【素人が考える「レトロと歴史」】

【素人が考える「レトロと歴史」】

 

 江戸時代から昭和の末までを、自分なりにダイジェストしてきた。「歴史」をひと言で表すのは難しいし、確固たる考えがある訳ではないが、それなりに思うことを記しておきたい。

 少なくとも言えることは、「事実」をいくら集めても「歴史」にはならないということだ。つまり歴史とはある種の解釈であって、特定の観点に立って「選択された事実」を並べたものだと言える。そして、その観点にあたるものが「歴史観」とされるのだろう。

 

 しかしその歴史観というものが、明示的に示し得るかどうかは定かではない。むしろ記された具象的な歴史から、逆に抽象されてくるものではないか。作家や文筆家において言われる「文体」に相当するようなもので、いわば歴史が綴られる「場」のようなものだと思われる。

 私自身が明確な歴史観を持っている訳ではないが、歴史をダイジェスト的に書きながら、漠然と浮かび上がってきたのは、その当時の時代感覚のようなものをつかみたいという考えだった。そのような臨場感と現在からの視点との交わりから、リアルな歴史が浮かび上がってくるのではないだろうか。

 

 さて、自分が育って生きてきた戦後昭和という時代をどう捉えるか。少なくともその時代に育ってきたわけだから、まわりの時代感覚は経験的に感じ取っているはず。しかしその記憶そのままでは歴史にはならない。現在からの視点、大人になって社会性を帯びた視点からの検証を受ける必要がある。

 自分の過去の記憶にある事象を、懐かしく思い起こすレトロ感というのがある。それはそれで良いのだが、記憶の中で都合よく変形された記憶なので、そのままで歴史だというわけにはいかない。現在の視線から検証を受けて初めて「歴史化」されるのだと考える。

 

 自分が昭和30年代のことを書くと、Fecebookなどでは読者に、ひと回り以上年下の人が多く、時代感覚がまったく違うのに気付く。レトロな記憶が通じ合うのは双方に同じ時代経験があるからで、それが異なる場合には、やはり歴史化した事象として伝えるしかない。

 そういう作業に、今は関心が向いている。自分の経験を記録して残すことは重要だが、いまやりたいこととは少し異なっている。平成に関しては、ほとんどがリアル経験しているわけだから、まだまだ「歴史化」するにはナマ過ぎると思う。平成の時代が終わって、少なくとも十年以上は時間が必要だと思うのであります。

 

 

【17th Century Chronicle 1696-1700年】

【17th Century Chronicle 1696-1700年】

 

◎元禄の東西豪商

*1698.2.9/江戸 寛永寺根本中堂の造営工事が始まる。

*1698.2.9/江戸 寛永寺根本中堂などの工事で、材木商の豪商紀伊国屋文左衛門は50万両の巨利を得る。

*1698.3.9/江戸 豪商河村瑞賢が、幕府の地域開発事業への貢献を認められ、旗本に召し出される。

 

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  16世紀末から17世紀初頭にかけて、織豊政権から徳川幕府の初期には、日本の国内統一が進むとともに、海外に展開する機運が広がった。この時代、商人は権力者と結んでその政策に貢献するとともに、特権を得て巨額の富を稼ぎ出す初期の豪商が登場した。しかしその後、家光の時代には鎖国が完成し、一方で交通路の整備などによって国内市場が安定化してゆく17世紀中ばにもなると、それらの豪商は急速に没落していった。

 そして17世紀後半から18世紀初頭にかけての元禄年間(1688年-1704年)には、代わって新興の大商人が現れた。この時代は、文治政治への転換により幕藩体制がいっそうの安定期を迎え、三都とりわけ京・大坂を中心とする上方の経済・文化の繁栄が頂点に達した時期にあたる。

 

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 江戸では、天下普請と呼ばれた大仕掛けな土木建築工事が行われ、さらには明暦の大火後の復興工事など、大規模な材木需要が発生した。 河村瑞賢は、明暦の大火の際に材木を買い占め、土木建築を請け負うことで莫大な利益を得た。瑞賢は以後、輸送海路を開いたり、河川の治水工事など、幕府の公共事業に深く関わり、その功績で晩年には旗本に取り立てられた。

  「紀文」こと紀伊国屋文左衛門は、幕府の材木御用達として公共事業で利益をあげた。大量の材木を投機的に買い占め、明暦の大火後の材木需要などで大儲けした。さらに政商として、上野の寛永寺根本中堂造営に際しては50万両もの利益をあげたといわれている。

 「奈良茂」こと奈良屋茂左衛門もまた、同様に材木の買い占めで財を成し、幕府に食い込んで日光東照宮修理の際に巨利をあげた。しかし、紀文や奈良茂のような投機型の豪商は、地道な商売に多角化展開する策を怠ったため、子孫の代では衰退し遊里での豪遊散財の逸話のみが語られる。

 

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  一方、上方の大坂は「天下の台所」と呼ばれ、経済の中心として発展していった。諸藩が蔵屋敷を置いて年貢米を売却する大坂では、蔵元・掛屋が集中し、両替商を含めて、蔵者を換金し信用を創出する金融機能が発達し、それらを兼業する商人が成長していった。

 伊丹の酒造業からおこってきた大坂の豪商鴻池家は、鴻池善右衛門(3代)のとき、大名貸事業を拡大して新田開発を手がけた。大和川の付け替え工事に関わり、その際に新田開発に取り組み、のちの鴻池新田としてその名をとどめている。

 南蛮吹きという銅の精錬法によって財をなした大坂淡路町の住友家では、初代住友吉左衛門(住友家3代友信)が幕府御用の銅山師となり、その子の友芳が伊予国別子銅山を発見し、豪商の地位を不動のものにした。

 江戸の幕政から距離を置いた大阪では、政商的な投機で儲けるのではなく、このような堅実な事業を展開した豪商が多かった。

 

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 江戸を拠点にはしたが、伊勢松坂の出自の三井家当主三井高利は、寛文13(1673)年に江戸本町に越後屋呉服店を開業し、掛け売りが当然だった当時に「現金掛け値なし」の画期的な商法で人気を博し、今日の三越百貨店につながっている。

  その後両替商も開業し、幕府の為替御用を受けるようになり、高利・高平父子の代で三井家惣領の座を確立した。高利は遺言で、身代を惣領の指導に基づく兄弟の共有財産とすることで財産の分割を防ぎ、三井家は強固な結束で江戸時代を通じて豪商としての地位を保ち続けた。

 

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 一方で、大坂の蔵元であった淀屋は蔵物の出納で富を得、店頭で米市が立つほどの隆盛を誇った。この淀屋の米市では、世界の先物取引の起源とさる帳合米取引が行われ、四代目の重當の時代に莫大な富を淀屋にもたらした。

 この淀屋の繁栄ぶりは、井原西鶴「日本永代蔵」の中でも記されているが、次の五代目淀屋廣當の時、驕奢との理由で全財産を没収された。しかし一説によると、莫大な大名貸しがあだとなったとされている。

 

(この時期の出来事)

*1696.4.11/ 勘定吟味役荻原重秀が勘定奉行となる。

*1697.7.9/江戸 綱吉の殊遇を受ける僧隆光の護持院五智堂と、綱吉の生母桂昌院が開基の護国寺観音堂が完成する。

*1697.7.26/江戸 旗本を対象に、蔵米(俸禄)を知行地に切り替える「地方直し(じかたなおし)」を実施する。(元禄の地方直し)

*1697.7.-/ 宮崎安貞の総合農業技術書「農業全書」が、江戸と京都で刊行される。

*1698.1.-/京都 中村七三郎作「傾城浅間嶽」が布袋屋座で、大当たりの120日間長期興行となる。

*1698.5.-/ 松尾芭蕉の句集「猿蓑」が刊行される。

*1698.7.2/江戸 側用人柳沢保明が、老中の上座に列せられる。

*1699.1.24/京都 坂田藤十郎が、近松門左衛門作「傾城仏の原」を演じて大当たりをとる。

*1700.12.6/水戸 徳川光圀、没(73)。

 

 

 

【17th Century Chronicle 1691-95年】

【17th Century Chronicle 1691-95年】

 

元禄文化

*1691.1.1/ 仮名草子作者浅井了意、没(80)。

*1691.7.3/ 向井去来・宮城凡兆が芭蕉の参画も得て、句集「猿蓑」を編纂刊行する。

*1692.1.-/ 井原西鶴の「世間胸算用」が、三都同時に発売される。

*1693.8.10/ 浮世草紙作者井原西鶴、没(52)。

*1693.冬 井原西鶴の遺作となった「西鶴置土産」が刊行される。

*1693.-.-/ 鳥居清信の挿絵入りで、初代市川団十郎ら100人の歌舞伎役者を取り上げた「古今四場居百人一首」が刊行される。

*1694.3.-/ 井原西鶴西鶴織留」が刊行される。

*1694.6.4/ 絵師菱川師宣、没(77)。

*1694.夏/ 松尾芭蕉の「奥の細道」が完成する。

*1694.10.12/ 松尾芭蕉、「旅に病んで・・・」の句を残し大坂で客死する。

 

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 元禄文化は、江戸時代前期の元禄年間前後にかけて展開された文化で、大坂・京など古くからの文化基盤をもつ上方を中心に開花した。江戸幕府の安定とともに、農村での生産が拡大するとともに、商品作物生産の発展により、三都を中心に貨幣経済が浸透し、都市町人の経済活動も活発化した。

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 そのような経済的背景のもとに、商人や町民がささえる文芸・学問・芸術が花開いた。戦乱の多かった中世前半期には、この世を「憂き世」とみなす隠者文芸や、水墨画のような禅宗と結びついた絵画が好まれたが、元禄文化では、現世を「浮き世」として肯定し、現実的享楽的な民衆の精神が前面に押し出されてきた。

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 文芸の分野では既述のように、小説の井原西鶴俳諧松尾芭蕉浄瑠璃近松門左衛門が、傑出した作品を著した。https://naniuji.hatenablog.com/entry/2019/03/11/142824

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 また、実証的な古典研究や実用的な諸学問が発達し、絵画では、日本的な装飾画の様式を完成させたとされる尾形光琳や浮世絵の始祖といわれる菱川師宣があらわれ、従来よりも華麗で洗練さを増した美術工芸品もまた数多くつくられた。

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 さらに、音曲と組み合わせて視聴覚に同時に訴えかける人形浄瑠璃や歌舞伎狂言も発展し、ますます庶民の娯楽が増加するなど、活力あふれる元禄文化が展開された。

 

 江戸時代を通じて町人の享楽の場といえば、遊里と芝居街であった。「憂き世」を忘れて非現実の世界の「浮き世」を楽しむ「悪所」が、江戸や京都・大坂などの街に出現した。京では、寛永年間からの島原遊郭や元禄期には祇園花街が栄え、大坂には公許の曽根崎新地などがにぎわい、江戸では明暦の大火後に移転構築された新吉原がその中心となった。

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 一方で、町人たちの歓楽の場となったのが芝居小屋などの演劇場である。劇場の発展は阿国歌舞伎以来の伝統を有する上方が先行した。京では、延宝のころ四条大橋の東側四条通りの南北に面して歌舞伎・浄瑠璃の芝居小屋が立ち並んだ。大坂では道頓堀を中心に人形浄瑠璃や歌舞伎狂言の小屋が立ち並び、江戸には中村座市村座森田座江戸三座と呼ばれるような演劇場がそろっていった。

 

 遊里と芝居街は、元禄文化をささえる中核的な場となった。遊廓の上級の遊女(芸娼)は太夫や花魁などと呼ばれ、芸事に秀で、文学などの教養をつみ、富裕な町人・武家・公家を客として、遊び事と融合した芸能文化を創り出した。

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 芝居小屋では人形浄瑠璃や歌舞伎狂言が演じられ、町人の娯楽となる生活文化をはぐくんだ。竹本義太夫義太夫節を完成させ、竹田出雲や近松門左衛門の戯曲とともに人形浄瑠璃の最盛期を形成した。

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 歌舞伎狂言は、歌と踊りを中心とする舞台芸能から、物語性を重んじる演劇へと変化して、人形浄瑠璃の演目と重ね合わさりながら、技芸本位の芸能に深化していった。上方では初代坂田藤十郎が、廓物など恋愛事を優美に演じる「和事」の達人として評判を呼び、江戸では初代市川団十郎が、独特の隈取りや誇張された衣装、荒々しい所作での見得切りなど「傾(かぶ)き者」の演技で「荒事」を大成させた。

 

(この時期の出来事)

*1691.2.21/江戸 将軍綱吉が、湯島聖堂での孔子を祀る釈奠に出席し、1000石を寄進する。

*1691.8.22/江戸 将軍綱吉が、側用人柳沢吉保の屋敷を訪れる。以後58回に及ぶ。

*1691.4.28/ 幕府は日蓮宗悲田派(不受不施派)を禁じ、7月には悲田派の僧69人を八丈島などへ流す。

*1692.7.25/紀伊 高野山の学侶・行人の争論に幕府が裁決を下し、行人300余人を山から追放する。

*1694.2.11/武蔵 中山安兵衛が高田馬場で、菅野六郎左衛門の仇討に助太刀し、剣名を上げる。

*1695.4.21/武蔵 将軍綱吉が、側用人柳沢吉保に豊島郡染井村の地に別邸地を与える。

*1695.8.11/ 勘定吟味役荻原重秀の建策により、金銀貨幣改鋳が行われる。

*1695.9.18/江戸 将軍綱吉が、知足院を護持院と改称、住持隆光を大僧正に任じる。

*1695.10.16/大坂 生類憐みの令に違反した大坂定番に属する与力・同心11名が、切腹を申し渡される。

 

 

【17th Century Chronicle 1686-90年】

【17th Century Chronicle 1686-90年】

 

◎将軍綱吉と生類憐みの令

*1687.1.28/ 将軍綱吉が最初の「生類憐みの令」を出す。母桂昌院真言僧隆光の意向を反映か。

*1687.2.1/江戸 幕府台所頭天野正勝が、台所井戸に猫が落ちて死んだ責任を問われ、八丈島へ流される。

*1687.2.21/江戸 幕府が、市中の飼い犬の戸籍帳を作成する。

*1688.10.29/江戸 幕府が、僧隆光に駿河台に別院地を与える。

*1688.11.12/江戸 小納戸役柳沢保明(吉保)を側用人とする。綱吉の側用人政治の幕開けとなる。

 *1690.10.-/江戸 市中の牛車・大八車などに、往来で生類を轢き殺さないよう見張り人を付けるように命じる。

 

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  第5代将軍徳川綱吉は、3代将軍徳川家光の四男として正保3(1646)年に生まれ、男子が無かった長兄で4代将軍の徳川家綱が亡くなると、延宝8(1680)年8月、宣下を受け将軍となる。将軍職に就くと、綱吉将軍就任に反対したとされる大老酒井忠清を廃し、自己の将軍職就任に功労があった堀田正俊大老とした。

  綱吉は将軍就任当初、大老堀田正俊の補佐を得て、自らも積極的に政治に乗り出し将軍の権威向上に努めるとともに、戦国の荒々しい気風を排して、儒学を尊び徳を重んずる文治政治を推進した。このような綱吉の治世の前半は、「天和の治」と称えられた。

 

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 しかし貞享元(1684)年、大老堀田正俊若年寄稲葉正休に刺殺されると、以後大老を置かず側用人の牧野成貞・柳沢吉保らを重用し、老中などを遠ざけるようになった。また綱吉は、母桂昌院従一位という高位を朝廷より賜り、さらに桂昌院が帰依している真言宗隆光僧正を寵愛するようになる。

 この頃から、一連の「生類憐みの令」を出しはじめ、幕府の財政が悪化すると貨幣の改鋳などで経済の混乱をまねくなど、後世に悪政といわれる政治を行うようになった。生類憐れみの令は、跡継ぎができないことを憂いた綱吉に、隆光僧正が輪廻説を説いたことが因とする説があるが、時期的に符合しない点もある。

 

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  生類憐れみの令は、「生類を憐れむ」ことを趣旨としたもので、動物から嬰児・傷病人などあらゆる生きとし生けるものを慈しみ保護しようという、儒教や仏教などの教えに習ったものであるが、将軍の名でそれを命じたことで、世の中の混乱を招くことになった。

 貞享4(1687)年、病気の牛馬を捨てることを禁じた法令が「生類憐みの令」の最初とされるが、その前後にも同趣旨の令が出されており、以後、綱吉治世の終わりまで二十数回にわたってこと細かく規定した令が出された。

 

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 その治世の前半には善政をしいたとされる綱吉が、なぜこのような偏った令に拘り続け、犬公方とも呼ばれるようになったのか。一つには、世子徳松を5歳で亡くし、男子の継嗣のできないことを憂える綱吉には、若くして親しんだ儒教の仁心と結びついて、生類憐れみの観念が助長されていったと考えられる。

 また、老中など煙たい役職の重鎮を遠ざけ、柳沢吉保など側用人を重用した側用人政治や、母桂昌院とその帰依する僧隆光を寵愛するなど、側近の者だけに囲まれた政治姿勢が、綱吉の独断的な政治姿勢を強めていった。

 

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   蚊を殺したら閉門になったとか、水戸光圀が綱吉を皮肉って犬の毛皮を贈ったとか、尾ひれが付いた話が広がりどこまでが事実か分からないが、一般武士や町民に迷惑な令であったことは間違いない。

 儒教の教えから生類憐みの令が始まったのなら、アメリカではピューリタニズムの潔癖主義が禁酒法をもたらしたという。綱吉も、アメノウズメが天岩戸で裸踊りするような古代神道でも信じてたのなら、もっと楽しい時代になったのだが(笑)

 

 (この時期の出来事)

*1686.9.27/江戸 市中で乱暴狼藉放題だった旗本奴の集団、大小神祇組200余人を捉え、首領格の者11人を斬罪に処する。

*1686.-.-/大坂 井原西鶴好色五人女」「好色一代女」「本朝二十不幸」が刊行される。

*1687.5.-/大坂 豪商河村瑞賢が淀川の治水工事を完成し、八百八橋水の街大坂とうたわれるようになる。

*1689.3.27/江戸 松尾芭蕉が「奥の細道」の旅として、陸奥に向けて発つ。

 

【17th Century Chronicle 1681-85年】

【17th Century Chronicle 1681-85年】

 

井原西鶴松尾芭蕉近松門左衛門

*1681.-.-/大坂 井原西鶴の「西鶴大矢数」が刊行される。

*1682.10.-/大坂 井原西鶴の「好色一代男」が刊行される。(浮世草子の初め)

*1682.12.28/江戸 駒込大円寺から出火、江戸市中が広範囲に消失する。(お七火事)

*1683.3.29/江戸 八百屋中村喜兵衛の娘 お七が、放火の罪により鈴ヶ森刑場で火刑になる。

*1683.9.-/京都 近松門左衛門作「世継曽我」が初演される。

*1683.11.-/京都 烏丸仏光寺南の大経師の妻 おさんが、手代 茂兵衛との不義密通の咎で、粟田口で磔の刑に処せられる。

*1684.2.1/大阪 竹本義太夫が、大阪道頓堀に人形浄瑠璃の竹本座を創設する。

*1684.6.5/大阪 井原西鶴が、大阪住吉神社で3度目の大矢数俳諧を興行し、一昼夜に2万3500句を独吟する。

*1685.1.-/ 井原西鶴西鶴諸国ばなし」が刊行される。

*1685.-.-/江戸 松尾芭蕉が「野ざらし紀行」を執筆、蕉風を確立する。

 

井原西鶴 

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 井原西鶴寛永19(1642)年(1642年)頃、大坂難波の裕福な町人の家に生れるたとされるが、定かではない。15歳で俳諧を志したとされ、談林派西山宗因に師事してその影響を受けたもよう。

 延宝3(1675)年、34歳の時に妻を亡くし、追善興行として詠んだ千句を「誹諧独吟一日千句」と題し出版。さらに、延宝元(1673)年(1673年)春、大坂生國魂神社で万句俳諧の興行をし「生玉万句」として出版、自らの新風をうち立てたとする。

  その後も矢数俳諧と称して、句の数をほこる独吟興行を重ねたが、天和2(1682)年10月、浮世草子第一作となる「好色一代男」を出板、これに好評を得て浮世草子作家に転身、より名声を得ることになった。

 

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  以後、好色物と括られる「好色五人女」や「好色一代女」などを立て続けに書くが、さらに、いわゆる雑話物・武家物・町人物と呼ばれる方向にも手を広げ、「武家義理物語」「日本永代蔵」「世間胸算用」「本朝二十不孝」など、武士や庶民の生活を精力的に書き続けた。

 貞享3(1636)年の「好色五人女」では、「八百屋お七」や「おさん茂兵衛」など、近年に起こったスキャンダラスな実話を取り上げて、庶民の覗き見趣味にも訴えている。俳文を連ねたような古風な文体の間から、近代的ともいえる情感の閃きを描き出す西鶴は、今でも読むに値する文学を創造したと言えるだろう。

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 松尾芭蕉

 松尾芭蕉寛永21(1644)年に、伊賀上野で土着浪人の子として生まれた。伊賀国の武士に仕えながら、京都の北村季吟に師事して俳諧の道に入った。30歳ごろに江戸に出て江戸俳壇に出入りし、西山宗因の談林派俳諧に大きな影響をうけた。

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  延宝6(1678)年ごろには宗匠となり、俳諧師として身を立てるようになった。宗匠として、江戸や京都の俳壇と交流を持ちながら、多くの作品を発表するが、延宝8(1680)年、日本橋から深川に居を移し、世間から離れて俳諧の純粋性を求めるようになったとされる。

 この江戸深川の居を「芭蕉庵」と名付け、この時期から「芭蕉」と号するようになった。しかし天和2(1682)年の天和の大火(いわゆるお七火事)で庵を焼失し、隠棲して庵を結ぶことにも儚さを感じ、旅に身を置く考えが強まった。

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  貞享元(1684)年、芭蕉は「野ざらし紀行」の旅に出る。東海道を西へ向かい、伊賀・大和・吉野・山城・美濃・尾張を廻り、再び伊賀に入って越年すると、木曽・甲斐を経て江戸に戻った。

    野ざらしを心に風のしむ身哉

 

 野ざらし紀行から戻った芭蕉は、貞享3(1686)年春、芭蕉庵での蛙の発句会で、有名な蛙の句を詠んだ。この時期、芭蕉風(蕉風)俳諧を確立したとされる。

    古池や蛙飛びこむ水の音(蛙合)

 

 その後も、「鹿島詣」「笈の小文」「更科紀行」など、休む間もなく旅を続ける。そして元禄2(1689)年3月27日、弟子の曾良を伴い芭蕉は「おくのほそ道」の旅に出た。

    夏草や兵どもが夢の跡(岩手県平泉)
    閑さや岩にしみ入る蝉の声(山形県立石寺
    五月雨をあつめて早し最上川山形県大石田町
    荒海や佐渡によこたふ天河(新潟県出雲崎町

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  元禄4(1691)年、芭蕉は京都に入り、向井去来の落柿舎や野沢凡兆宅で、去来や凡兆らと「猿蓑」の編纂に取り組む。

    初しぐれ猿も小蓑をほしげ也(猿蓑)

 

 芭蕉は江戸に戻り、元禄5(1692)年5月、新築された芭蕉庵へ移り住んだ。しかしこの頃から、体調を崩し庵に篭ることが多くなるが、多くの門人囲まれ「すみだはら」を編集し、何度も推敲を重ねてきた「おくのほそ道」を仕上げた。

 それでも元禄7(1694)年には、江戸を発ち伊賀上野へ向かった。京都、奈良などを経て大坂に向かったが、その地で病に臥せり、10月12日、多くの門人に見守られながら息を引き取る。享年51。

    旅に病んで夢は枯野をかけ廻る(病中吟)

 

近松門左衛門

  近松門左衛門は承応2(1653)年、越前国福井藩士の次男として生まれた。父親が藩を辞して浪人として京都に移り住んだため、近松も青年期は京都で公家に仕えたとされ、その間に知識や教養を身に着けたもようである。

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 やがて近松は、当時京都で評判の浄瑠璃語り宇治加賀掾のもとで浄瑠璃を書くようになる。天和3(1683)年、曾我兄弟の仇討ちの後日談を描いた「世継曾我」が加賀掾の一座で上演され、翌年その弟子竹本義太夫が大坂道頓堀で起こした竹本座で、義太夫がこの「世継曽我」を語り評判となった。

 「世継曽我」に作者名はないが、確認される近松の最初の作であり、以後義太夫近松の書いた浄瑠璃を竹本座で語るようになる。貞享3(1686)年竹本座上演の「佐々木大鑑」で、初めて作者として「近松門左衛門」の名が記された。

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 元禄5(1692)年、40歳で大坂の商家の娘と結婚し(再婚か)、一女一男をもうけた。元禄6(1693)年からは、近松は歌舞伎狂言作者となり、坂田藤十郎が出る芝居の台本などを書いたが、10年後には浄瑠璃に戻る。

 この歌舞伎作者としての経験が、以後の浄瑠璃の作に生かされ、元禄16(1703)年、代表作となる「曽根崎心中」が上演された。竹本座の座本の地位は初代竹田出雲に譲られたが、以降も近松は竹本座の座付作者となり、浄瑠璃の執筆に専念し、正徳5(1715)年の「国性爺合戦」では、17ヶ月の続演となる大当りをとった。

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 晩年は病がちとなり、享保9(1725)年、「関八州繋馬」を絶筆として11月に死去。享年72。近松門左衛門は、「曽根崎心中」「国性爺合戦」以外にも「冥途の飛脚」 「心中天網島」「女殺油地獄」など110あまりの浄瑠璃を残した。

 そのうち24作が、町人社会の義理や人情をテーマとした世話物だったが、当時人気があったのは時代物であり、「曽根崎心中」などは昭和になるまで再演されなかった。当時これに触発されて心中が流行したので、幕府は心中物の上演を禁止するようになったという。

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(この時期の出来事)

*1681.12.11/ 綱吉擁立に功があった堀田正俊が、大老に就任する。

*1683.7.25/ 幕府は武家諸法度を改訂し、文治主義を明確に打ち出す。

*1683.-.-/京都 宮崎友禅が新技法を駆使して「友禅染」を初め、京で流行する。

*1684.8.28/江戸 江戸城中で、大老堀田正俊若年寄稲葉正休に刺殺される。

 

【60・70年安保/大学紛争メモ】

【60・70年安保/大学紛争メモ】

 

◎東大安田講堂事件

 1969年1月(s44)、学生に占拠されていた東大安田講堂が、遂に封鎖解除された。この東大安田講堂の攻防は、京都の実家でぼんやりとテレビで観ていた。安田講堂バリケードへの機動隊導入と封鎖解除は、70年安保に向けて燃え上がった反体制運動の決定的な「転回点」となった。

 学生および労働者などの活動家は、拠点となる大学に集結していた。東大のバリケードにも、東大全共闘のみならず、全国各地からの各セクトメンバーも集まっていた。最高学府東大の安田講堂は、パリ五月革命のカルチエ・ラタンと同じように、闘争活動の「象徴」となっていたわけだ。

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 その安田講堂に機動隊が導入され、決定的な落城の模様は逐一テレビなどで放映された。それぞれの立場にあったものからも、「これで終った」と思える事件だったのである。その後、各地の大学拠点にも次々と機動隊が導入され、開放されていった。

 そして闘争する学生たちは、すべての「城」から追出された「敗残兵」として各地に散らばるしかなかった。その後は、地下にもぐり、過激暴力化し、孤立化し、内部分裂し、そして連合赤軍の顛末に見られるような自滅の末路をたどったのである。

 

 この安田講堂事件が、「全共闘運動」の転機となった。東大全学共闘会議は、そもそも東大の一般学生が、各所属学部ごとに改革を称えて、一般学生が集まって意見交換会議を開いたのが始まり。それが、東大の全学で連合したものが「全学共闘会議」というわけだ。
 ところが、革マル派中核派など、各自色分けされたヘルの過激派セクト集団は、全共闘組織に入り込んで、実力で主導権を奪おうとした。それで、学内で内ゲバが激しくなり、東大構内でのリンチ殺人ゴッコが常態となっていた。


 安田講堂事件の頃ともなると、各セクトが地方の大学から支援部隊を動員して、実力抗争を展開したため、元来の東大一般学生はほとんど排除されてしまっていた。その結果、安田講堂事件での逮捕者には、東大一般学生がほとんど居なかった。

 東大封鎖解除によって、全国から動員されていた各セクトの学生は、居場所を失い、地方の母校へ帰って活動を始めた。したがって関西などでも、関東から一年遅れで、東京から追い出されて来た過激派のリードによって、大学占拠が始まった。


 そして東大の「聖域」であったキャンパスに、一旦機動隊が導入され封鎖解除されると、雪崩をうつがごとく、他大学でも導入されて、次々と封鎖解除されて行った。そこで大学に拠点を持てなくなった連合赤軍などは、完全にテロ集団化していって、大菩薩峠などで戦闘訓練をやってたというわけだ(笑)

 

◎「1969年の1月、あなたはどこにいましたか?」(Where were you in '69?)

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 当方の大学も、前年の68年12月、全学封鎖に入った。この夏休みに鬱になって、既に下宿を引き払って京都の実家に引きこもっていた。秋が深まってから、やっと大学に顔を出しかけたとたんに封鎖になった。安田講堂事件は実家でテレビで観ていたが、悶々とする複雑な気分であった。

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 翌69年2月3日、学内の講堂で「全学大衆団交」という名目の話し合いが行われたが、何ら進展せず。ずっと封鎖休講中なので、京都の文学仲間とひたすら京都の繁華街を徘徊したりしていた。

(全学大衆団交の記録)

https://naniuji.hatenablog.com/entry/20140823

 

 同時期に自殺して、後日その日記が刊行されて話題となった、高野悦子立命館大学学生)の『二十歳の原点』に書かれていることと、ほぼ重なる地域で徘徊していたことになる。

(『二十歳の原点』)

https://naniuji.hatenablog.com/entries/2017/02/13

 

 その年の夏休みも迫った7月12日、当時の学長代行(ほとんどの大学で学長は心労で病気休養で、学長代行ばかりだった)の提案で、「全神大人結集集会」という名目の全学集会が行われた。神戸市西端の須磨区の団地造成地で行われ、須磨駅前には反対派の学生たちが集結する。私も冷やかしがてらに京都から出かけていった。
 駅の改札を出て、さてどうするかと見まわしていると、両側からガッシと腕を固められて、さあ行きましょうと、造成地に向けて坂道を駆け上る。両脇には、薄汚いTシャツ、ジーパンのブスねーちゃん、仕方なしに、デモ隊の先頭に立って会場まで登りつめることになった(笑)

 

 六甲山系を削って造成途中のむき出し赤土の会場は、さながら西部劇の舞台、入り口には屈強な機動隊ががっしり固めていて、両側から挟まれて一列縦隊のみで入場を許された。何をするまでもなく、機動隊に崖っぷちに追い込まれて万事休す。
 会場でぐるりとUターンさせられて、帰るならこちらと誘導され、機動隊にサンドイッチにされながら一人づつ場外に出される。あいつら汚いから、傷がつかないように、両側から腹にパンチや尻キック、眼鏡学生の眼鏡をチョップして落とす。

 

 ということで、眼鏡と折りたたみ傘を失って、一般ノンポリ学生としての私の”闘争”は終焉した。そのときの議決(学長声明を読み上げただけ)とかで、学園封鎖は解除とされ、機動隊導入で簡単に大学は元に戻った。

 かくして、大学2年生の夏休み明けから授業が再開された。それまで、自分はほとんど単位を取ってなかったので、教養部(1.5年間)で留年するつもりだったが、封鎖中の教室で、学生が出席簿を焚火にして暖をとったとかで、数枚のレポートだけで単位が取れてしまった。

 

◎「全学連」と「全共闘

  「全学連」は「全日本学生自治会総連合」の略称であって、60年安保闘争の時期に学生運動の中心を担った。各大学にはそれぞれ学生自治会があり、その自治会を統合する全国組織として、戦後に新制大学が出揃ってきた1948年に結成され、当初は日本共産党の強い影響下にあった。

 しかし1955年以降、日本共産党への批判派が登場し「新左翼」と呼ばれた。そして新左翼系の学生たちは、共産党支配下の学連から分離する形で、「反日共系」全学連を結成した。1958年には、新左翼系グループが統合されて「共産主義者同盟」(共産同、ブント)が成立し、各地域の学連の主流派となる。

 理論的な対立から、共産同から「革共同」(革命的共産主義者同盟)が分離するなど、新左翼は分裂しながらも、60年安保闘争を主導していく。1960年6月、安保自動承認の期日が迫るなか、連日大規模なデモが行われ、ブント系全学連主導の国会突入事件では、東大生の樺美智子が死亡する悲劇が起こった。

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 最大の盛り上がりを見せた国会突入事件であったが、6月19日、新安保条約が自然承認され、岸内閣は責任を取って総辞職、経済成長を公約する池田内閣が登場すると、一気に学生運動は沈静していった。と同時に、新左翼系団体は分裂を繰り返すことになる。

  

 一方、「全共闘」は「全学共闘会議」の略で、各大学ごとに、一般学生が自主的に集まって、大学の個別的問題を語り合う会として始まった。60年安保後、新左翼系グループは分裂に分裂を繰り返し、政治的な学生運動は低迷しているなかで、分裂した各派が一般学生を巻き込む形で「全共闘運動」が登場した。

 東大紛争で有名になった東大全共闘は、東大医学部を中心に、インターンなど研修医の待遇改善運動として始まった。日大全共闘は、大学理事会による多額の使途不明金が露見し、大学の経営陣を批判する集会として始まった。このように「全共闘運動」は、各大学ごとの個別の問題を、一般学生が主導して告発する活動であった。

 しかし分裂抗争を繰り返していた新左翼系各派は、その組織力を活用し、一般学生の全共闘をジャックする形で、全共闘運動を牛耳ってゆく。そして70年安保継続が迫るにしたがって、より政治的な反体制運動となり、ゲバルト(暴力闘争)も辞さない急進各派が競い合うようになってゆく。

 各派はセクトと呼ばれ、それぞれ色分けされたヘルメットをかぶり、ゲバ棒をかかげた武闘集団へと変化してゆき、全共闘運動の担い手であった一般学生は、ほとんど活動から離れていった。

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 1969年1月の東大安田講堂攻防のあと、順次、全国の封鎖中大学にも機動隊が導入され、開放されていった。同年9月には「全国全共闘」という全国連合が結成されるも、実質的には各セクトによる「党派共闘」に過ぎなかった。翌70年6月に安保条約が自動継続となると、「学生運動」は急激に萎んでいった。そして大学から追い出された過激セクトは、もはや政治運動とも言えないテロ集団と化していった。

 

「駅ピアノ」

「駅ピアノ」

 

 枝豆で一杯やりながら、NHK-BSで深夜にやってる「駅ピアノ」という番組を見てる。今夜はチェコプラハの駅。いろんな人が、勝手にピアノを弾くのだが、その街での生活の匂いが感じられて、なかなか楽しい。

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 特に、旧東欧の共産圏だった街とかのが良い。浮浪者のような年寄りが弾き出して、共産圏の時代には教師をしていたとかだったりする。そういうのを見るだけで、その街の歴史まで感じさせてしまう。

 

 日本でも品川駅などにピアノが置かれ出したらしいが、日本では馴染まない気がする。やはりピアノや音楽が、そこの庶民の生活に浸透している文化でないと、取ってつけたような気分になってしまう。

 

 これはフランスのどこかの駅らしい。

https://www.youtube.com/watch?v=HetA4oLaA-o&t=5s

www.youtube.com