【11th Century Chronicle 1021-40年】

【11th Century Chronicle 1021-40年】

 

藤原道長・頼通の栄華

*1021頃 藤原道長の「御堂関白記」(自筆日記)の記述が終わる。

*1022.7.14/ 藤原道長が法性寺金堂・五大堂の落慶供養を行う。法性寺の諸仏制作の功で、定朝が法橋の位を授かる。

*1023.5.-/ 藤原道長が、娘の太皇太后彰子の住まう上東門第(土御門第)で、田植えを祝って田植女に田楽を行わせる。

*1027.12.4/ 藤原道長(62)没。

*1029.3.23/ 関白藤原頼通が、自邸高陽院に文人を招き、詩会を催す。

*1031.10.20/ 藤原頼通が、興福寺五重塔と東金堂の落慶供養をとり行う。

*1035.5.16/ 藤原頼通が高陽院水閣歌合を催す。

*1037頃/「栄花物語」正編ができる。

 

藤原道長

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 藤原道長は、康保3(966)年、藤原北家九条流兼家の五男に生れる。兼家が死去すると長男の道隆が後を継ぎ、娘定子を一条天皇の皇后とするなど、藤原氏本流を継承するかに思われたが急死、その次弟道兼も続いて亡くなると、五男の道長が登用されることになった。

  一方、道隆の嫡男伊周は道長を凌いで内大臣に任じられるなど、早くから父の後継者に擬されており、一条天皇の皇后定子への寵愛が深く、兄の伊周への信任も厚かった。道長と伊周の叔父甥の対立は深まったが、長徳2(996)年、伊周が花山法皇に矢を射かけたとして、左遷され失脚した(長徳の変)。

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 道長は右大臣かつ藤原氏長者に補されるが、関白に就任せず、左大臣となっても「内覧」という関白の実務をつかさどる地位に留まり続けた。長保元(999)年、一条天皇のもとへ長女彰子を入内させると、翌年には、皇后定子を皇后宮と格上げして、彰子を皇后(号は中宮)とし一帝二后を強行するなど、道長はその権勢を示した。

  道長は彰子以外にも、妍子・威子・嬉子と娘を次々と入内させ外戚関係を強化してゆくことになるが、一条天皇が亡くなり三条天皇が即位したときには、親政を望む三条天皇道長との間に確執が生れた。しかし長和5(1016)年、ついに道長の譲位圧力に屈して、彰子が生んだ子敦成親王が即位し後一条天皇となる。

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 寛仁2(1018)年10月16日、妍子(26)が皇太后となり、威子(20)が後一条天皇中宮となった日、土御門第では華やかな饗宴が催された。太皇太后彰子(31)と合わせ一家から3后を出したことになり、藤原道長(53)は天皇外戚として頂点をきわめる。

 この宴で感極まった道長は、「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の かけたることも なしと思えば」と詠じたと言われる。

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 この前年寛仁元(1017)年3月、道長は摂政と藤原氏長者を嫡男の頼通に譲って、後継体制を固めている。頼通に摂政を譲った後も、道長は後見的立場で影響力を持ちつづけた。寛仁3(1019)年、病をうけて剃髪して出家する。

 晩年は壮大な法成寺の建立に精力を傾け、「栄花物語」では、この法成寺の壮麗さを道長の栄耀栄華の極みとして伝えている。万寿4(1028)年に病没、享年62。

 

 〇藤原頼通

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 藤原頼通は正暦3(992)年、摂政太政大臣藤原道長の長男として生まれ、寛仁元(1017)年、若くして(26)父道長から後一条天皇の摂政を譲られる。2年後には関白となるが、道長が万寿4(1028)年に亡くなるまでは、その後見を受ける。

 父の死後は、後朱雀天皇後冷泉天皇の治世で、関白を50年の長きに亘って務め、父道長と共に藤原氏摂関家の全盛時代を築いた。しかしながら、父道長と異なり子女に恵まれぬ頼通は、やむなく養女とした嫄子を入内させ後朱雀天皇中宮としたが、嫄子が男子を産むことはなかった。

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 後朱雀天皇を継いだ後冷泉天皇は、道長の娘で頼通の妹嬉子の産んだ子だが、嬉子が産後すぐに死去したこともあり、頼通とは比較的疎遠であった。そのため、藤原氏と縁の薄い尊仁親王後三条天皇)が、後冷泉天皇東宮に立てられた。

 頼通は60歳近くになった永承5(1050)年、唯一の娘の寛子を入内させ皇后となし皇子誕生に望みを繋いだが、ついに皇子に恵まれることは無かった。疎遠な後三条天皇が即位すると、藤原氏をはずして親政を行い、一方、頼通が強く望んだ実子師実へ摂関を譲ることも、道長の遺言をたてに上東門院(彰子)に拒絶され、失意の晩年を送ったと言われる。

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 道長・頼通の70年にわたる治世は藤原氏の栄華の頂点とされるも、刀伊の入寇平忠常の乱・前九年の役など、地方では内外からその安寧をゆさぶる事態が生じていた。

 また、藤原氏繁栄の基盤でもあった荘園の増加は、国家財政を危機的状態に陥らせる状況となっており、頼通は数度にわたって荘園整理令を出すも、効果的な対策は打ち出せないままであった。

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  「往生要集」を著し、道長が深く帰依した「源信(恵心僧都)」が寛仁元(1017)年76歳にて入寂、一方で、「末法」の世に入るとされる永承7(1052)年)が近づくなかで、阿弥陀如来にすがり極楽浄土への往生を求める風潮が高まり、貴族たちは寺院の建立を競った。

 権勢の頂点にあった頼通は、永承7(1052)年3月、道長の別荘であった宇治殿を寺院に改修し、翌天喜元(1053)年には、西方極楽浄土をこの世に出現させたかのような壮麗な阿弥陀堂が建立された。本殿には仏師定朝の手になる阿弥陀如来坐像が安置され、やがて「平等院鳳凰堂」と呼ばれるようになる。

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 治暦4(1068)年、後冷泉天皇崩御すると頼通は宇治に閉居し、延久4(1072)年に出家する。同年、三条天皇白河天皇に譲位し、まもなく崩御した時には、後三条天皇とは東宮時代から対立した頼通だが、その早世を嘆息したという。自身も、延久6(1074)年83歳の長寿をもって薨去する。

 摂関政治の全盛期をともに担ってきた姉の上東門院彰子、弟教通も同年から翌年にかけて相次いで薨去外戚による「摂関政治」は、やがて白河天皇が譲位した後に始めることになる「院政」の時代へと移ってゆく。

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(この時期の出来事)

*1026.1.19/ 太皇太后彰子が出家し上東門院と称する。

*1028.6.21/東国 前上総介平忠常が反乱を起こしたため、平直方・中原成道を追討使いに任命する。

*1031.4.28/東国 新たに追討使に任じられていた甲斐守源頼信が、平忠常降服を報告する。

*1036.4.17/ 後一条天皇(29)没。

*1039.2.18/ 延暦寺山門派の僧徒多数が関白藤原頼通廷に押しかけ、寺門派明尊の天台座主就任に異議を唱え強訴する。

*1040.40.29/ 京に横行する盗賊・悪僧などの処置について、朝廷で審議する。

*1040.6.3/ 諸国に荘園停止を命じる。(長久の荘園整理令)

 

 

 

【手羽先ポン酢てりサワーキャビジ添え】

手羽先ポン酢てりサワーキャビジ添え】

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 へたくそな手作り料理をSNSにアップして、でたらめなタイトルを付けたところ、とんでもない方向に話題が展開した。ついでだから、まとめておく。 

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 かつての海軍では、ビタミンC不足による壊血病で悩んでいた。長期航海では新鮮な野菜や果物が取りづらいからだったのだが、それを救ったのがザワークラウト(酢漬けキャベツ)で、英国でそれが分ったのは、キャプテン・クックの時代だったという。

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 各国の海軍では、キャベツの酢漬けの有効さに気付いて採用したが、その後、英海軍は、より効果的なライム果汁に切り替えた。一方ドイツ海軍では、ひたすらザワークラウトばっかり食わせていた。そこで互いに相手のことを、「ライム野郎 (limey) 」「キャベツ野郎(kraut)」と呼びあったということだ。

 


 ちなみにかつての日本軍では、白米食中心だったため、ビタミンB1不足による脚気(かっけ)に悩まされた。日露戦争での苦戦の原因の一つは、兵士の脚気のせいだと言われるぐらいだった。

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 欧米では麦食(パンなど)が主なので、脚気はあまり問題にならなかった。日本でも海軍では、経験的に麦食が有効だと気付いたが、白米に慣れている兵士には不評だったという。陸軍では、陸軍軍医として陸軍兵食の責任者であった森林太郎森鴎外)が、米食にこだわったため脚気が蔓延したと言われている。

 

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 日本で脚気が増えたのは江戸時代後半、白米食が中心になってからで、白米が早く普及した江戸で多く発生したので、「江戸わずらい」などと呼ばれた。米ぬかや麦にはビタミンB1が含まれているので、玄米食や麦食なら脚気にならない。

 明治の末ごろに農学者の鈴木梅太郎が、米糠から抽出したオリザニンを開発して、ビタミン発見の先駆となったが、伝染病説と中毒説が支配的な医学界は受け入れなかった。戦後になって、ビタミンB1が容易に摂取できるアリナミンが開発され、ようやく脚気が克服されるようになった。

 

 

【新元号は「令和」だとか】

【新元号は「令和」だとか】

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 本棚から「万葉集」の脚注本がでてきたので、「令和」の個所を探してみた。奥付は、昭和33年4月発行・定価400円となっている。学生時代に文学部に単位取りに行ったときに、一度も出ない講義だったがテキストとして買わされたのだった。よってほとんど開くこともなかったが、半世紀の間に酸性化してボロけている。

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 「師の老の宅にあつまるは宴会を伸ぶるなり。時に初春の"令"月にして、気潔く風"和"に、梅は鏡前に粉を披き・・・」

 ここにある「師の老(おきな)」とは万葉集の編者とされる大伴家持の父、大伴旅人のことらしく、その屋敷で梅見の宴を催した際の歌を集めたものだとのこと。で、宴の初めに旅人の爺さんが一発ぶったというわけなのだ。
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 はやい話が、花見にかこつけて仲間と酒飲み会をやらかしたようなもんだな。まあ、いまのオヤジどもには気のきいた歌を詠むような知性はないから、せいぜい下ネタ談義がいとこだろうが(笑)

 

 しかし「令」という文字は、いくら「よい・りっぱな」という意味があると言われても、「令名」「令嬢」などと古風な言葉は死語となっている。

 どうしても「命じる・いいつけ・きまり・おきて」といった強権を思わせる意味が思いうかび、「禁令」「訓令」「号令」などなど、うれしくない用法が多い。

 これを右傾化の流れというのもどうかなと思うが、やはりこれをきっかけに、右翼と役所以外は西暦一本になるんじゃないかなと思ったりもするのである(笑)

 

【紫野 今宮神社「あぶり餅」】

【紫野 今宮神社「あぶり餅」】

 

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 京都今宮神社門前では、数百年を越す二軒の「あぶり餅屋」が、向かい合わせで競っている。これまで幾度か触れたことがあるのだが、正面から取り上げたことがなかった。上賀茂神社「やき餅」を取り上げた機会に、こちらもまとめておこう。

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 北大路通りから今宮門前通りを北に向かって突き当たると、立派な朱塗りの楼門が南に面して聳えたっているが、あぶり餅屋は、東側の入り口から参詣道を西に入ってゆくと地味な東門があり、その手前参道の両側に向かい合わせに営業している。

 東門に向かって、右側が創業千年を超えるという「元祖 一文字屋和輔(一和)」、左側には創業四百年以上になるという「本家 かざりや」があり、参詣客が近づくと両店から声が掛かってくる。創業年がどこまで正しいのかは不明だが、京都老舗番付なるものでは、一和が東横綱、かざりやも中堅どころに掲載されている。

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 紫野の現在地には平安遷都以前から疫神スサノオを祀る社があったとされるが、遷都後の平安京でたびたび疫病が流行り、それを鎮めるための「御霊会」が営まれた。民衆主導で行われたこの「紫野御霊会」が「今宮祭」の起源とされ、長保3(1001)年の疫病流行のとき、本格的に神殿や神輿が造られ「今宮社」と名付けられたという。

 境内には本殿のほか、玉の輿社・織姫社など幾つかの末社が祀られている。「玉の輿社」は、織物の街西陣の八百屋の娘「お玉」が見そめられ、三代将軍徳川家光の側室となり、五代将軍となる綱吉を産んで、のちの「桂昌院」となったという話から、「玉の輿に乗る」という諺に因んだとされる。「織姫社」は、もちろん西陣織の祭神として祀られたものである。

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 「今宮祭」は毎年5月に、神幸祭(5月5日)・還幸祭(5月15日付近の日曜日)を中心に諸祭事が営まれ、この間、神輿は1キロほど離れた「御旅所」に出張することになる。普段は閑散としている御旅所が、この期間だけは出店や出し物で賑わう。

  「やすらい祭」は4月10日(現在は第2日曜日)に行われ、赤鬼黒鬼に扮した小中学生たちが鐘と太鼓に合わせて、「やすらえ花よ!」との掛け声とともに跳ね踊る民間祭りで、京都の三大奇祭にひとつに数えられている。今宮祭同様に、御霊会を起源とする近隣村落の祭りである。

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  「あぶり餅」は、祭事で用いられた竹や供え餅を、厄除けとして参拝者に提供したのが始まりとされる。親指大にちぎった餅にきな粉をまぶし、竹串に刺したものを備長炭であぶって、白味噌の甘いたれをかけたものが、一人前十数本が皿に乗せて、土瓶の渋茶とともに供される。

 開け放たれた店先で焼くため、香ばしい香りが周りにただよい、参詣客が引き寄せられる。両店で、たれの味に微妙な違いがあると言われるが、餅の数や代金は同じで(ともに水曜定休)、皿や土瓶・湯呑の形や柄で区別されており、土産用包装紙も一見して分かるように異なっている。

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 自分は半世紀以上前、今宮神社のすぐ近くにある公立高校の生徒だったので、あぶり餅屋の常連だった。ほぼ毎日、授業をサボって仲間とあぶり餅にたむろしていて、授業に出ている時間より長いぐらいだった。

 なぜか学年ごとに集まる店が異なっており、われわれの学年は順番から「かざりや」だった。向かいの「一和」には一年上級が居座っていて、それなりに対抗意識が強く、百年前の勤王志士と新選組のごとく対峙していたのであった(笑)

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 あるとき、いつものように座敷に上がり込んで花札などして遊んでいるとき、表では映画の撮影が始められた。市川雷蔵の「眠狂四郎」の撮影で、あぶり餅屋の店構えは江戸時代の茶店そのもので、時代劇に最適のロケ場として利用されていたのだった。

 そんな最中に、仲間のヤクザっぽい顔つきのひとりが、仕切り襖をあけて「おば、ちゃんお茶」とやったところ、撮影カメラが正面からその顔を捉えていた。それこそヤクザまがいの撮影スタッフに、われわれが怒鳴り散らされたのは言うまでもない。

 

 

【11th Century Chronicle 1001-20年】

【11th Century Chronicle 1001-20年】

 

◎平安朝女流文学

*1001頃/ 清少納言枕草子」、この頃に成立か。この前年に出仕していた中宮定子が亡くなっている。

*1002頃/ 紫式部源氏物語」の一部が成る。

*1004頃/ 「和泉式部日記」が完結する。

*1020.9.3/上総 上総介菅原孝標が任期を終え帰京の途につく。孝標の娘による「更級日記」の記述の始まりとなる。

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清少納言枕草子

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 「清少納言」は実際の名ではなく、父親清原元輔の一字”清”と、身近な人物の官職”少納言”を合わせたもので、女房として出仕した時の呼び名とされる。二度目の夫との間に女子をもうけた後、一条天皇の時代、正暦4(993)年冬頃から、私的な女房として中宮定子に仕えた。

 長保2(1000)年に中宮定子が出産時に亡くなり、それにともなって清少納言は宮仕えを辞した。宮中での出来事など、折に触れて書き留めたものなどをまとめて、この時期に「枕草子」が出来上がったと考えられる。

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 清少納言が仕えた中宮定子は、父親の藤原道隆が急死し後見を失い、そのこころ細さなどが枕草子にも反映されている。一方で道隆の弟道長が権勢を握り、その子彰子を入内させると、彰子の女房となった紫式部が、清少納言のライバルとして語られることが多い。

 しかし実際に紫式部が彰子に仕えたのは、定子が亡くなってかなり後の事であり、両人は面識さえなかった可能性もある。遅れて出仕した紫式部は、その「紫式部日記」で清少納言を悪しざまに貶しているが、それ以前に成立したと見られる枕草子には、紫式部に直接言及した個所は見られない。

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 「枕草子」は当時の他の女流文学と同じく、 平仮名を中心とした平易な和文で綴られ、洗練されたセンスと鋭い観察眼で、宮中の文物や出来事などを軽妙な筆致で描き出した。「源氏物語」の情的な「もののあはれ」の世界に対して、「枕草子」の方は「をかし」という理知的な感性美の情景を現前させる。

 清少納言の感性を端的に顕わしている「ものづくし」的な断章には、「虫は」「木の花は」「うつくしきもの」というような、評価の良いもののチョイスばかりでなくて、「はしたなきもの」「すさまじきもの」というように、自らの感性に合わないものを端的に切って捨てる歯切れの良さも見せる。

 日常生活や四季の自然を観察した随想風の断章でも、身近な事物を批評する鋭い視線を煌めかせる。あるいは定子亡きあとから、中宮定子周辺の宮廷社会を振り返った回想的章段では、当時の様子を懐かしみながら振り返る情の揺らめきも見せるが、「香爐峰の雪は」のように、自身の知性と手柄を自慢げに語る場面も見られる。

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 「枕草子」という書名は、兄の伊周から献上された貴重な書き物用の御料紙に、中宮定子が、何を書くのがよいかと相談したときの返事として、「枕にこそは侍らめ」と応えたところから来ているという。だが、この「枕」が何を指すのかは明らかではない。

 すぐに読めるようにと「枕元に置くべき草子」という意味で「枕草子」と呼ばれたのは分かるが、それは内容を表したものではない。ちょっとした眠る前の読み物とか、備忘録として書き物だとか、あるいは「枕絵」と同様のポルノグラフィーでさえ考えられる。ここは、寝屋での軽い読み物程度に理解しておくべきか。

 

紫式部源氏物語

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 紫式部は、下級貴族で漢詩人、歌人でもあった藤原為時の娘で、結婚して一女を儲けたが夫と死別、その後から「源氏物語」を書き始めたと思われる。寛弘3(1007)年ごろ、藤原道長の娘で一条天皇中宮彰子に女房兼家庭教師役として仕え始めた。

 その当時の女房名は「藤式部」だったとされ、「式部」は父為時の官位に由来している。「紫式部」の「紫」の方は、源氏物語の「紫の上」からとられたもようで、後年になってから呼ばれだした筆者名かと想像される。


 彰子に出仕する以前に、藤原道長正室付きの女房として仕えていたとの説もあり、道長がその才を知って彰子の指導役として引いたのではと考えられる。それを機に宮中に上がった紫式部は、藤原道長の支援の下で物語を書き続け、五十四帖からなる「源氏物語」を完成させることになった。

  紫式部が宮中出仕中に綴った日記や手紙は、「紫式部日記」として残されている。むしろこの日記での記述などから、源氏物語の作者が紫式部とされるようになったもので、物語への世人の評判や、同僚女房であった和泉式部赤染衛門などへの言及もあり、彰子のサロンの盛んなさまがうかがえる。

 

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 中宮定子に仕えていた清少納言とは出仕時期がずれており、既存の枕草子の断章などだけから、その人と為りを評価したものと考えられる。清少納言へのライバル心からか、軽薄な賢しらぶりなどと一方的に貶しており、和泉式部赤染衛門らへのそれなりの評価とは、落差が激しい。

 京都御所の東にある天台宗廬山寺は、紫式部の出仕中ないし暇を取ってからの住まったと推定される邸宅跡とされており、そこで源氏物語の筆を執っていたものと推定される。また、紫式部が晩年に住まったとされ、のちに大徳寺別坊雲林院となる紫野の地には、小野篁の墓とともに紫式部の墓とされるものが建てられている。

 

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 「源氏物語」は全54帖からなり、その大半は光源氏を主人公とした恋愛物語で、この時期では世界でもまれな大長編である。ただし末の10帖は、光源氏亡きあと、次世代の薫大将と匂宮という二人の貴公子を中心に、宇治を舞台にした物語で「宇治十帖」と呼ばれる。

 千年以上前に成立しtが物語を、近現代の小説・物語と同様に語るのには無理があるが、源氏物語が後世に与えた影響には多大なものがある。江戸元禄期の戯作者井原西鶴は、源氏のパロディとして「好色一代男」を書き、江戸後期には本居宣長が、「もののあはれ論」を展開する。

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 近代になっても、与謝野晶子ほか多くの文学者が現代語訳を試み、谷崎潤一郎は現代語訳をするとともに、その時の経験を下敷きに、源氏の世界を現代に置きかえた「細雪」をものにしている。

 また影響ではないが、海外からはウィリアム・ジェイムズやアンリ・ベルクソンの「意識の流れ」論に沿った、ジェイムズ・ジョイスの「ユリシーズ」やマルセル・プルーストの「失われた時を求めて」と同様の作品と見なす考え方も現われた。

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 たしかに、明示されないままにいつの間にか主語が入れ替わってゆくような、源氏物語の息の長い文章を読んでいると、一部の断章をしずかに音読してみるだけでも、夢と現実をない混ぜたような世界が顕われ、時空を超えた男女の人間模様が、重なり合って移ろっていくような想いにとらわれる。

  

和泉式部和泉式部日記」

  あらざらむこの世のほかの思ひ出に 今ひとたびの逢ふこともがな 和泉式部

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 「和泉式部」は、越前守大江雅致の娘として生まれ、長保元(999)年頃には和泉守橘道貞の妻となり和泉国に入る。後の女房名「和泉式部」は、この夫の任国と父の官名を合わせたものである。道貞との間に一女をもうけるが、まもなく破綻する。この娘が、後に母親同様に歌才を示す「小式部内侍」である。

  帰京して道貞と別居したあと、冷泉天皇の第三皇子為尊親王との関係が表沙汰になり、身分違いの恋だとして親から勘当される。為尊親王が若くして亡くなると、今度はその弟の第四皇子敦道親王帥宮)の求愛を受け、親王の邸に入ると、正妃の方が家を出てしまう結果となった。

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 敦道親王との恋の顛末は、物語風の日記「和泉式部日記」に如実に語られているが、和泉式部自身が書いたものかどうかは定かでない。その敦道親王も早世し、寛弘年間の末(1008年-1011年)ごろ、一条天皇中宮藤原彰子に女房として出仕する。

 この時期の彰子の局は、赤染衛門紫式部伊勢大輔らに和泉式部も加わり、華麗な文芸サロンを形成していた。これらの女官は、藤原道長が娘 彰子を引き立てるためにスカウトしてきたものと思われる。

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 和泉式部には赤裸々に恋を詠んだ歌が多く、実際に恋愛遍歴もあまた伝えられている。そのため、道長から「浮かれ女の扇」と落書きをされたという逸話があったり、また同僚女房であった紫式部からは「(和泉式部は)面白う書き交しける、されど、けしからぬ方こそあれ」などと素行のはしたなさを指摘されている。

 長和2(1013)年頃、道長の家司である藤原保昌と再婚し、その任国の丹後に下った。その後、万寿2(1025)年、娘の小式部内侍に先立たれた折には、痛切な愛傷の歌を残している。その後の晩年の動静は不明で、残した歌からは仏道への傾倒していた様子が伺われる。

  おほえ山いく野の道のとほければ まだふみもみず天の橋立 小式部内侍

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菅原孝標女更級日記

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 「菅原孝標女(むすめ)」は、地方貴族菅原孝標の娘というだけで、実の名は伝わっていない。父方は菅原道真の血を引き、母方の伯母には「蜻蛉日記」の作者藤原道綱母、近親にも学者を輩出し、知的な環境の下で育ったと思われる。

 彼女は寛弘5(1008)年(1008年)に出生、清少納言紫式部などより後の世代になる。寛仁4(1020)年、彼女の13歳の頃、父の上総介としての任期が終り、3ヶ月ほど掛けて京に帰国する。

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 彼女は伯母から貰った源氏物語を読みふけり、物語世界に憧憬しながら過ごすなど、多感な少女時代をおくったとみられる。この頃の家族とともに東国から帰国するあたりから、「更級日記」の記述は始められている。

 更級日記は、「日記」とはいえ現在のような形態ではなく、かなりの後になってから、過去の生涯を振り返って綴る回想記風のものである。しかも更級日記菅原孝標女の存命中に出版されたわけではなく、かなり後に藤原定家によって発見されたものだったようである。

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 更級日記では、娘時代の夢想的な世界から、その後の親王家への出仕、橘俊通との結婚、一男二女の出産、夫の単身赴任と病死、子供たちが巣立った後の孤独な境遇など、幾多の変遷を経ながら、次第に仏心が深まっていく心境変化が平明な文体で描かれている。

 書名の「更級(更科)」は、作中の「月も出でで闇にくれたる姨捨に なにとて今宵たづね来つらむ」の歌が、「古今和歌集」の一首「わが心慰めかねつ更級や 姨捨山に照る月を見て(よみ人しらず)」を本歌取りしていることからと言われる。なお「更級」は信濃国姨捨山)の枕詞として、本歌で使われているだけである。

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 作者の菅原孝標女が過ごした半生は、道長からその子頼通へと引き継がれる時代と重なり、平安朝の栄華の絶頂期から、次第に傾いてゆく時期を経験することになる。それに伴って、物語のロマンに心ひかれた少女時代から、やがて孤独な寂寥の境遇の現在へと、時代の流れと自己の境遇が重なってくる。

 若きころの夢に浮かれた浅はかさを「いとはかなく あさまし」と批評しながらも、その少女時代の感傷を懐かしみ心の支えとしている自己を見つめている。そのような状況を綴る文章は、近代日本文学の「私小説」などにも通じるものを伺わせる。

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 菅原孝標女は、源氏物語の系譜をひく「浜松中納言物語」「夜半の寝覚」の作者ではないかとも言われるが、まだ確証はない。また、「源氏物語」について最も早い時期から言及したものとして、貴重な史料的価値をも持っている。

 

 

(この時期の出来事)

*1001.5.9/京都 疫病を祓うため、紫野今宮社で御霊会が行われる。現在も続く「今宮祭・やすらい祭り」の初め。

*1005.9.26/ 陰陽師 安倍晴明(85)没。

*1006.7.27/京都 藤原道長が法性寺五大堂を建立する。

*1009.2.20/ 藤原伊周が、中宮彰子とその子 敦成親王(のちの後一条天皇)を呪詛したとして朝参を停止される。

*1011.6.13/ 一条天皇が居貞親王三条天皇)に譲位し、敦成親王が皇太子となる。

*1012.2.14/ 中宮彰子が皇太后に、女御妍子(道長の娘)を中宮とする。

*1012.9.11/京都 僧源信広隆寺称名念仏を始める。

*1016.1.29/ 三条天皇が敦成親王後一条天皇)に譲位し、道長が摂政となる。

*1017.3.16/ 藤原道長の子 頼通が摂政となる。

*1018.10.16/ 中宮妍子が皇太后に、女御威子が中宮となる。

*1018頃/ 「和漢朗詠集」成る。

*1019.3.28/対馬壱岐 刀伊が来襲、壱岐守藤原理忠を殺害する(刀伊入寇)。刀伊は博多への上陸を目指すも、撃退される(4.9)。

*1020.2.27/京都 藤原道長無量寿院(法成寺阿弥陀堂)を建立する。

 

【素人が考える「レトロと歴史」】

【素人が考える「レトロと歴史」】

 

 江戸時代から昭和の末までを、自分なりにダイジェストしてきた。「歴史」をひと言で表すのは難しいし、確固たる考えがある訳ではないが、それなりに思うことを記しておきたい。

 少なくとも言えることは、「事実」をいくら集めても「歴史」にはならないということだ。つまり歴史とはある種の解釈であって、特定の観点に立って「選択された事実」を並べたものだと言える。そして、その観点にあたるものが「歴史観」とされるのだろう。

 

 しかしその歴史観というものが、明示的に示し得るかどうかは定かではない。むしろ記された具象的な歴史から、逆に抽象されてくるものではないか。作家や文筆家において言われる「文体」に相当するようなもので、いわば歴史が綴られる「場」のようなものだと思われる。

 私自身が明確な歴史観を持っている訳ではないが、歴史をダイジェスト的に書きながら、漠然と浮かび上がってきたのは、その当時の時代感覚のようなものをつかみたいという考えだった。そのような臨場感と現在からの視点との交わりから、リアルな歴史が浮かび上がってくるのではないだろうか。

 

 さて、自分が育って生きてきた戦後昭和という時代をどう捉えるか。少なくともその時代に育ってきたわけだから、まわりの時代感覚は経験的に感じ取っているはず。しかしその記憶そのままでは歴史にはならない。現在からの視点、大人になって社会性を帯びた視点からの検証を受ける必要がある。

 自分の過去の記憶にある事象を、懐かしく思い起こすレトロ感というのがある。それはそれで良いのだが、記憶の中で都合よく変形された記憶なので、そのままで歴史だというわけにはいかない。現在の視線から検証を受けて初めて「歴史化」されるのだと考える。

 

 自分が昭和30年代のことを書くと、Fecebookなどでは読者に、ひと回り以上年下の人が多く、時代感覚がまったく違うのに気付く。レトロな記憶が通じ合うのは双方に同じ時代経験があるからで、それが異なる場合には、やはり歴史化した事象として伝えるしかない。

 そういう作業に、今は関心が向いている。自分の経験を記録して残すことは重要だが、いまやりたいこととは少し異なっている。平成に関しては、ほとんどがリアル経験しているわけだから、まだまだ「歴史化」するにはナマ過ぎると思う。平成の時代が終わって、少なくとも十年以上は時間が必要だと思うのであります。

 

 

【17th Century Chronicle 1696-1700年】

【17th Century Chronicle 1696-1700年】

 

◎元禄の東西豪商

*1698.2.9/江戸 寛永寺根本中堂の造営工事が始まる。

*1698.2.9/江戸 寛永寺根本中堂などの工事で、材木商の豪商紀伊国屋文左衛門は50万両の巨利を得る。

*1698.3.9/江戸 豪商河村瑞賢が、幕府の地域開発事業への貢献を認められ、旗本に召し出される。

 

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  16世紀末から17世紀初頭にかけて、織豊政権から徳川幕府の初期には、日本の国内統一が進むとともに、海外に展開する機運が広がった。この時代、商人は権力者と結んでその政策に貢献するとともに、特権を得て巨額の富を稼ぎ出す初期の豪商が登場した。しかしその後、家光の時代には鎖国が完成し、一方で交通路の整備などによって国内市場が安定化してゆく17世紀中ばにもなると、それらの豪商は急速に没落していった。

 そして17世紀後半から18世紀初頭にかけての元禄年間(1688年-1704年)には、代わって新興の大商人が現れた。この時代は、文治政治への転換により幕藩体制がいっそうの安定期を迎え、三都とりわけ京・大坂を中心とする上方の経済・文化の繁栄が頂点に達した時期にあたる。

 

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 江戸では、天下普請と呼ばれた大仕掛けな土木建築工事が行われ、さらには明暦の大火後の復興工事など、大規模な材木需要が発生した。 河村瑞賢は、明暦の大火の際に材木を買い占め、土木建築を請け負うことで莫大な利益を得た。瑞賢は以後、輸送海路を開いたり、河川の治水工事など、幕府の公共事業に深く関わり、その功績で晩年には旗本に取り立てられた。

  「紀文」こと紀伊国屋文左衛門は、幕府の材木御用達として公共事業で利益をあげた。大量の材木を投機的に買い占め、明暦の大火後の材木需要などで大儲けした。さらに政商として、上野の寛永寺根本中堂造営に際しては50万両もの利益をあげたといわれている。

 「奈良茂」こと奈良屋茂左衛門もまた、同様に材木の買い占めで財を成し、幕府に食い込んで日光東照宮修理の際に巨利をあげた。しかし、紀文や奈良茂のような投機型の豪商は、地道な商売に多角化展開する策を怠ったため、子孫の代では衰退し遊里での豪遊散財の逸話のみが語られる。

 

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  一方、上方の大坂は「天下の台所」と呼ばれ、経済の中心として発展していった。諸藩が蔵屋敷を置いて年貢米を売却する大坂では、蔵元・掛屋が集中し、両替商を含めて、蔵者を換金し信用を創出する金融機能が発達し、それらを兼業する商人が成長していった。

 伊丹の酒造業からおこってきた大坂の豪商鴻池家は、鴻池善右衛門(3代)のとき、大名貸事業を拡大して新田開発を手がけた。大和川の付け替え工事に関わり、その際に新田開発に取り組み、のちの鴻池新田としてその名をとどめている。

 南蛮吹きという銅の精錬法によって財をなした大坂淡路町の住友家では、初代住友吉左衛門(住友家3代友信)が幕府御用の銅山師となり、その子の友芳が伊予国別子銅山を発見し、豪商の地位を不動のものにした。

 江戸の幕政から距離を置いた大阪では、政商的な投機で儲けるのではなく、このような堅実な事業を展開した豪商が多かった。

 

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 江戸を拠点にはしたが、伊勢松坂の出自の三井家当主三井高利は、寛文13(1673)年に江戸本町に越後屋呉服店を開業し、掛け売りが当然だった当時に「現金掛け値なし」の画期的な商法で人気を博し、今日の三越百貨店につながっている。

  その後両替商も開業し、幕府の為替御用を受けるようになり、高利・高平父子の代で三井家惣領の座を確立した。高利は遺言で、身代を惣領の指導に基づく兄弟の共有財産とすることで財産の分割を防ぎ、三井家は強固な結束で江戸時代を通じて豪商としての地位を保ち続けた。

 

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 一方で、大坂の蔵元であった淀屋は蔵物の出納で富を得、店頭で米市が立つほどの隆盛を誇った。この淀屋の米市では、世界の先物取引の起源とさる帳合米取引が行われ、四代目の重當の時代に莫大な富を淀屋にもたらした。

 この淀屋の繁栄ぶりは、井原西鶴「日本永代蔵」の中でも記されているが、次の五代目淀屋廣當の時、驕奢との理由で全財産を没収された。しかし一説によると、莫大な大名貸しがあだとなったとされている。

 

(この時期の出来事)

*1696.4.11/ 勘定吟味役荻原重秀が勘定奉行となる。

*1697.7.9/江戸 綱吉の殊遇を受ける僧隆光の護持院五智堂と、綱吉の生母桂昌院が開基の護国寺観音堂が完成する。

*1697.7.26/江戸 旗本を対象に、蔵米(俸禄)を知行地に切り替える「地方直し(じかたなおし)」を実施する。(元禄の地方直し)

*1697.7.-/ 宮崎安貞の総合農業技術書「農業全書」が、江戸と京都で刊行される。

*1698.1.-/京都 中村七三郎作「傾城浅間嶽」が布袋屋座で、大当たりの120日間長期興行となる。

*1698.5.-/ 松尾芭蕉の句集「猿蓑」が刊行される。

*1698.7.2/江戸 側用人柳沢保明が、老中の上座に列せられる。

*1699.1.24/京都 坂田藤十郎が、近松門左衛門作「傾城仏の原」を演じて大当たりをとる。

*1700.12.6/水戸 徳川光圀、没(73)。