【19th Century Chronicle 1883年(M16)】

【19th Century Chronicle 1883年(M16)】
 

*10.12/滋賀 女性民権運動の先駆岸田俊子(中島湘煙)が、大津で「函入娘」の題で演説し、内容が政治演説だとして、集会条例違反で拘引される。
 


 岸田俊子は、万延元年(1861年)12月4日に(1864年とも)、京都の呉服商松屋の岸田茂兵衛の長女トシとして生まれる。幼少より利発で、新設されたばかりの公立小中学校に入ると、神童と呼ばれた。ときの京都府知事槇村正直に会ったさいに、お前の名には「俊」の字がふさわしいと言われ、以後は俊子と名乗ったといわれる。

 槙村らの推挙で、宮中に文事御用掛として出仕し、皇后(昭憲皇太后)に漢学を進講するも、宮中のしきたりに矛盾を感じ、やがて御用掛を辞する。その後各地を遊歴し、高知で自由党員と知り合い、自由民権運動に加わることになった。明治15年(1882年)大阪で立憲政党が結党されると、政談演説会では俊子も弁士として演説、「婦女の道」を説いて喝采を受けた。
 


 江戸時代の「女大学」にいう「女三従の教え」が婦女子の道とされた時代に、その不合理さや女子教育の必要性などを説き、非常に評判となった。以後二年間、先覚者として男女同権論、女権伸長を唱えて全国を遊説し、岡山の景山(福田)英子など、各地の若い女性を鼓舞した。

 自由民権運動が勃興したばかりの時期に、男性が大半の自由党員らと接しながら、男女同権で、女権伸長を称えた俊子は、日本における女権論者の先駆といえる。同年代に津田梅子などが居るが、梅子が二度にわたる米国留学から帰国して、英語教師として教鞭を執り始める時期よりも、さらに俊子の活動は先行していた。
 


 全国を遊説するなか、大津で「函入娘」の題で演説したとき、政治演説だとして集会条例違反で拘引留置され罰金刑を受ける。その後活動の場を文筆中心に移し、明治17年(1884)自由党機関紙に「同胞姉妹に告ぐ」を発表、男本位の社会や民権運動の中の女性差別を鋭く指摘し、女性による初の男女平等論とされている。

 「同胞姉妹に告ぐ」で、「我が親しく愛しき姉よ妹よ、旧弊を改め、習慣を破りて、彼の心なき男らの迷いの夢を打ち破りたまえや」と高らかに唱えたときは、平塚雷鳥が「青鞜」を発刊し、与謝野晶子や福田英子ら女権論者が寄稿し始める明治末年よりも、四半世紀以上も先行していた。
 


 同時期に、自由党副総理中島信行と結婚し、中島俊子となり、雅号として「中島湘煙」と名乗った。俊子の活発な政治活動は二年ばかりであったが、その後も、女性の地位向上をめざす評論・随筆・漢詩や小説を発表し、女性解放を目指す進歩的女性として活躍した。また、この間、フェリス和英女学校でも教鞭を執る。

 明治25年(1892)、中島信行がイタリア公使として赴任し夫に同行するが、夫婦ともに肺結核にかかり、病状重く帰国した。夫が先に世を去り、俊子も明治34年(1901年)5月、死去する。享年39(数え年)。

 

$『良妻賢母主義から外れた人々』(関口すみ子著/みすず書房/2014)
https://www.msz.co.jp/book/detail/07839.html
 
 

〇この年の出来事

*3.20/新潟 頚城(くびき)郡の自由党員など二十数人が、大臣暗殺・内乱陰謀の容疑で逮捕される。(高田事件)

*7.20/ 岩倉具視(59)が病のため右大臣を辞任、翌20日に死去する。

*7.28/東京・埼玉 日本鉄道会社の上野-熊谷間が、初の民営鉄道として開通する。

*3.21/福岡 三池炭鉱で就労中の囚人ら395人が、大暴動を起こし、発生した火災により、閉じ込められた46名の坑夫が死亡。

*11.28/東京 麹町内山下町に、西欧風社交場「鹿鳴館」が開館する。欧化政策の象徴として、連日のように、高官など紳士淑女が集い舞踏会が催される。