【トキワ荘の青春】

トキワ荘の青春

 

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 映画『トキワ荘の青春』をテレビBSでやっていた。盟主手塚治虫がアパートを去った後も、慕って集まる若手漫画家たちの兄貴分として、みんなの面倒をみた寺田ヒロオ本木雅弘が演じて、主人公として描かれている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%82%AD%E3%83%AF%E8%8D%98%E3%81%AE%E9%9D%92%E6%98%A5

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 石ノ森章太郎藤子不二雄赤塚不二夫など後輩が次々にヒットして売れていく中で、頑固に自分の世界を守って、次第に時代に置いて行かれるヒロさんこと寺田ヒロオを中心に物語は展開される。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E7%94%B0%E3%83%92%E3%83%AD%E3%82%AA
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 正統派の児童漫画にこだわり続けた寺田は、映画シーン風の画像をペン画で詳細になぞった、当時ブームとなった「劇画」に抵抗し続けた。やがて、師の手塚の引き留めにも関わらず、筆を折るとともに、酒におぼれて体を痛めていったという。

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 当時、創刊されたばかりの週刊少年サンデーを愛読していた小学生の私は、手塚の連載『0マン』の次に、寺田の『背番号0』や『スポーツマン金太郎』に飛びついて魅了されたものだ。

 この昭和30年代後半に登場する、トキワ荘漫画家たちは、ほとんどその名を想いうかべられる。そして、劇画ブームとともに、彼ら以降の漫画世界に着いていけなくなった私も、漫画を読まなくなった。


【17th Century Chronicle 1676-80年】

【17th Century Chronicle 1676-80年】

 

◎4代将軍家綱没(40)、異母弟の綱吉(35)が5代将軍となる。

*1680.4.10/ 大老酒井忠清は、病に悩む将軍家綱を迎えて、二の丸で饗宴を催す。

*1680.5.6/ 家光の四男で舘林藩主徳川綱吉が、将軍家綱の継嗣となる。

*1680.5.8/ 将軍家綱が没する。享年40.

*1680.8.23/ 徳川綱吉が第5代将軍に就任する。

*1680.12.9/ 下馬将軍と称された大老酒井忠清が罷免される。 

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 1680年4月、病に臥せりふさぎこむ家綱をなぐさめようと、大老酒井忠清ら重鎮が饗宴を催すもその甲斐なく、第4代将軍徳川家綱は5月8日に没する。その死が迫ってから養子に迎えられた舘林藩主綱吉は、8月に宣下を受け第5代将軍に就任した。

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 綱吉は徳川家光の四男で家綱の異母弟であったが、病弱の家綱の世子とするにあたっては、下馬将軍と呼ばれ権勢をほこった大老酒井忠清が反対を唱えたと言われる。しかし、対立する老中堀田正俊に押し切られた。

 綱吉の生母 玉(のちの桂昌院)は京の庶民の娘と言われ、その出自の低さゆえ酒井忠清に反対されたが、このお玉さんの出世譚から「玉の輿にのる」という言葉が生まれたと言われる。 

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 家綱は徳川家光の長男として、早くから後継ぎとされていたが、慶安4(1651)年4月、家光が48歳で薨去すると、家綱は11歳で第4代将軍に就任することになった。当初、由井正雪慶安の変が起きたりと政情不安を経験したが、叔父の保科正之や家光時代からの大老酒井忠勝や老中松平信綱寛永の遺老といわれる名臣の支えで危難を乗り越えた。

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 治世後半の寛文・延宝期には、寛永の遺老が退いたあと、酒井忠清大老に就任し、忠清を筆頭にした老中合議制のもとで、安定した幕政運営がなされた。3代家光と5代綱吉の間で目立たないが、家光の後を受けて文治主義を定着させ、29年間にわたる安定政権を堅持した。

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 家綱は「左様せい様」と称され、大老酒井忠清重臣に政務を委ねることが多く、必然的に忠清に権力が集中した。家綱は生まれつき病弱で男子にも恵まれなかったので、継嗣問題が憂慮されていた。

 延宝8(1680)年5月に家綱が病に倒れたため、老中堀田正俊の勧めで、異母弟で末弟にあたる館林藩主松平綱吉を急遽養子に迎えて将軍後嗣とし、その直後に家綱は死去した。享年40。

 綱吉が養子になるに際しては、大老酒井忠清は宮家将軍を迎えるべしと反対したとされる。そのせいか、綱吉が将軍に就任すると、間もなく忠清は解任される。代わって堀田正俊大老に就任し、綱吉治世前半の「天和の治」と呼ばれる政治を執り行なうことになった。

 

(この時期の出来事)

*1676.4.25/肥前 長崎代官末次平蔵が、密貿易の罪で隠岐に配流される。

*1677.2.-/ 菱川師宣の挿絵入り地誌「江戸雀」が刊行される。

 *1678.2.3/大坂 1月に死んだ遊女夕霧を追善するとして「夕霧名残正月」が、無名の役者坂田藤十郎が演じ、大当たりし一躍名を上げる。(和事の初め)

*1679.3.-/ 大坂地誌「難波雀」が刊行される。

*1679.11.3/江戸 吉原通いの果て辻斬りを繰り返した平井権八が、鈴ヶ森刑場で磔の刑に処せられる。

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 極悪人平井権八は、「白井権八」として歌舞伎や人形浄瑠璃に登場し、町奴「幡随院長兵衛」との鈴ヶ森での出会い場面は有名。

長兵衛「お若えの、お待ちなせえやし」、権八「待てとお止めなされしは、拙者がことでござるかな」

 「白井権八」と吉原の遊女「小紫」を描いた「権八小紫物」も、人気の演目であった。

 

「歴史は繰り返す。先ず悲劇として、次は茶番として。」

 「歴史は繰り返す。先ず悲劇として、次は茶番として。」カール・マルクス

 "History repeats itself, first as tragedy, second as farce." Karl Marx

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 "farce"は「笑劇」のことであり、茶番とも喜劇とも訳されるが、"comedy"が主として「喜劇」と訳される。

 

 この有名な一節は、マルクスの「ルイ・ボナパルトブリュメール18日」の冒頭に出てくる。

 「ヘーゲルはどこかで、すべての偉大な世界史的な事実と世界史的人物はいわば二度現れる、と述べている。彼はこう付け加えるのを忘れた。一度目は偉大な悲劇として、二度目はみじめな笑劇として」

 

 つまり、師でもあったヘーゲルの言葉を引き合いに出して、一回目の「悲劇」は、ヨーロッパ大陸を制覇した「ナポレオン・ボナパルト(ナポレオン一世)」を指し、二度目はブリュメールのクーデターで帝位に就いた甥の「ルイ・ナポレオンナポレオン三世)」を指している。

 

 ルイの事績は、狭義の「ボナパルティズム」の語源となったように、叔父大ナポレオンの事績には比肩しようもなく、浮動勢力のバランスの隙間に咲いたアダ花のような卑小なものとされる。

 

 「悲劇(トラジィディ)」に対する「喜劇(コメディ)」ではなく、矮小化された「お笑い種(ファルス)」として繰り返されたにすぎぬと冷笑するために言及されたものだ。

 

 「ファルス」は悲劇の幕間などに挿入される道化劇であって、ストリップの合間を埋めるコントみたいなもんだ。独立して演じられる「コメディ(喜劇)」とは別ジャンルの茶番劇。日本語では、この辺の伝統劇に基づくコメディという概念が無いから、曖昧に使われることが多い。

 

 

【17th Century Chronicle 1671-75年】

【17th Century Chronicle 1671-75年】

 

伊達騒動

*1671.3.27/江戸 大老酒井忠清の屋敷で、仙台伊達家内紛の審問が行われているなか、突如、国家老の原田甲斐が刃傷におよぶ。

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 伊達騒動は、江戸時代前期に伊達氏の仙台藩で起こったお家騒動で、黒田騒動・加賀騒動とともに三大お家騒動と呼ばれる。初代藩主伊達政宗の孫3代目伊達綱宗の放蕩三昧に始まった内紛だが、その子4代目の伊達綱村が失政で隠居に追い込まれるまで、複雑に人物が関わった40年にわたる内政の混乱は、伊達60万石が改易の危機に瀕するほどだった。

 

 騒動は、綱宗隠居事件・寛文事件・綱村隠居事件と3期に分類される。仙台藩3代藩主伊達綱宗は遊興放蕩三昧であったため、政宗の十男で叔父にあたる伊達兵部宗勝(一関伊達家)らが、綱宗を強制隠居させたのが事の発端であった。(綱宗隠居事件)

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 4代藩主にわずか2歳の伊達綱村が就任したが、幼少の藩主に代わって、大叔父にあたる宗勝が実権を握り権勢を振るうようになった。そんななかで、伊達家一門内で所領争いが生じ、一方の当事者伊達安芸宗重(涌谷伊達家)は裁定に不満を抱くと、伊達宗勝派の専横を幕府に上訴することになった。

  伊達家内紛は錯綜し、成り行き次第では改易も懸念されるなかで、場所を大老酒井忠清邸に移し大老以下幕府重臣列座のもとで、2度目の審問が行われた。その審問中、宗勝派の伊達藩奉行(国家老)原田甲斐宗輔が、控え室で突如、宗重を斬殺した。 

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 即座に原田甲斐も斬られ、混乱の中で、他に審問に呼ばれていた伊達家家臣2名も含めて、全員が死亡してしまう。関係者が死亡し審理も不明のまま、藩主綱村は幼少のためお構い無し、刃傷沙汰を起こした原田家は断絶、宗勝も支藩一関藩主を解かれ改易となった。

 刃傷事件の記録は多数の関係者によるものが残されているが、肝心の原田甲斐がなぜ刃傷に及んだかは不明のまま、乱心として扱われた。甲斐は歌舞伎などで悪人として扱われることが多いが、山本周五郎の小説「樅(もみ)ノ木は残った」では、幕府による取り潰しから藩を守るために尽力した忠臣として描かれ、話題に上った。(寛文事件・伊達騒動というときはこの事件を指す)

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  その後も伊達藩にはごたごたが続き、長じて藩主としての権力を強めようとした綱村は、自身の側近を藩の重職に据えるようになったため、これに危惧を抱いた伊達家旧臣は綱村に諌言書を提出した。

 この内紛は、ときの5代将軍綱吉の耳にも入るようになり、仙台藩の改易が危惧され出したため、綱村はやっと幕府に隠居願いを提出した。40年にわたる伊達騒動は、綱村の隠居でようやく終止符が打たれたが、伊達政宗以来の外様大名の雄仙台藩は、以後、存在感を潜めることになった。(綱村隠居事件)

 

$「樅ノ木は残った」山本周五郎

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%85%E3%83%8E%E6%9C%A8%E3%81%AF%E6%AE%8B%E3%81%A3%E3%81%9F

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NHK大河ドラマ『樅ノ木は残った』(1970年)https://www.nhk.or.jp/archives/search/special/detail/?d=taiga029

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(この時期の出来事)

*1671.7.-/東国 江戸の豪商河村瑞賢が、陸奥幕府領年貢米の江戸輸送航路を開く。(東廻航路の開設)

*1671.10.22/江戸 儒学者神道学者山崎闇斎が、神儒一致を唱え「垂加神道」の号を贈られる。

*1672.2.2/江戸 元宇都宮藩士奥平源八が、父の仇奥平隼人を討つ。(浄瑠璃坂の仇討)

*1672.-.-/日本海 河村瑞賢が、出羽国幕府領の年貢米を江戸に輸送し、東廻航路に続いて西廻航路も開設する。

*1673.5.-/江戸 幕府は初めての出版統制令を出す。

*1974.2.14/京都 京都所司代永井尚庸が市中の宗門改めを行う。事実上の戸籍調査であり、京の町人人口(武家・公家・寺社は対象外ゆえ)は40万人と判明。同時期に各地でも宗門改めが実施され、京都・大阪・江戸の三都とも、ほぼ同規模の人口であった。

*1674.-.-/大坂 鴻池喜右衛門が難波今橋に両替店を開業する。

*1675.6.21/小笠原 代官伊奈忠易が、八丈島南方の小笠原諸島を探検、珍獣奇木を幕府に献上する。

 

【17th Century Chronicle 1666-70年】

【17th Century Chronicle 1666-70年】

 

◎浅井了意と仮名草子

*1666.1.-/ 仮名草子作者の浅井了意が、怪異小説集「御伽婢子」を刊行する。

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 「御伽婢子(おとぎぼうこ)」は江戸時代に編まれた浅井了意による仮名草子であり、中国の怪異小説集などに話材をとり、舞台を室町時代・戦国時代の日本に移した翻案短編小説の形をとっている。

 

 中国の奇談集・怪異小説を直訳した書物は幾つもあるが、御伽婢子は翻案による分かりやすさからひろく読まれ、同種内容の仮名草子が多く出されることになった。御伽婢子ないしは婢子(ほうこ)とは、魔除けの意味も込められた子供用の布製詰め物人形で、這う子を形どった「はうこ」が転じたもの。

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  「御伽婢子」や続編の「狗張子(いぬはりこ)」で取り上げられた怪異譚は、のちの上田秋成の「雨月物語」や、近代になってからの泉鏡花小泉八雲ラフカディオ・ハーン)などの怪異物語に大きな影響をあたえている。

 

 また、明治期になってから三遊亭圓朝によって完成された落語「怪談牡丹灯籠」も、御伽婢子に収録された「牡丹灯籠」を下敷きに創作された。了意の手による「牡丹灯籠」を下記にリンクするが、文語体であっても驚くほど読みやすい平易な文章である。

 牡丹灯籠(原文)>

http://ocw.aca.ntu.edu.tw/ocw_files/104S105/104S105_AA11R03.pdf

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 浅井了意は、父が本照寺の住職の座を追われたため、彼も浪人しながら学び儒学仏道神道の三教に通じた。のちに京都二条本性寺(真宗大谷派)の昭儀坊の住職となり、仏教書・和歌・軍書・古典の注釈書などを著す一方、「仮名草子」と呼ばれる読み物作品を多く著す。

 

 「御伽婢子」も仮名草子の一つで、ほかにも「堪忍記」「可笑記評判」「本朝女鑑」を刊行するとともに、明暦の大火を題材にした「むさしあぶみ」を書き、一方で「江戸名所記」「東海道名所記」「京雀」などの名所記を著すなど、多岐にわたる著作をものにした。

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 中でも「浮世物語」は、浮世坊が諸国を遍歴する物語という体裁をとり、武家の悪政や悪徳商人の横行など世間の社会悪を笑話として婉曲に批判し、教説性の強いそれまでの「仮名草子」と一線を画しており、このあと元禄期に井原西鶴らによって展開される「浮世草子」に連なる作品とされる。

 

 浅井了意は、元禄以降に登場する井原西鶴近松門左衛門らと比して、あまり著名ではないが、その幅広い教養をもとに、庶民の生活を面白おかしく描き出し、「むさしあぶみ」のように明暦の大火を題材にしたルポルタージュ的な作品から、江戸や京都の名所記の体裁をとった地誌的な作品など、きわめて広いジャンルの作品を残している。

 

 当時多かった大仰な修飾を排し、平易な文章で事象にそって事実を淡々と述べてゆく了意の文体は、明治になって二葉亭四迷らが苦心して展開した「言文一致体」を先取りした骨格を持っている。昨今でいえば、ジャーナリストの資質を持った文章家と言えるのではないか。

 

(この時期の出来事)

*1666.3.29/ 老中酒井忠清大老となる。

*1666.10.3/播磨 「聖教要録」で朱子学を批判した山鹿素行が処罰され、赤穂藩に預けられる。

*1667.閏2.18/ 幕府は、既に派遣墨の関八州を以外の諸国にも、巡見使を派遣する。

*1668.4.11/陸奥 会津藩保科正之が、家訓15ヶ条を定める。

*1668.7.13/京都 幕府が京都町奉行を設置する。

*1669.6.-/蝦夷 東蝦夷アイヌ首長シャクシャインが蜂起する。

*1670.6.12/江戸 林春斎が「本朝通鑑」273巻の編纂を終え、将軍家綱に献上する。

 

 

【17th Century Chronicle 1661-65年】

【17th Century Chronicle 1661-65年】

 

水戸光圀

*1661.8.19/常陸 徳川光圀水戸藩主となる。

*1665.7.-/江戸 水戸藩徳川光圀が、明の学者朱舜水を招聘する。 

 

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 寛文1(1661)年8月、父徳川頼房の死去を受けて、世子徳川光圀水戸藩28万石の第二代藩主となった。初代藩主徳頼房の三男で、徳川家康の孫に当たる。頼房の葬儀に際しては、幕府の殉死禁止令に先んじて、当時の風習であった家臣の殉死を禁じたという。

 水戸藩主としては、様々な改革を手掛けた名君とされている。殉死の禁止以外にも、藩主就任直後の寛文2(1662)年には、水質の悪い水戸下町領民のために、笠原水道という飲用水用水道を設置した。 

 

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 さらに翌寛文3(1663)年(1663年)、領内の寺社改革に乗り出し、寺社の管理を徹底するとともに、神仏分離を進めた。また、寛文5(1965)年、明の儒学者朱舜水を招く。招聘目的の学校建設はかなわなかったが、儒学実学を結びつけるその学風は、水戸藩の学風の特徴となって引き継がれた。

 藩主時代晩年には蝦夷地に関心を示し、巨船快風丸を建造し、三度にわたって蝦夷地を探検させた。元禄3(1690)年には、養嗣子徳川綱條に藩主の地位を譲り、西山荘へ隠棲して権中納言に任じられる。 

 

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 徳川(水戸)光圀の業績として最も重要なものは、何より「大日本史」の編纂事業であろう。光圀は世子時代に「史記」を読み感銘を受け、以来学問に精励し史書編纂を志した。藩主就任以前の明暦3(1657)年、江戸水戸藩邸に光圀は修史のための史局を設ける。

 直前の明暦の大火で、多くの書籍・諸記録が失われ、幕府の学問所を担った林羅山が落胆のあまり死去、それを受けて修史事業を発起したとされる。光圀の藩主就任に伴い修史事業は次第に本格化し、 元禄3(1690)年、光圀は隠棲すると、本紀の完成を促進させ「百王本紀」として完成させる。

 

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 編纂事業は光圀の死後も、水戸藩の根幹事業として延々と続けられ、明治以後も水戸徳川家が継承、明治39(1906)年に至ってやっと完成される。「大日本史」の編纂を通じて形成された「水戸学」は、大義名分論に基づいた尊皇論で貫かれており、幕末の思想に大きな影響を与えた。

 

 

水戸黄門漫遊記

 

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 水戸黄門漫遊記といえば、水戸の御老公が、お供の助さん格さんを連れて諸国を漫遊、先々で遭遇する悪大名悪代官などの悪政を糺し、民百姓を助けるという物語が定番となっている。しかし、水戸藩主としての徳川光圀が、隠居後に白髭と頭巾姿で諸国を行脚したという史実はみられない。

 光圀は同時代から名君と評され、隠居後は領地内を巡視した話などから、庶民の間でも知名度は高かった。さらに、「大日本史」の編纂のため、資料収集のために家臣を諸国に派遣したことが加わって、諸国漫遊の話ができていったと考えられる。

 

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 水戸光圀は、藩主の座を養世子を譲って隠棲すると、権中納言の官位を賜ったが、この唐名である「黄門」をとって「水戸黄門」さまと呼ばれた。また、「大日本史」編纂のために設けられた彰考館を取り仕切る任にあたった家臣、佐々十宗淳(十竹、通称介三郎)と安積澹泊(通称覚兵衛)が「助さん格さん」となった。

 このような漫遊記が人口に膾炙するようになるのは、江戸の後期になってからである。まず、光圀が没して半世紀後の宝暦年間に、光圀の伝記資料を基にした実録小説「水戸黄門仁徳録」が成立し、さらに講談や歌舞伎でさまざまに変奏されて、庶民に浸透していった。 

 

 当初の俳人二人をお供に行脚する話は、明治の大阪の講釈師の手によって、家臣の佐々木助三郎(助さん)と渥美格之進(格さん)に入れ替えられて人気をはくした。また、「天下の副将軍」こと水戸光圀が、諸国を漫遊するとなっているが、副将軍職は幕府の職制にはない。

 水戸徳川家は御三家の一つで、参勤交代がなく江戸定府であった。そのため光圀も江戸詰めで、いざというときには将軍の代わりを務めることもあり得るとして、副将軍になぞえられたのだろうか。

 

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 このように講談や浪曲で庶民に親しまれた黄門様は、映画でも時代劇の定番として、戦前から戦後にかけて数十作も制作されている。戦後には、それまで悪役が多かった月形龍之介が主演したものがヒットして、月形の当たり役となった。

 テレビの連続ドラマとなると、毎回場面を変えて逸話を放映できるので重宝される。月形と同様に悪役が多かった東野英治郎を主演に起用した「水戸黄門」シリーズは人気をはくし、テレビ時代劇を代表する長寿番組となった。

 

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 このテレビシリーズはその後も、黄門様ほか助さん格さんなどの配役を入れ替えて何代も続いた。毎回の佳境で、三つ葉葵の印籠を示して「この紋所が目に入らぬか」と黄門の正体を明かすという定番シーンは、以外にもこの人気シリーズの中で発案されたものだという。

  

(この時期の出来事)

*1661.3.-/ 明暦の大火を記録した浅井了意の「むさしあぶみ」が刊行される。

*1661.閏8.-/陸奥 会津藩保科正之が、藩士の殉死を禁じる。

*1662.2.-/京都 伊藤仁斎が堀川に儒学塾古義堂を開く。

*1662.-.-/ 仮名草子作者浅井了意の「江戸名所記」が刊行される。

*1663.1.-/山城 宇治黄檗萬福寺法堂が完成し、隠元隆琦(隠元禅師)が入山する。

*1663.5.23/ 幕府は、武家諸法度を改定し、殉死の禁止などを追加する。

*1663.8.5/ 幕府が、旗本・御家人に「諸士法度」を出す。(武家諸法度は大名に向けてのもの)

*1664.4.28/ 幕府が諸大名に、領地の判物・朱印状を与える。(大名領地の認知)

*1665.7.13/ 幕府が、諸大名の証人制(大名が江戸に妻子を人質として差し出す制度)を廃止する。

 

 

「クレーの絵本」谷川俊太郎

「クレーの絵本」谷川俊太郎

 

本棚の奥から、こんな絵本がでてきた。「クレーの絵本」で谷川俊太郎の詩が添えられている。1995年発行。

 

クレーの絵は、メルヘンぽいシンプルな形象の奥に、不思議な世界の謎を突きつけてくる。

 

リルケカフカなど、この時期のドイツ語圏の作家が連なってくる気がする。

  

パウル・クレー(Paul Klee) 画像と解説>http://art.pro.tok2.com/K/Klee/Klee.htm

 

 

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