『Get Back! 60’s / 1964年(s39)』

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『Get Back! 60's / 1964年(s39)』
#そのころの自分# 4月に高校入学、夏すぎから親しい遊び友達ができて、それ以降、昼も夜もあそび呆けた。行動範囲も増えて、一気に大人気分の最も楽しい時期であった。
  
○1月「殺人鬼、西口彰 つかまる」
 詐欺・恐喝などで前科4犯の西口彰は、’63/10 福岡で二人を殺害したのに始まり、’64/1 に逮捕される3ヶ月間に、各地で合計5名を殺害した。早期に指名手配されながら、大学教授や弁護士などを騙って逃走、先々で強盗殺人や詐欺を繰り返した。

 自動車の普及や交通事情の発展で、広域にまたがった凶悪事件が注目された。この事件をうけて、「広域重要事件特別捜査要綱」が策定され、各地警察の連携による、迅速な捜査体制が整備されることになった。
 なお、直木賞受賞作・佐木隆三復讐するは我にあり』は、この事件を題材にしたもので、後日、テレビドラマ化もされた。

 
○3月「BGはいやよ OLと呼んで」
 家庭に電化製品が普及し、企業のオフィスで働く女性も増えた。近代的ビルの中のオフィスで働く女子事務員は、当時の若い女性の希望する職種でもあった。

 そういう女子事務員は BG(ビジネスガール)と呼ばれていたが、「英語でBGは売春婦をさす」という噂が流れ、この機運に便乗して週刊誌『女性自身』は、東京五輪をひかえて呼び変えようとキャンペインをはった。

 読者に公募した結果「OL(オフィスレディー)」が選出された。その他の上位候補は「オフィス・ガール」「サラリー・ガール」「キャリア・ガール」「ビジネス・レディー」という。実際の1位は「OG」だったが、編集長の判断で「OL」に差し替えられたそうだ。

 
○4月「『平凡パンチ』創刊」
 若者男性をターゲットにした『平凡パンチ』は、またたくまに、ファッションから遊びなど、若者のライフスタイルを網羅したリーディング・マガジンとなった。

 当時、美大の学生であった大槁歩は、7年間余りの390号まで表紙絵を担当し、その描くイラストに登場するアイヴィーファッションを真似する若者が多く登場した。

 
○5月「『スキヤキ』百万枚突破」
 作詞 永六輔、作曲 中村八大、歌 坂本九は、「六八九トリオ」と呼ばれてヒットを飛ばしていた。’61年に発売された『上を向いて歩こう』もヒットし、坂本九はその年の紅白に出場したが、必ずしも全般的に評価されたものではなかったという。

 その後欧州で紹介され、英国では、ジャズインストルメントで「SUKIYAKI」として演奏された。契約で来日した関係者が、その際に食した「すき焼き」が気に入ったというだけの理由らしい。場合によっては「SUSHI」や「TEMPURA」になっていてもおかしくなかったわけだ(笑)

 そしてアメリカでは、坂本九の日本語のままのオリジナル版でキャピトル・レコードから発売され、ビルボード誌で3週連続トップの大ヒットとなったのである。
 同時代には、米教育リーグに派遣されていた村上雅則投手が、たまたま見出されて、日本人最初のメジャーリーガーとして活躍した。当人らの実力も当然だが、幾つもの偶然が伴ってこそのアメリカデビューという点で、よく似た事例だ。

 ちなみにジャケット写真の「SUKIYAKA」は、誤植ではなく、英語で韻を踏むためだったというが、正式版では改められたという。ある意味、お宝ジャケットかも。
『スキヤキ』>https://www.youtube.com/watch?v=C35DrtPlUbc

 
○9月「今はなつかし!『ガロ』創刊」
 『ガロ』は、従来の貸本系のにおいを色濃く残した漫画誌だった。それまでの少年を対象にした既存の漫画雑誌では、「カムイ伝」のような壮大な構想と思想性を濃く持った作品は掲載されづらかった。そこで貸本業界の名物編集者や白土三平が、自身の作品を含めて既存に無い作品を掲載できる漫画雑誌を創った。

 その後、「シュール・不条理」などの語で語られる、つげ義春の「ねじ式」なども掲載され、これまでの少年漫画には無かった斬新な思想性や文学性が持ち込まれた。大学生など青年がおおっぴらに漫画を読み出したのも、この時期からだった。フォーク、ロックの洗礼を受けた若者や、’70年安保をひかえて急進性をます新左翼系学生なども、一種のバイブルのように読みふけった。

 少年漫画の傑出した大家であった手塚治虫も、この新しい流れに脅威を感じ、自身で『COM』を創刊して対抗した。手塚は超大作「火の鳥」の連載を始めて、ガロの「カムイ伝」の向うを張った。

 
○10月「えらいことだ 新幹線スタート」
 東京オリンピックを十日後にひかえ、滑りこみで新幹線が開通した。車内で急病人が発生するなどのハプニングで、[当時の]国鉄自慢のCTC(列車集中制御装置)と列車無線などがフル活用されたもよう。当時はまだ「夢の超特急」と呼ばれていたが、その夢が実現した瞬間。

 
○10月「なんとなくうれしかった 東京オリンピック開幕」
 この情景をみて、やはり感激の涙を流した人を非難はできない。赤のブレザーに純白の帽子、靴、スラックスorスカートの大選手団。このころの日本は気合が入ってましたねえ(笑)

 
○11月「佐藤内閣発足 また別の日本が始まりそうだ」
 池田首相が病気辞任し、佐藤栄作内閣が始まった。60年安保の岸首相の実弟である。結果的には60年、70年安保という改定国会を、兄弟が荷ったわけである。

 そのイメージに反して、以後7年8ヶ月に及ぶ長期政権を、ひたすら「待ちの姿勢」で通し、70年安保をクリアし、沖縄返還を実現し、あげくにノーベル平和賞まで受賞した。この高度成長期には「何もしない」のがもっとも政治的な善であった。かつて週刊誌に寛子夫人が「若い頃主人に殴られたことがある」と述べた記事が出たことがあり、訪米時の米誌には「ワイフ・ビーター(妻を殴る男)」として紹介されたことがある。

 
○1964年(s39) TV人気番組
「逃亡者」(TBS)
ひょっこりひょうたん島」(NHK
七人の孫」(TBS)
「ただいま11人」(TBS)
狼少年ケン」(NET)
「バークにまかせろ」(NTV)