞや? そんなもんは、世界遺産の神社仏閣がひしめく京の街中・郊外に腐るほど「本物」があるのに、えざわざコンクリのレプリカで、観光客を出迎える必要があるのか(笑)
 半世紀前に京都タワーができたときも、駅前玄関口に巨大なペニスをおったててどーする(実際は蝋燭を模した)、なんて意見もあった(笑) 文句はいくらでもあるだろうし言うのは勝手だが、出来たものは出来たもの、それをめでる方が現実的というもんだ。
 youtubeなどで見ると、外人観光客たちが、駅ビルの大階段や50mの大屋根や吹き抜け空間を、もの珍しそうに撮影したものがたくさん挙げられている。それらからは、好意的に楽しんでいるのがうかがえる。

 完成して20年にもなるのに、数度しか駅ビルに行ったことがないが、外観はあまり具体的なイメージがない。むしろ、内部の大空間の開放性と、階段を上下して移動する立体迷路のような空間は、グリット構成のガラス天井と合わせて、子供の頃のパイプのジャングルジムで遊んでいるような楽しさがある。
 「エッフェル塔を見たくなければエッフェル塔に上れ、京都駅ビルを見たくなければ、駅ビル内を徘徊せよ」(笑)

 
○11月 [東京] 巨人軍と江川投手が野球協約の盲点をついて選手契約を結ぶ。以後、球界が紛糾する。

 この年のドラフト会議の前日、読売ジャイアンツ江川卓投手との電撃的な契約を発表した。当時の野球協約では、前年指名した選手との交渉権はドラフト会議の前々日とされていた。会議前日は、翌日のドラフト会議に備えての、関係者の移動や準備のためのドラフト閉鎖日という考えであり、このような「空白の一日」を利用しようとしたのは読売側のみであった。

 江川周辺の近親者や取巻きが取り仕切ったという噂もあって、江川本人がどれだけ関わっていたかは不明だが、少なくともグレーゾーンでの契約だとは認識していたと思われる。翌日予定通りにドラフト会議が実施され、阪神タイガースが江川の交渉権を得た。当然ながら問題は錯綜し、最終決定権を持つ金子コミッショナーは巨人軍の契約を無効としドラフト会議の結果を正当とした。

 ただし、「江川は阪神と入団契約した上で巨人にトレードさせる」という「強い要望」を添えた。セリーグからの離脱も辞さないという巨人軍正力オーナーの脅しもあり、巨人寄りの傀儡コミッショナーがゆるゆる裁定を下したというわけだ。タイガース側も馴れ合いで、結果的に当時エースの小林繁との交換トレードが成立した。

 江川もドラフトに関しては不運だった。高校ですでに「怪物」と呼ばれ、卒業時には大学進学希望を公表するも、阪急ブレーブスに指名される。拒否するも慶応のセレクションに落ち、法政大学に進学。大学で活躍し4年後、巨人指名を強く希望するも、クラウンライター・ライオンズという不人気球団が強行指名。再度、江川側は拒否して、アメリ野球留学という事実上の野球浪人を選ぶ。

 かくして再々度、巨人の指名を期待してのドラフトを迎え、「空白の一日」という巨人側の提案にのることになる。相思相愛という大義名文でゴリ押しした巨人は、小林というエースの放出という犠牲をになうも念願の江川獲得となった。阪神にトレードされた小林は、翌年22勝をあげ沢村賞を獲得、対巨人戦でも無敗だった。

 
 
*この年
ファミリーレストランが盛況/ディスコ・ブーム/健康器具がヒット/タンクトップ流行/アメリカでエイズ患者発見
【事物】超音波美顔機/マイルドウォッカ樹氷」/ホーム・カラオケ
【流行語】窓際族/サラ金/家庭内暴力
【歌】ガンダーラゴダイゴ)/プレイバックPart2(山口百恵)/UFO(ピンクレディ)
【映画】スターウォーズ(米)/サタディ・ナイト・フィーバー(米)
【本】吉行淳之介「夕暮まで」/有吉佐和子和宮様御留」/ガルブレイス「不確実性の時代」