【6th Century Chronicle 541-580年】

【6th Century Chronicle 541-580年】


◎仏教伝来と崇仏論争

*538/奈良 百済聖明王から仏像・経論が贈られる(仏教公伝)。(日本書紀では552年とされる)

*552/奈良 蘇我物部氏のあいだに崇仏論争が起き、排仏派の物部尾興や中臣鎌子が破仏をおこなう。

*570/畿内 蘇我稲目が没し、物部尾興らが大規模な破仏をおこなう。

*571/奈良 欽明天皇が没する。

*572/奈良 敏達天皇が即位し、大連(おおむらじ)には物部守屋、大臣(おおおみ)には蘇我馬子が就任する。

 

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 私的な信仰としてはすでに伝来していたが、6世紀半ばの欽明天皇期、百済聖明王が仏像や経典とともに仏教の功徳を賞賛した上表文を献上したのをもって、公式の「仏教公伝」とされる。「日本書紀(720年成立)」では、欽明天皇13(552)年に百済聖明王が使者を使わし仏教を伝えたとされるが、内容に矛盾を含み、今では538年説が有力となっている。

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 4世紀後半以降、朝鮮半島では高句麗百済新羅が連携・抗争を繰り返しており、6世紀前半即位した百済聖明王(聖王)は、次第に新羅の圧迫を受け、さかんにヤマト政権に対して援軍を要請しており、より良好な関係をもつため、百済聖明王はヤマト政権に公的に仏教を伝えた(仏教公伝)。

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 仏教が伝来する以前、日本には土着の原始神道古神道)が存在したと考えられるが、大陸で高度に洗練された仏教は理解されがたく、すんなりとは受容されなかった。ヤマト政権をささえる豪族の中では、物部氏・中臣氏など原始神道の神事に携わる氏族が力を持ち、排仏派の物部尾興や中臣鎌子が破仏を行ったと記録されている。

 他方、渡来人勢力とつながりのあった新興勢力の蘇我氏は、早くから国際的な視野を持ち、朝鮮半島国家の先進的な文物を取り入れる観点からも、仏教の受容に積極的であったとされる。

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 日本書紀には、欽明天皇の前で、蘇我稲目物部尾輿が崇仏廃仏の論争をかわしたことが書かれている。ただ、このような宗教論争は表面的な問題にすぎず、本質は政権内部における蘇我氏物部氏の勢力争いであったとする説もある。

 仏教をめぐる蘇我稲目物部尾輿の対立は、そのまま子の蘇我馬子物部守屋に持ち越され、馬子は渡来人の支援も受け仏教受容の度を深めた。しかし敏達天皇の末年に疫病が流行すると、物部守屋らはこれを蘇我氏による仏教崇拝が原因として、大規模な廃仏毀釈を実施した。

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 587年、用明天皇崩御したあと、物部守屋蘇我馬子がそれぞれの思惑で後継の天皇を担ごうとして対立、ついに守屋は馬子軍の放った矢に射抜かれて死ぬ。これにより物部氏は没落し、蘇我氏に対抗できる勢力はいなくなった(丁未の役)。

 やがて蘇我氏が擁立した推古天皇が即位すると、蘇我馬子は、用明天皇の子 厩戸皇子聖徳太子)と協力して仏教推進政策を進め、本格的な伽藍を備えた半官的な蘇我氏の氏寺 飛鳥寺が建立され、また聖徳太子によって四天王寺法隆寺の建立され、飛鳥の仏教文化が花開くことになる。

 

(この時期の出来事)

*541/朝鮮 百済加羅任那)諸国・倭が、加羅の復興会議を開く。

*554/朝鮮 百済が倭に派兵を求め、見返りに五経博士などを派遣する。新羅戦で百済聖明王が戦死する。

*562/朝鮮 新羅が大伽耶を併合し、加羅任那)が滅亡する。