【10th Century Chronicle 921-940年】

【10th Century Chronicle 921-940年】

 

承平・天慶の乱

*935.2.-/常陸 平将門が伯父常陸大掾平国香と前大掾源護と争い、国香を殺す(平将門の乱始まる)。

*835.10.21/常陸 平将門が叔父の平良正を破る。

*936.7.26/下野 平将門が、伯父の下野介平良兼らを破る。

*937.8.6/常陸・下総 平良兼が、子飼渡で平将門を破る。

*937.9.19/常陸 平将門が、平良兼を服織宿に破る。

*937.12.14/下総 平将門が、平良兼を石井で破る。

*938.2.29/信濃 平将門が、上京途上の平貞盛千曲川で破る。

*938.2.-/武蔵 興世王源経基と武蔵武芝との争いに、平将門が介入する。

*939.3.3/京都 武蔵介源経基が上京し、平将門らの謀反を訴える。

*939.11.21/常陸 平将門が、常陸国府を襲撃し印鎰を奪う。

*939.12.15/上野 平将門が、下野についで上野を陥し、新皇と自称して除目を行う。

*939.12.21/伊予 前伊予掾藤原純友の反乱が報告され、諸国に逮捕を命じる(藤原純友の乱始まる)。

*940.2.14/下総 平将門が、平貞盛藤原秀郷らに敗れ殺される。(4.25藤原秀郷が将門の首を献上する)
*940.-.-/瀬戸内 藤原純友の乱が広がる。

*941.6.20/伊予 藤原純友が、日振島で殺される。

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 「承平天慶の乱」は、承平・天慶の元号間の同時期に起きた、関東での「平将門の乱」と瀬戸内海での「藤原純友の乱」の総称であるが、将門と純友が呼応して反乱を起こしたものではない。

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平将門の乱

 承平5(935)年2月、前常陸大掾源護らの抗争に関わり、源護の三兄弟を打ち破り、続いて、将門の父良将の遺領をかってに簒奪していたとされる、伯父の国香を襲い殺してしまう(平将門の乱勃発)。これをきっかけに、関東の土着平氏の一族間で抗争が起こり、叔父の良兼・良正・国香の子貞盛らを打ち破った将門は、国衙にも侵入する。

 やがて将門は、武蔵権守興世王を助けて、天慶2(939)年11月、常陸国府軍と戦うこととなり、常陸介藤原維幾を打ち破ると、国衙は将門軍の前に陥落し、将門は印綬を奪取した。それまで東国での一族間での私闘に過ぎないと見なしていた朝廷も、この事件により朝廷に対しての謀反と判断することになった。

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 将門は関東を制圧して「新皇」と自称し独自の除目を行い、関東に独立勢力圏を打ち立てようとした。将門の反乱の報が京にもたらされ、また同時期に西国で藤原純友の乱の報告もあり、朝廷は驚愕し、天慶3(940)年1月、参議藤原忠文征東大将軍に任じ、追討軍を出立させた。

 国香の子平貞盛は、下野国押領使藤原秀郷と力をあわせて兵を集めていたが、一方、農作業に兵を返していた将門の手許にはわずかの軍勢しか残っていなかった。しかし将門は、時を失ってはならずとして出陣する。

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 天慶3(940)年2月14日、貞盛と秀郷の連合軍と将門の合戦がはじまった。当初、風に目ぐまれ将門軍は矢戦を優位に展開するが、急に風向きが変わり連合軍は反撃に転じたところ、先頭に立ち奮戦していた将門は、将門の額に矢を受け討死する。

 藤原忠文の正規の追討軍の到着する前に、将門の死により、その関東独立国は僅か2ヶ月で瓦解した。将門の首は藤原秀郷によって京にもたらされ、梟首とされた。将門を討った秀郷・貞盛は叙爵され、秀郷はのちの奥州藤原氏の祖となり、忠盛の家系からは伊勢平氏平清盛が生み出すされることとなる。

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 中世になると、将門塚(平将門を葬った墳墓)の周辺で天変地異が頻繁に起こり、これを将門の祟りと恐れた当時の民衆を静めるために、延慶2(1309)年には神田明神に合祀され、江戸時代には幕府により、神田明神は江戸総鎮守として重視された。

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 また討ち取られた将門の首は、京都の七条河原にさらされたといわれるが、ある夜、首が己れの胴体を求めて東の方へ飛んでいったと言い伝えられ、この将門の首に関連して、各地に首塚伝承が出来上がった。最も著名なのが東京大手町の平将門首塚である。この首塚を取り除こうとすると事故が起こるとされ、現在でも東京都心に鎮座している。

 

藤原純友の乱

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 東国で将門の乱が発生していた承平・天慶の頃、瀬戸内海では海賊による被害が頻発していた。藤原純友藤原北家の出身だが、早くに後見を失い中央での出世はかなわず、従七位下伊予掾として伊予の国に赴任、瀬戸内の海賊を取り締まる側にあった。

 しかしながら、任期後も帰京せずそのまま伊予に土着、承平6(936)年頃までには海賊の頭領となり、伊予の日振島を拠点として周辺の海域を荒らしまわり、瀬戸内海全域に勢力を伸ばした。

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 藤原純友の勢力は畿内にもおよび、天慶2(939)年には純友は、部下に摂津国須岐駅において備前播磨国の介を襲撃させ、翌天慶3(940)年には、2月に淡路国・8月には讃岐国国府を、さらに10月にはついに大宰府を襲撃し略奪を行った。

 朝廷は純友に対し追捕の兵を差し向け、天慶4(941)年5月に博多湾の戦いで、純友の船団を壊滅させた。純友は伊予へ逃れ潜伏するが、6月に伊予警固使により討ち取られる。将門の乱はがわずか2か月で平定されたのに対し、純友の乱は2年に及んだ。

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 将門と純友は、ともに若い時に京で朝廷に中級官人として出仕していたとされるため、比叡山に登り平安京を見下ろし、ともに乱を起こして都を奪い国を建てようと誓い合ったという伝承がある。将門が桓武天皇の子孫だから天皇になり、純友は藤原氏だから関白になろうと約束したとまことしやかに語られる。

 しかし両者の共同謀議の痕跡は何もなく、ともに都での出世の途は絶たれて地方に下り、自らの力で地位を確立するために闘っているうち、成り行きから武装蜂起に追い込まれて、朝敵とされてしまったという色合いが強い。

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 これらの乱は平安朝末の武士団の勃興と結びつけられることが多いが、彼らに「武士団」を組むという明確な意識があったかどうかは疑わしい。中央での出世が望めない下級貴族や舎人などが、国司荘官として地方に下り、自らの領地を守るために武装したり、武芸をたよりに治安維持の任につくなどし、必要に迫られて武力を蓄えて行った。

 地方勢力どうしで武力闘争を行ううちに、国衙国司の領域を侵略することにより、反乱を起こす側になったり、それを鎮圧して勲功認定を得ようとする側になったりした。それがやがて、武力を専有した武士として自立していったと考えられる。

 

(この時期の出来事)

*927.12.26/ 延喜式律令の施行細則)50巻が完成する。

*930.6.26/京都 清涼殿に落雷し、公暁らの死者が出る。

*934.12.27/土佐 紀貫之が任地土佐の大津を出発し、帰京の途に就く。 

*935.-.-/京都 紀貫之が「土佐日記」を著す。

*938.-.-/京都 空也上人が、念仏を唱え庶民を教化する。

 

 

【10th Century Chronicle 901-920年】

【10th Century Chronicle 901-920年】

 

古今和歌集

*905.4.18/ 醍醐天皇が、紀友則紀貫之らに「古今和歌集」の編集を命じる(初の勅撰和歌集)。

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  「古今和歌集」は醍醐天皇の勅命によって編纂された、最初の勅撰和歌集であり、延喜5(905)年4月18日に、紀友則紀貫之凡河内躬恒、生壬生忠岑らに編纂を命じられたとされる。

 古今集には仮名序・真名序の二つの序文が添えられているが、仮名序には紀貫之の署名があり、貫之が編纂の中心になったと見られる。「万葉集」以後の古い時代から撰者たちの時代までの和歌が撰ばれており、一部の長歌・旋頭歌を除けばほとんどが短歌である。

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  二十巻からなる選出された歌は、四季に分類された歌と、慶賀歌・離別歌・旅情歌・哀傷歌など内容で分類された歌があるが、なかでも恋歌が五巻を占めている。所載歌のうち4割ほどが読人知らずの歌であり、また撰者4人の歌が2割以上を占める。

 古今和歌集は中世以降、その講義や解釈が次第に伝承化され、やがて「古今伝授」と称されるものが現れた。これは古今集が、歌を詠む際の手本・基準とすべきものになったことを意味し、一方では新たな革新が為されなくなることでもあった。

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 古今が歌のお手本という風潮は明治にまでも続くが、一方で、賀茂真淵などにより、「万葉集」の「ますらをぶり」と対比して、古今は「たをやめぶり」すなわち女性的であるとする評などが登場する。

 明治には、短歌の革新を目指す正岡子規らが、「万葉集」の和歌が素朴雄大で生活に密着しているのに対して、古今は定型化した花鳥風月を歌う貴族趣味に堕したものだという批判が出された。

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 現在でも大勢は変わらず、学校の国語教育などでは万葉集が称揚されることが多いが、私自身は高校の古文で初めて、伊勢物語古今集のロマンに触れて文学に目覚めたという経験もあし、著名文学者にも、三島由紀夫のように古今を高く評価する者も居る。

  古今和歌集の冒頭に添えられた、紀貫之による「仮名序」は、古今集編纂の経緯の解説であるとともに、他方で日本で最初の優れた歌論でもある。そこでは、編者紀貫之らの先の時代の優れた歌人たちに言及し、そこで評された僧正遍昭在原業平文屋康秀喜撰法師小野小町大伴黒主の六人は、のちに「六歌仙」と呼ばれるようになる。

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  なかでも入集30首と最も多い在原業平は、「その心あまりて、ことばたらず。しぼめる花のいろなくて、にほひのこれるがごとし」と評されている。次に多い僧正遍昭は「歌のさまはえたれども、まことすくなし」、唯一の女流歌人小野小町には「あはれなるやうにて、つよからず。いはば、よきをうなの、なやめるところあるににたり」と、好きなことを言っている(笑)。

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 あとの3人は入首は少ないものの、「ちかき世に、その名きこえたる人」と6人並べて触れられているが、文屋康秀は「ことばはたくみにて、そのさま身に負はず」、喜撰法師は「ことばかすかにして、始め終り、たしかならず」、大伴黒主に至っては「そのさまいやし」などとクソミソに評されている。

 

(この時期の出来事)

*901.1.25/筑前 菅原道真大宰権帥に左遷される(昌秦の変)。

*901.8.2/ 左大臣藤原時平らが、勅撰史書日本三代実録」50巻を完成する。

*901.-.-/ このころまでに「竹取物語」「伊勢物語」ができる。

*903.2.25/ 菅原道真(59)が大宰府で没。

*904.3.-/ 宇多法王が、仁和寺に御室を造営し移る。

*907.11.15/ 藤原時平らが延喜格を完成する。

*913.3.12/京都 宇多法王が、亭子院歌合を催す。

*914.4.28/ 学者三好清行が、意見封事12ヶ条を提出する。

*920.5.5/ 小野道風が能書により内裏昇殿を許される。

*920.12.28/ 醍醐天皇が皇子高明親王らに源姓を与える(醍醐源氏)。

 

 

 

【9th Century Chronicle 881-900年】

【9th Century Chronicle 881-900年】

 

藤原基経

*884.2.4/ 太政大臣藤原基経陽成天皇を廃して、23日陽成天皇の曽祖父任命天皇の第3皇子を即位させる(光孝天皇)。

*887.11.21/ 太政大臣藤原基経が、関白となる(人臣関白の初め)。

*887.閏11.21/ 太政大臣藤原基経の関白辞表に対して、宇多天皇の勅答文が出る。

*888.6.2/ 藤原基経が関白となり、実務に就く(阿衡の紛議)。

*891.1.13/ 藤原基経(56)没。

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 藤原基経中納言藤原長良の三男として生まれ、時の権力者で男子がいなかった叔父 良房の養嗣子となった。貞観8(866)年の応天門の変では、左近衛中将として、養父良房の意をくんで動き、大伴氏、紀氏といった名族へ打撃を与えるのに尽力した。

 その後も順調に昇進し、貞観14(872)年右大臣を拝すると、同年、摂政だった養父良房が薨去、代わって実権を握った。基経の実妹高子は、清和天皇の女御として第一皇子を生んでおり、貞観18(876)年清和天皇は貞明親王に譲位(陽成天皇)し、新帝は9歳と幼少のため、伯父である基経が摂政となった。

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 元慶2(878)年出羽国で反乱を起こした蝦夷を鎮撫せしめ(元慶の乱)、また、元慶3(879)年以降、約50年ぶりに班田収授を実施するなど、行政手腕を発揮し、元慶4(880)年太政大臣に任ぜられる。

 元慶6(882)年陽成天皇元服するが、この頃から関係が険悪になったもようで、基経は辞職を申し出るが、許されなかった。これは天皇元服に伴う儀礼的な意味もあるが、基経に政治的な意図もあり、朝廷への出仕を止め、自邸に引き籠ってしまっている。

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 この確執の背景には、摂政基経と国母である高子との兄妹間の不仲と権力争いがあったとされる。高子が清和天皇との間に貞明親王陽成天皇)・貞保親王・敦子内親王をもうけたにも関わらず、基経は母方の出自が高くない娘を次々入内させ、外孫の誕生を望んだことなどが、高子の反発を招いたと見ることもできる。

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  元慶7(883)年11月、宮中で天皇の乳母の子が撲殺される事件が起きた。宮中では陽成天皇が殴り殺したのだと噂され、他にも陽成天皇のいくつもの乱行が表沙汰になった。元慶8(884)年、基経は天皇の廃立を考えたが適材がなく、仁明天皇の第三皇子の時康親王を55歳で即位させた(光孝天皇)。


 光孝天皇は即位してすぐ、自身の皇子皇女を全員臣籍降下させて、自らの系統に皇位は継がせない意思を示したが、仁和3(887)年光孝天皇重篤に陥ると、基経は仲が悪かった妹高子や陽成天皇の皇統を避け、光孝天皇の子で臣籍降下していた源定省親王に復し、宇多天皇として即位させる。

 仁和(887)3年11月17日に即位すると、宇多天皇は先帝の例に倣い大政を基経に委ねる事とし、基経を関白とするの詔をする。勅書に「阿衡の任をもって」とあるのを、阿衡は中国での軽い職位だと言って、基経は言いがかりを付けた(阿衡事件)。

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 基経が政務を放棄したため、宇多天皇は困り果て、詔勅を書いた橘広相を罷免し、自らの誤りを認める詔を発布する事で決着をせざるを得なかった。この件は、関白藤原基経の権力を、あらためて世に知らしめる事になった。

 宇多天皇と基経との関係は一応修復され、政務を執り始め、仁和4(888)年には娘の温子を女御に上げている。寛平3(891)年病床につき薨去。享年56。基経以後、摂政・関白職は藤原氏に継続される(摂関家)。

 

宇多天皇菅原道真

*886.4.7/讃岐 讃岐国司となった菅原道真が着任する。

*887.11.17/ 光孝天皇崩御宇多天皇が即位する。

*894.8.21/ 菅原道真が遣唐大使に任命される。

*894.9.30/ 菅原道真の建議により、遣唐使の派遣が中止される。

*897.7.3/ 宇多天皇が譲位にあたり、教仁親王醍醐天皇)に「寛平御遺誡」を与える。

*898.9.18/ 菅原道真が、諸参議の参政を進言する。

*900.8.16/ 菅原道真が「菅家集・菅相公集・菅家文草」の三代家集を献上する。

*900.10.10/ 三善清行が、菅原道真に右大臣退任を勧告する。

*9001.1.25/筑前 菅原道真が大宰権師に左遷される(昌秦の変)。 

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 仁和3(887)年11月17日、光孝天皇崩御にともない、宇多天皇が即位する。宇多天皇は、実権を握る関白藤原基経による阿衡の紛議など、基経の嫌がらせに悩んだが、寛平3(891)年1月に基経が死去するに及んで、ようやく親政を開始することが出来た。

 宇多天皇藤原氏外戚がなく、摂政関白も置かず、基経の嫡子藤原時平を参議にする一方、学者の菅原道真を抜擢し重用するなど、藤原北家嫡流ではない人材を活用した。この時期は「寛平の治」と呼ばれ、道真の提言での遣唐使の停止、滝口武者の設置、日本三代実録類聚国史の編纂、官庁の統廃合などが行われ、また文化面でも寛平御時菊合や寛平御時后宮歌合などを行い、多くの歌人を生み出す契機となった。

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 菅原道真は学者の家系に生まれ、幼少より詩歌に才を見せた。文章生として研鑽をつみ重ね、順調に位階を進めて、世職である文章博士を務める。仁和4(888)年の阿衡事件では、勅書の「阿衡の任」という字句解釈に意見書を寄せて、藤原基経を諌める形で事件の収拾に寄与した。

 藤原基経亡き後、宇多天皇の親政下で信任を受けて、要職を歴任することとなる。寛平6(894)年遣唐大使に任ぜられるが、唐の混乱や日本文化の発達を理由とし、遣唐使の停止を提言する。

 

 宇多天皇は寛平9(897)年7月、醍醐天皇に譲位し太上天皇となる。譲位直前の除目では、藤原時平を大納言兼左近衛大将菅原道真権大納言兼右近衛大将とし、双方に内覧を命じ、朝政を二人で牽引するよう命じた。

  醍醐天皇の治世でも道真は昇進を続け、昌泰2(899)年学者として異例の右大臣となり、藤原時平菅原道真が左右大臣として肩を並べた。しかし、道真の朝廷への集権的な政策は藤原氏などの有力貴族の反発を招き、また、儒家としての家格を超えた道真の破格の昇進に対して妬む廷臣も多かった。

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 昌泰4(901)年正月、道真は従二位に叙せられたが、間もなく醍醐天皇を廃立して娘婿の斉世親王皇位に就けようと謀ったと誣告され、罪を得て大宰権帥に左遷される。宇多法皇はこれを聞き、醍醐天皇に面会してとりなそうとしたが、すでに道真の処分は決定されており、4人の男子も流刑に処された(昌泰の変)。

 事件の背景には、宇多上皇醍醐天皇の対立が存在し、醍醐天皇に近づいた藤原時平が、宇多上皇の信任があつい道真の排除に動いたと考えられている。左遷された道真は、大宰府浄妙院で謹慎し、延喜3(903)年2月25日に大宰府薨去する。享年59。

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 菅原道真は、死後になってからいくつもの伝説が語られるようになる。彼の死のすぐあと、臣下の味酒安行が道真を天満大自在天神として祀った。その後平安京では疫病がはやり、日照りが続き、また醍醐天皇の皇子が相次いで病死するなど凶事が続いた。さらには、御所の清涼殿に落雷し多くの死傷者が出す(清涼殿落雷事件)。

 これらは道真の祟りだと恐れられ、朝廷は道真の罪を赦すと共に贈位を行った。清涼殿落雷の事件から、道真の怨霊は雷神と結びつけられた。元々京都の北野の地には火雷神という地主神が祀られており、朝廷はここに北野天満宮を建立して道真の祟りを鎮めようとした。

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 道真の霊は天神信仰と結びつき、道真が亡くなった太宰府では、醍醐天皇の勅命により建立された安楽寺廟、のちの太宰府天満宮に祀られ、その他にも、大阪天満宮(天満天神)など、全国各地に天満宮が祀られるようになった。

 やがて恐ろしい怨霊としてではなく、慈悲の神、正直の神、冤罪を晴らす神、和歌・連歌など芸能の神、現世の長寿と来世の極楽往生に導く神として信仰されるようになった。また、江戸時代以降は、道真が生前優れた学者・歌人であったことから、学問の神として信仰されるようになった。

 

(この時期の出来事)

*888.8.17/京都 仁和寺が創建される。

*889.5.13/ 桓武天皇の曽孫高望王ら5人に平姓を与える(桓武平氏)。

*889.11.21/京都 賀茂臨時祭が初めて行われる。

*892.5.10/ 菅原道真らが、六国史日本書紀続日本紀日本後紀続日本後紀
日本文徳天皇実録日本三代実録)の記事を分類した「類聚国史」200巻を完成する。

*893.9.25/ 菅原道真が「新撰万葉集」を編纂する。

 

【9th Century Chronicle 861-880年】

【9th Century Chronicle 861-880年】

 

応天門の変

*866.閏3.10/京都 御所朝堂院の応天門が炎上する。

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*866.9.22/ 応天門焼失の罪を受けて、伴善男、紀豊城らが流罪となる(応天門の変)。

 

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 大納言 伴善男左大臣 源信と不仲で、源信を失脚させようと、貞観6(864)年源信に謀反の噂があると言い立てたが、取り上げられなかった。貞観8(866)年閏3月10日、朝堂院の応天門が放火され炎上した。

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 伴善男源信が犯人であると告発する。右大臣 藤原良相源信の捕縛を命じて兵を出し、邸を包囲するが、これを知った太政大臣 藤原良房源信を弁護し、源信は無実とされた。

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 事件から数ヶ月後の8月3日に、放火を目撃したという下級官人が名乗り出て、犯人は伴善男・伴中庸親子と紀豊城であると訴えた。伴善男は放火の事実を否認したが、善男の従者が捕らえられ、拷問の末に応天門の放火について自供した。

 9月22日、朝廷(太政官)は伴善男らを応天門の放火の犯人であると断罪、伴善男伊豆国、伴中庸は隠岐国、紀豊城は安房国などに配流され、関係を問われた伴氏・紀氏の有力官人らも排斥された。

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 この処分から程無く源信藤原良相の左右両大臣が急死したために、太政大臣 藤原良房が朝廷の全権を把握する事になった。藤原良房は、清和天皇の勅を受けて公的に摂政となり、有力貴族の伴氏(大友氏)・紀氏らの勢力を追い落とし、圧倒的な藤原北家の権勢を確立した。

 

在原業平と藤原高子

*866.-.-/ 藤原高子、25歳で、清和天皇の女御として入内する。

*877.1.3/ 高子の産んだ陽成天皇が即位する。

*880.5.28/ 在原業平(56)没。

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 在原業平は、六歌仙一人にあげられ歌人として有名だが、桓武天皇の曾孫で平城天皇の子阿保親王の五男という出自であり、官位は従四位上蔵人頭・右近衛権中将を務め、「在五中将」と呼ばれた。

 高貴な身分だが、薬子の変により皇統が嵯峨天皇流へ移されたため、平城天皇の子であった阿保親王の上表によって臣籍降下し、兄 行平らと共に在原朝臣姓を名乗る。薬子の変承和の変に関わりをもち、不遇だった阿保親王の子だが、兄 行平とともに、比較的政治中枢にも上った。

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 しかし何よりも在原業平の名を残したものは、六歌仙に列せられた歌人であり、「伊勢物語」の主人公にも擬せられた、高貴な女性たちとの恋愛遍歴の噂であろう。伊勢物語は、古くから「在五中将物語」とも呼ばれ、明かに業平を主人公としている。

 伊勢物語は、和歌の「詞書」として添えられた簡単な前書き説明が発展した「歌物語」とされ、引かれた歌は圧倒的に業平のものが多いので、主人公とされるようになった。なかでも「二条の后」と呼ばれる藤原高子との秘められた恋は、一連の恋物語を構成している。

 

 《 二条の后との恋路の歌三首 》

”人しれぬ わが通ひ路の 関守は 宵々ごとに うちも寝ななむ”

(人の知らない私だけの通い路の関守は、毎晩毎晩束の間だけでも寝てほしいものだ) 

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”月やあらぬ 春や昔の 春ならぬ 我が身ひとつは もとの身にして ”

(月はちがう月なのか。春は過ぎた年の春ではないのか。私だけが昔のままであって、私以外のものはすっかり変わってしまったのだろうか)

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”白玉か 何ぞと人の 問ひし時 つゆとこたへて 消えなましものを”

(ねえ、あれは真珠かしら、何かしらとあの人が聞いたときに、あれは露と答えて私も露のように消えてしまっていたらよかったのに)

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 さらに伊勢物語の影響を深く受けたとされる「源氏物語」でも、業平は光源氏のモデルのひとりに挙げられる。もっとも光源氏紫式部による創作で、源融藤原道長など何人ものモデルを複合させたものとされている。

 

 藤原高子(たかいこ)は藤原良房の兄 藤原長良の娘で、藤原基経の同母妹にあたる。8歳年下の清和天皇に、25歳で入内し女御となる。貞観10(869)年貞明親王(後の陽成天皇)を産み、貞観18(876)年陽成天皇の即位にともない、皇太夫人、さらには皇太后の尊称を受ける。

 清和天皇東宮のころ、天皇の祖母で高子の叔母でもある藤原順子(五条の后)の邸にて出仕しており、貞観元(859)年、9歳の清和天皇即位にともなう大嘗祭において、五節舞姫をつとめた。五節舞姫になることは将来の后妃候補とされていたが、後見になる実父の長良が病死していたため、入内が遅れたものと考えられる。

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 伊勢物語などで在原業平との恋物語が語られるのは、五条の后の屋敷に住まっていたこの時期のことであろうと思われる。五条の邸の西の対に住まう姫君(二条の后)を、業平が秘かに訪れるという伊勢物語での記述は、ほぼ史実に相当する。

  そして、五条の邸の高子を訪れる業平を妨害したり、高子を別の場所に移したりと、二人の恋路を妨げる役割に「兄人(せうと)」すなわち実兄の藤原基経が登場する。やっと盗み出して駆け落ちする途中、芥川(芥河)で夜を明かす前に鬼に食われてしまうことになるが、実は追っ手の基経たちが取り返したのだと、末尾では種明しされる。

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 しかし藤原高子、時の権力者で同母兄である藤原基経とは折り合いが悪く、基経は高子の子である陽成天皇を退位させ、高子・陽成の血流をはずし、光孝天皇宇多天皇という別の皇統をたててしまう。

 さらに高子は、基経の死後の寛平8(896)年、宇多天皇の時、自らが建立した東光寺の座主善祐と密通したという疑いをかけられ、皇太后を廃されている。この時高子は55歳であり、はたして事実かどうかは不明である。

 

 このような入内前の業平との浮き名や、晩年の密通疑惑などから、高子には、スキャンダラスな二条の后というイメージが付きまとう。

 

 「古今和歌集」には、后位を剥奪されている時の高子の一首が採録されている。

>>二条の后の春のはじめの御歌

”雪のうちに 春は来にけり 鶯の こほれる涙 いまやとくらむ”(古今4)

(まだ雪の残っているうちに春はやって来たのだなあ。谷間に籠っている鶯の氷った涙も今頃は融けているだろうか)<<

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 藤原高子に、額田王小野小町和泉式部のような歌才があり、清少納言紫式部のような文才があれば、このような不名誉なイメージを覆して、王朝史のヒロインとなったかもしれない。 

 

(この時期の出来事)

*863.5.20/京都 神泉苑で御霊会が行われる(御霊会の初見)。

*864.1.1/ 清和天皇元服する。

*866.8.19/ 藤原良房が摂政となる(初の人臣摂政)。

*869.8.14/ 藤原良房らが勅撰史書「続日本後期」20巻を完成する。

 *880.12.4/ 藤原基経太政大臣となる。

 

【9th Century Chronicle 841-860年】

【9th Century Chronicle 841-860年】

 

承和の変藤原北家良房

*842.7.17/ 伴健岑橘逸勢らが、謀反のかどで逮捕される(承和の変)。

*857.2.19/ 藤原北家藤原良房太政大臣となる(人臣太政大臣の初め)。

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 弘仁14(823)年)、嵯峨天皇は弟の淳和天皇に譲位し、ついで皇位は嵯峨上皇の皇子の仁明天皇に引き継がれ、仁明天皇の皇太子には淳和上皇の皇子恒貞親王が立てられた。この間の20年、嵯峨上皇による家父長的支配のもとで政治は安定した。

 左大臣藤原北家冬嗣の次男良房は、弘仁14(823)年、嵯峨天皇の皇女であった源潔姫を降嫁される。藤原良房は、嵯峨上皇と皇太后の信任を得て台頭すると、良房の妹順子が仁明天皇中宮となり、その間に道康親王(後の文徳天皇)が生まれた。

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 実力者良房が道康親王皇位継承を望むようになると、淳和上皇恒貞親王は、皇位争いを避けようと皇太子の辞退を申し入れたが、嵯峨上皇に慰留される。承和7(840)年淳和上皇崩御し、2年後の承和9(842)年には嵯峨上皇も重い病に伏した。

 皇太子に仕える春宮坊帯刀舎人伴健岑とその盟友但馬権守橘逸勢は、皇太子恒貞親王の身に危機が迫っていると察し、皇太子を東国へ移すことを画策、その計画を阿保親王平城天皇の皇子)に相談した。阿保親王はこれに与せず皇太后に上告し、企ては中納言良房からさらに仁明天皇へと伝えられた。

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 承和9(842)年7月15日、嵯峨上皇崩御。その2日後の17日、仁明天皇伴健岑橘逸勢らを逮捕し、京に厳戒態勢をしいた。皇太子は直ちに辞表を天皇に奉り、罪はないものとして一旦は慰留されが、23日になり、左近衛少将藤原良相(良房の弟)が皇太子の座所を包囲、皇太子の関係者ら捕らえ、仁明天皇は詔を発して伴健岑橘逸勢らを謀反人と断じた(承和の変)。

 恒貞親王は皇太子を廃され、伴健岑隠岐へ、三筆の一人といわれた橘逸勢は伊豆に流罪(護送途中、遠江国板築にて没)となり、ほかの恒貞親王に近い者たちも多くが処罰された。事件後、藤原良房は大納言に昇進し、良房の甥にあたる道康親王が皇太子に立てられた。

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 事件とその事後処理に、藤原良房がどの程度関わったかは定かではない。ただし、良房の望んだ道康親王が皇太子に立てられるとともに、古くからの有力貴族であった伴氏(大伴氏)や橘氏に打撃を与え、また同じ藤原氏一族の競争相手であった藤原愛発や藤原吉野をも失脚させ、藤原北家の優勢を決定づけた。

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 嘉祥3(850)年道康親王が即位すると(文徳天皇)、良房は娘の明子を女御として入内させ、明子は第四皇子惟仁親王(のちの清和天皇)を生むと、僅か生後8カ月で立太子させる。斉衡4(857)年には従一位太政大臣に叙任される。

 良房には嗣子がなく、兄 長良の三男 基経を養子とした。また、長良の娘の高子を惟仁親王に嫁がせ、次代への布石も打った。高子は在原業平との恋愛で有名で、伊勢物語では二条の后として登場する。

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 天安2(858)年、文徳天皇崩御に伴い、良房は惟仁親王をわずか9歳で即位させる(清和天皇)。貞観8(866)年の「応天門の変」が起こると、清和天皇が良房に摂政宣下の詔を与え、これが人臣最初の摂政とされるが、事実上は清和天皇即位の時点から、太政大臣として摂政役を務めていたと考えられる。

 応天門の変では、大納言 伴善男が犯人とされて失脚し、連座した大伴氏・紀氏の勢力を宮中から駆逐され、さらに藤原良房の権力が強化され、藤原北家が宮中で独占的な立場を獲得してゆく。貞観14(872)年9月2日薨去。享年69。

 

(この時期の出来事)

*841.12.19/ 左大臣藤原緒嗣らが、続日本紀につぐ勅撰史書日本後紀」40巻を完成する。

*843.12.22/ 筑前の前国司文室宮田麻呂が、謀反の罪で伊豆に配流される。

*847.10.2/ 遣唐僧の円仁が、弟子と唐人を連れて帰国する。

*850.3.28/近江 左近衛少将良岑宗貞が出家し、六歌仙の一人「僧正遍照」となる。

*858.6.22/筑前 唐に渡った円珍が帰国する。

*859.8.-/山城 僧行教が宇佐八幡宮の分霊を祀り、石清水八幡宮を創祀する。

*859.9.3/近江 僧円珍園城寺三井寺)の再興供養をする。

*860.-.-/出羽 円仁が立石寺を開創すると伝えられる。

 

【9th Century Chronicle 821-840年】

【9th Century Chronicle 821-840年】

 

最澄空海

*805.6.-/ 遣唐使藤原葛野麻呂とともに、最澄が帰国し、天台宗を伝える。

*806.8.22/ 空海が帰国し、真言宗を伝える。

*815.-.-/ 最澄が東国での布教活動を始める。

*819.3.15/近江 最澄が、比叡山戒壇設置を請願する。

*819.5.3/紀伊 空海が、高野山金剛峯寺を建立する。

*820.2.29/京都 最澄が「顕戒論」を著し、天台の自立をめざし南都勢力に反論する。

*820.-.-/ 空海が東国に布教を始める。

*821.5.27/讃岐 空海が、讃岐に満濃池の造築を監督する。

*822.6.4/ 最澄(56)没。

*827.5.2/近江 延暦寺戒壇院の設立が認められる。

*828.12.25/京都 空海綜芸種智院を創設し、広く庶民の入学も許される。

*830.-.-/ 空海が、密教の優越性を説いた「秘密曼荼羅十住心論」を著す。

*835.3.21/ 空海(62)没。

 

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 最澄は、767年ごろ近江国に生れ、804年空海とともに留学僧として遣唐使に同行、中国で天台宗を学び、805年帰朝し上洛すると、宮中で病床の桓武天皇の病気平癒を祈る。806年1月には、天台宗の開宗が公式に認められる。

 その後、天台には密教の教えが欠けていたため、空海から真言を学ぶなどしたが、のちに考え方の相違から袂を分かつ。また、南都の学僧と論争、なかでも法相宗の学僧会津徳一との間で激しい論争を展開した。

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 比叡山延暦寺を開山し、戒壇の設立を幾度か請願していたが、弘仁13(822)年6月4日、比叡山の中道院で没、享年56(満54歳没)。没後7日目に、大乗戒壇設立の勅許が下された。これにより、南都六宗から完全独立した天台宗が確立された。

 貞観8(866)年清和天皇より伝教大師諡号が贈られ、以後「伝教大師最澄」と称された。最澄の開いた延暦寺は修行の本山として、平安から鎌倉時代にかけて、良源・源信法然栄西慈円道元親鸞日蓮など、多くの名僧を輩出することになる。 

 

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 空海は、774年讃岐国に生れ、804年最澄らと遣唐使に同行したが、空海の乗った船は嵐に遭い大きく航路を逸れて福州に漂着、空海が州の長官へ嘆願書を代筆し、やっと正規の遣唐使として認められた。

 同年12月に長安入り、翌年2月西明寺に入り、さらに醴泉寺の東土大唐三藏法師や長安青龍寺の恵果和尚に師事し、伝法阿闍梨位の灌頂を受ける。大同元(806)年10月、空海は無事帰朝し、真言仏教を伝える。

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 大同4(809)年、平城天皇が譲位し嵯峨天皇が即位した年、空海は入京し高雄山寺(神護寺)に入る。大同5(810)年、薬子の変が起こると、嵯峨天皇側につき鎮護国家のための大祈祷を行う。弘仁7(816)年6月、修禅の道場として高野山の下賜を請い、弘仁10(819)年春には四方に結界を結び、伽藍建立に着手した(金剛峯寺)。

 弘仁12(821)年、讃岐で満濃池の改修を指揮して、唐で学んだ当時の最新工法を駆使し工事を成功に導く。弘仁14(823)年正月、太政官符により東寺(教王護国寺)を賜り、真言密教の道場となした。後には天台宗密教台密、対して東寺の密教東密と呼ばれるになる。

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 天長元(824)年2月、干ばつがあり、神泉苑で雨乞いの祈祷を行った。この話は、ライバル関係にあった東寺の空海と西寺の守敏の、雨乞い祈祷合戦などとして伝えられ、空海が勝ったため、守敏の西寺は寂れたとされる。

 天長5(828)年には、私立の教育施設「綜芸種智院」を開設し、貴族や学僧だけでなく、広く庶民にも教育の門戸を開いた。さらに、仏教だけでなく儒教道教などあらゆる思想・学芸を網羅する画期的な総合的教育機関でもあったため、日本の大学の嚆矢ともされる。

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 やがて病を得た空海は、真言密教の基盤の強化に精力をこめて尽力したのち、承和2(835)年3月21日、高野山で弟子達に遺告を与え入定。享年62。のちに、醍醐天皇より「弘法大師」の諡号が贈られる。

 

 最澄天台宗空海真言宗は、台密東密と並び称され平安密教の双璧とされる。ただし、天台宗法華経を基盤とした戒律や禅・念仏・そして密教の融合による総合仏教の様式を備えているのに対し、真言宗は仏教各派の教学の中でも真言を最上位に置くことによって、あらゆる思想体系を真言密教に包摂一元化させ、顕教と比べて密教真言密教)の優位性を説く。

 いずれにしても、桓武天皇から嵯峨天皇に至る平安京の草創期には、南都六宗など平城旧仏教に対抗するように、最澄天台宗空海真言宗の平安密教が称揚された。いわば、これら新宗教が平安新都に魂を入れる役割を担ったとも言える。

 

(この時期の出来事)

*825.閏7.2/ 葛原親王の子高棟王に平姓が与えられる(桓武平氏)。

*826.7.24/ 藤原冬嗣(52)没。

*834.1.19/ 藤原常嗣を遣唐大使に、小野篁を副使に任命する。

*834.1.27/ 京都の治安維持にあたる検非違使別当をおく。

*840.-.-/ 広隆寺講堂の阿弥陀如来像・観心寺如意輪観音像が完成する。

 

 

【9th Century Chronicle 801-820年】

【9th Century Chronicle 801-820年】

 

薬子の変

*809.12.4/奈良 平城上皇平城京旧京に移り、藤原式家藤原薬子や兄の藤原仲成らが従う。

*810.9.10/ 平成上皇藤原薬子とともに東国に脱出し、重祚と平城再遷都を狙い兵を起こそうとしたが、嵯峨天皇は機先を制して企てを阻止する。

*810.9.12/ 平成上皇は出家、藤原薬子は自殺、仲成は射殺され、薬子の変は決着する。

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 天武天皇流が続いた奈良時代だが、光仁天皇からは天智天皇流に皇統がもどり、その子桓武天皇は、政事を刷新するため、平城京から山城の国長岡京に遷都する。桓武藤原式家藤原種継を、長岡京造営の造宮使(責任者)に抜擢する。

 ところがその種継が、長岡京造営の途上で暗殺され、そのあとも不吉な出来事が続いたため、桓武天皇長岡京を放棄し、その東北の平安京へ改めて遷都した。

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 桓武は、南都六宗と呼ばれた奈良既存仏教の強い影響力を厭い、その力を削ぐために遷都を選んだが、天武系の一族を始め、遷都反対勢力も多かった。晩年の延暦24(805)年になっても、平安京の造作が百姓を苦しめているとの藤原緒嗣の建言を容れて、造営を中断させている。

  桓武天皇延暦25(806)年3月17日に崩御、その子の平城天皇践祚した。しかし平城天皇は、皇太子時代より妃の母で夫のある藤原薬子を寵愛して醜聞を招き、父より薬子の追放を命じられていた。

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 即位した平城天皇は、薬子を尚侍として手元に戻し、その夫である藤原縄主は大宰帥として九州に赴任させてしまう。宮中では、薬子とその兄の藤原仲成が専横を極め、兄妹は人々の怨嗟の的になった。

 大同4(809)年4月、もともと病弱だった平城天皇が発病するが、これを宮中抗争で亡くなった親王たちの祟りと考えた天皇は、在位僅か3年で皇太弟の嵯峨天皇に譲位し,、大同4(809)年12月、平城上皇として旧都である平城京に移り住んだ。

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 このため平安京平城京に朝廷が並立し、薬子と仲成は平城上皇の復位(重祚)をめざし平城京への遷都を画策する。二所朝廷の対立が深まる中で、大同5(810)年9月6日に平城上皇は、平安京を廃して平城京へ遷都する詔勅を出した。

 嵯峨天皇は遷都を拒否することを迅速に決断し、藤原仲成を捕らえ、薬子の官位を剥奪し、坂上田村麻呂を大納言に昇任させ、藤原冬嗣式部大輔に任じるなど、周囲を固めた。

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 嵯峨天皇の動きを知った平城上皇は激怒し、自ら東国に赴き挙兵することを決断し、薬子とともに東に向かったが、嵯峨天皇の命を受けた坂上田村麻呂に阻止される。挙兵を断念した平城上皇平城京に戻り、直ちに剃髮して仏門に入り、薬子は服毒自殺し、すでに捕縛されていた仲成は処刑される。

 こうして「薬子の変」はあっけなく鎮圧され、事件後、嵯峨天皇は寛大な処置をとることを詔し、上皇は平城法王として名誉をもって遇された。かつては薬子らが中心となって乱を起こしたと考えられていたが、律令制下の太上天皇制度が王権を分掌していることに起因して事件が発生した、という評価の下に、近年は「平城太上天皇の変」という表現がなされるようになった。

 

最澄空海

*805.6.-/ 遣唐使藤原葛野麻呂とともに、最澄が帰国する。

*806.1.26/ 最澄がもたらした天台宗が公認される。

*806.8.22/ 空海が帰国し、真言宗を伝える。

*812.-.-/ 空海の「風信帖」ができる。

*815.-.-/ 最澄が東国での布教活動を始める。

*818.5.13/ 最澄天台宗の根本を説いた山家学生式を定める。

*819.3.15/近江 最澄が、比叡山戒壇設置を請願する。

*819.5.3/紀伊 空海が、高野山金剛峯寺を建立する。

*820.2.29/京都 最澄が「顕戒論」を著し、天台の自立をめざし南都勢力に反論する。

*820.-.-/ 空海が東国に布教を始める。

  

(この時期の出来事)

*802.4.15/陸奥 蝦夷の総帥アテルイが、征夷大将軍坂上田村麻呂に降伏する。

*806.3.17/ 桓武天皇(70)没。

*810.3.10/ 令外官として、内政を仕切る「蔵人所」が新設され、藤原冬嗣らが蔵人頭となる。

*814.-.-/ 勅撰漢詩集「凌雲集」が完成する。

*816.2.-/京都 京の治安強化のため「検非違使」が設置される。

*818.-.-/ 勅撰漢詩集「文華秀麗集」が完成する。