「郷土誌散策 京の七野 紫野をあるく」

「郷土誌散策 京の七野 紫野をあるく」
 


・茜指す紫野行き標野行き 野守は見ずや君が袖振る(額田王
 

 先回はこの歌の紫野と勘違いしたが、あらためて、京の北の洛外にひろがる「紫野」を歩いてみよう。現在「紫野」との地名が付いている地域を、おおよその赤丸で囲ってある。
 

○紫野

 船岡山から北を眺める。中央の建物が紫野高校の校舎、その向こうや右手に広がる森は今宮神社や大徳寺の境内である。母校の卒業アルバムからとった写真なので、校歌も書かれている(笑)
 鳥辺野(とりべの・洛東)、化野(あだしの・洛西)、蓮台野(れんだいの・洛北)は、平安京以来の三大葬送の地であった。しかし、火葬・埋葬されるのはごく一部の階級だけ、庶民は風葬・野葬といって野辺に放置して自然風化にまかせたようだ。「野」という言葉を付けて呼ばれる土地には、このような野葬の場という意味をもつものがある。
*蓮台野 たしかに祖父が亡くなったとき(s31)、金閣寺の裏山方面にあった火葬場で荼毘に付した。かつての葬送地 蓮台野の名残であろう。

 さらに「京の洛北七野」と呼ばれる場所があり、「内野、北野、平野、上野、紫野、蓮台野、〆野(点野・しめの)」がそれ(若干異同あり)とされる。これらの「野」には上記とは別に、「禁野(きんや・しめの)」として、朝廷関係の狩猟、菜摘、遊覧の地であって、庶民を入れないで保護されてきた地域のことでもあった。

 古来、紫草は染料を取る草であり薬草でもあったが、紫草ゆかりという「紫野」の名も、そのような貴族たちの薬草園からきたとも考えられる。また「〆野・点野・標野」はすべて「しめの」であり、標(しるし)を付けて囲った地を意味する。要するに、貴族の男子は鷹狩りなどを楽しみ、女性たちは野で薬草などを摘む、そんなピクニック地と想像すれば良いかも知れない。
 ただの郊外の野原であった平地やゆるやかな丘陵地が、その使われ方により「禁野」として貴族たちのアウトドア・レジャーの地になったり、庶民たちの野葬される地になったりしたとも考えられる。放置された遺体が腐乱して紫色に光っていたから「紫野」だという、おそるべき説もあり、野葬の地とされた「蓮台野」とも隣接していて、その境界は曖昧である。

 今昔物語集 巻二十八第二には「頼光の郎等共、紫野に物見たる語」という笑話がある。源頼光の四天王と言われた坂田公時(金太郎の逸話の元になった人物)ほか三名の屈強な武士が、警護の仕事をさぼって「賀茂祭」(いまの葵祭)を見物に行く算段をする。目立たぬように女車に隠れて女官を装い、乗り慣れない牛車にガタゴト揺られて紫野方面に向う。戦では馬上猛きツワモノも、慣れない牛車ではすっかり車酔いしてぐったり。のた打ちまわっている間に行列は通りすぎ、ほうほうの体で主の館に帰り着いたとか。
 
 
船岡山

 京都の人間が「この前の戦争」というときは「応仁の乱」を指すとか、いやそうではなく「この前の戦は蛤御門の変」だとか、ヨタ話は措くとしても、船岡山はその応仁の乱で西軍が陣取り「西陣」という地名の由来となった。風水でいう四神(玄武、青龍、朱雀、白虎)で、平安京の北を守る玄武に相当するという説もあるが、どうも後付け説かと思われる。とはいえ、位置的には、まさに平安京の真北にあるため、都の北部を守る玄武に例えられるのも無理もない。

 標高百メートル強の小山で、丘陵一帯が公園として整備されている。丘の東南部には「建勲神社」があり、これは信長の死後、秀吉が信長を祀る廟を建設し、それが明治になって建勲神社として復興された。葬送の場でもあり、刑場になったり、切腹の場が設けられたり、言うまでもなく何度かの戦の場にもなった。また、枕草子で「岡は船岡」と触れられ、徒然草でも「(都の死者を)鳥部野、舟岡、さらぬ野山にも、送る数多かる日はあれど、送らぬ日はなし」と言及されている。
船岡山公園の頂上広場などには、ラジオ塔や警報搭が残っている。戦時中に、空襲警報や戦争情報が流されたという。今は中の機器は取り払われてガランドウ、子供たちのカクレンボの基地となっていた。


 
大徳寺高桐院

 写真は高桐院の参道の四季の様子、この竹の垣と敷石でできた参道が気に入っている。院内にある庭園は「楓の庭」と呼ばれ、一面の苔地の中に数株の楓が植えられた趣のある庭である。

 高桐院は、臨済宗大徳寺派大本山大徳寺塔頭のひとつで、細川忠興(三斎)によって建立され、細川家菩提寺となっている。忠興は利休七哲の一人としても知られる茶人でもあり、「松向軒」と呼ばれる茶室が残されている。サンダルを履いて庭に降りると細川家の墓所があり、忠興とガラシャ夫人の墓塔となっている春日灯籠や細川家代々の墓が並ぶ。さらに藪を挟んだ裏手には非公開の墓地があり、そこには細川忠隆(長岡休無)、出雲阿国名古屋山三郎、興津弥五右衛門などの墓もあるという。

 森鴎外は『興津弥五右衛門の遺書』という短編で、興津弥五右衛門の殉死を描いた。鴎外(軍医の長であった)は、面識のあった乃木希典の(明治天皇への)殉死の知らせを聞くと、すぐに筆をとりこの小説を書き上げたという。弥五右衛門は主君 細川三斎に忠実に仕え通し、その遺骨をゆかりの高桐院に納めて供養も済ませた後、殉死としての切腹を願い出た。高桐院の墓所を出て、船岡山麓に設けられた仮屋で切腹するまで、その間の数百メートルには藁むしろ数千枚が敷かれたという。まるでオスカーのレッドカーペットを歩むかのような晴れがましさである。殉死が、本人にとってそれぐらい晴れがましい名誉と思われたと、鴎外は描き出している。

 
○今宮神社

 平安遷都以前から社があったとされるが、遷都後に都に疫病が大流行、それを鎮めるために「紫野御霊会」が行われた。それが毎年五月に行われる今の「今宮祭」の起原で、疫神を祀った社には神殿・玉垣・神輿が造られて「今宮社」が成立した。ほかにも、八百屋の娘が将軍家光の側室となり、5代将軍綱吉の生母となった「玉の輿」の桂昌院「お玉さん」を祀った社や、西陣織の振興を願った「織姫神社」など、幾つもの末社が境内にある。

 動画にリンクした「やすらい祭」は、今宮祭とは別に、毎年四月第二日曜日に行われる祭りで、今宮神社、玄武神社、川上大神宮、上賀茂(岡本やすらい堂)の4つのやすらい踊保存会によって伝承されている。重要無形民俗文化財に指定され、鞍馬寺の「鞍馬の火祭」、広隆寺の「太秦の牛祭」とともに京都の三大奇祭の一つに数えられている。桜の満開の下で、赤鬼・黒鬼に扮した青少年が、鐘と太鼓にあわせて「やすらへ はなよ」と舞い踊る様子は奇観でもある。

「やすらい祭」>https://www.youtube.com/watch?v=mEs6a0JfbW8


 東門参道には、向かい合わせに二軒の「あぶり餅」屋がある。一説によると、一方の「一和一文字屋」が創業千年、他方の「かざり屋」が四百年といわれる。高校生の時には、このあぶり餅屋に入り浸っていた。学年ごとにたむろする店が異なり、幕末の尊王佐幕よろしく対峙していた(笑)