【19th Century Chronicle 1877年(M10)】

【19th Century Chronicle 1877年(M10)】
 

西南戦争
*1.30/鹿児島 西郷隆盛が設立した「私学校」の生徒が、政府の弾薬庫を占拠する。(西南戦争の発端)

*2.15/鹿児島 西郷隆盛が1万超の兵を率いて、「政府に問うところあり」と熊本に向けて鹿児島を出発する。

*2.22/熊本 西郷軍が熊本を包囲する。政府は征討軍を派遣しており、熊本鎮台長官谷干城が熊本を死守し長期戦となる。

*3.20/熊本 政府軍は18日間に及ぶ大激戦の末、田原坂を占領し、西郷軍は熊本へ退く。

*4.14/熊本 黒田清隆が率いる政府軍が、西郷軍の包囲を破り、熊本城に入る。

*9.24/鹿児島 西郷軍は熊本を出て九州各地に転戦するが、最後に西郷隆盛桐野利秋は郷里城山に立て籠り、政府軍の総攻撃を受けて自刃する。ここに西南戦争終結した。
 


 明治六年政変で下野した西郷隆盛は1874年(明治7年)、鹿児島県令大山綱良の協力を得て鹿児島県全域に「私学校」を創設した。当時、鹿児島県下には、元士族の血気盛んな若者たちが、行き所を失い鬱憤をため込んでいた。そこへ、西郷に従うように下野した不平士族たちが合流すると、収拾が取れない状況が予想された。
 

 「私学校」は単なる西郷の私塾ではなく、県令大山綱良の賛同で県の予算もつぎ込んで展開された。銃隊学校・砲隊学校・幼年学校(章典学校)などが設けられ、県下には各郷ごとに分校が設けられた。教務は主に漢文の素読と軍事教練であったが、外国人講師の採用や、私学校徒の欧州遊学など、積極的に西欧文化を取り入れたものであった。

 設立の目的は、城下にあふれる不平士族の若者たちの訓育・統率にあるとされるが、その訓練内容からは、近代的な軍を創設するのに足りるもので、そのリーダーを養成する機関としての性格をも持っていた。そのため、私学校で訓育を受けた者たちは、県令大山によって多くが県政にも採用され、「私学校党」として鹿児島県内で一大勢力を形成するほどになった。

 

 廃藩置県、四民平等、徴兵令、地租改正、秩禄処分廃刀令と、矢つぎばやに続いた明治政府の改革により、その封建的身分特権を奪われた士族たちは、次々と「不平士族」の反乱をひき起した。特に、明治6年征韓論政変」で多くの政府要人が下野すると、彼らを担いだ士族の反乱などが頻発した。江藤新平による「佐賀の乱」から、熊本県で「神風連の乱」、福岡県で「秋月の乱」、山口県で「萩の乱」などが続いたが、それぞれ新政府によって鎮圧された。

 佐賀の乱に敗れた江藤新平は、逃れて鹿児島の西郷の許を訪れ、薩摩士族の決起を促すが断られる。この時点で西郷は、全く立上る気がなかったのか、いまだ時期尚早と考えていたのかは不明である。また、「私学校」を創設した意図が、ゆくゆくの決起を想定していたものかも判然としない。いずれにせよ、当初から西郷に明確な決起の意志が固まっていたわけでなかったのは、確かであろうと思われる。

 

 幕末維新の争乱でも、大きな消耗もなく武力を温存した薩摩は、中央政府にとって潜在的な脅威であった。そんな中で、鹿児島の「私学校」は、政府への反乱のための武力を養成しているのではないかという疑義が、政府内の長州閥などから指摘されだした。そして、私学校の内部偵察を目的に、警視庁大警視川路利良中原尚雄ら警察官を、「帰郷」の名目で鹿児島へと派遣した。私学校徒達はこれを不審に思い、政府の動きを警戒していた。

 さらに政府は、鹿児島県の砲兵属廠にあった武器弾薬を搬出する作業を始めた。これらの弾薬庫は政府の陸軍省の所属となっていたが、もともと旧薩摩藩士らが醵出した金で購入したりしたもので、いざ必要が生じれば、彼らが使用するものという認識が一般的であった。そのような薩摩の財産を無断で搬出したということに怒り、私学校生徒たちは周辺の火薬庫を襲い、「弾薬掠奪事件」をひき起こした。
 

 同時に私学校側は、中原ら警視庁帰藩組を調査し、帰郷警察官が西郷暗殺を目的としていることを聞き出した。私学校党は中原らを捕縛し拷問の結果、川路大警視が西郷暗殺を中原らに指示したという「自白書」がとられた。そのため、私学校徒たちは激昂して暴発状態寸前となった。

 田舎でのんびり猟をしていた西郷は、弾薬掠奪事件の顛末を聞き「ちょしもたー」(しまった)との言葉を発し、急遽鹿児島へ帰る。途上から、西郷を守るためにと各地から私学校徒が馳せ参じ、鹿児島へ着いたときには相当の人数に上っていた。鹿児島に帰った西郷は、私学校本校に入り、翌日、私学校幹部および分校長ら200余名が集合して大評議が行われた。
 


 評議は諸策百出して紛糾したが、座長格の篠原国幹が一喝し、全軍出兵論が多数の賛成を得た。かくして西郷隆盛は、自ら設立した「私学校」の私学校党らに担がれる形で、薩摩で兵を起こすことになったとされる。西郷の意図がはたしてどこにあったかは、判然としない。そのこと自体が、西郷隆盛という人物を物語っているのかも知れない。

 かくして着々と「西郷軍」が編成され、1877年(明治10年)2月15日、薩軍の一番大隊が鹿児島から熊本方面へ先発する。(西南の役開始)。西郷は、「今般政府に尋問の筋これあり(政府に問うところあり)」との大義を掲げて出立したとされ、政府に意見を献上するために東京を目指し、必ずしも反乱を起こすつもりは無かったとも言われる。しかし、1万を超える大軍を率いておれば、政府が反乱軍と見なすのは当然でもあった。また、「尋問の筋」というのも、どんな意見を言おうとしたのか明確にはされていない。
 


 以後、上記時系列にそって「西南戦争」は展開され、9月24日城山において西郷が自刃して内乱は終結する。西郷軍の反乱は、明治政府にとって最大最後の内乱であり、政府は最大限の鎮圧軍を送り、政府存亡の危機感をもって臨んだ。それは「内乱」というよりは、まさに「内戦(Civil War)」であり、その10年余り前に勃発した「アメリ南北戦争(The Civil War)」にも比肩し得る大乱とも言える。両戦争ともにに旧主派が敗れ、その後、より近代化の方向が定まった画期となったことでも共通する。
 

 西郷隆盛の写真は、一枚も残されていない。世に流布する西郷像は、お抱え絵師キヨソネが、西郷亡きあと伝聞にもとづいて描いた肖像画が下敷きになっているという。一説によると、西郷は、写真を撮ると魂を抜かれるという当時の噂を信じ、いっさいカメラの前に立たなかったとも言われる。

 西郷は、幕末維新での重要場面で幾度も決定的な役割を果たしたにもかかわらず、その思想と行動の一貫性は把握しづらい人物である。理知的で怜悧に物事を処理した盟友の大久保利通とは対照的に、西郷隆盛が際立つのはその人望であり、天性の大局観にてらし、その都度の意思決定を為し、それを人望が支えて実現したということではないだろうか。

 それだけに西南戦争は、薩摩の取り巻きに対する「情」に流され、西郷の特性が裏目に出た例とも言える。いずれにせよ、一枚の写真も残さなかった西郷は、その人物像についても、明瞭な像を結ばなかった稀有な人物であった。
 


 なお、西郷軍が熊本を追われ県南部人吉に退避したときに、不足する軍費を調達するため、「西郷札」と通称される私製紙幣を発行した。いわゆる「軍票」であり、西郷軍の敗退とともに無価値となった。松本清張は、この西郷札の引き起こす貨幣混乱を、第二次大戦敗戦直後の闇市や経済混乱に重ね合わせて、短編小説『西郷札』を書き、これが彼のデビュー作となった。

$『西郷札』(松本清張著/1951)
https://www.kobunsha.com/shelf/book/isbn/9784334744762
 
 

*9.16/東京 米人動物学者エドワード・モースが、縄文遺跡の大森貝塚を発掘し、日本の考古学の端緒となった。モースは。6月の来日時、東京へ向かう汽車の窓から、そこに貝塚のある可能性を直感したという。
 


 1877年(明治10年)6月、アメリカ人動物学者エドワード・S・モースが横浜に上陸した。モースは、ダーウィン進化論の観点に沿って「腕足動物」(貝類に似ているが別枠に分類される)を研究対象としており、腕足動物の種類が多く生息する日本へ研究のためにやってきた。

 横浜から東京へ向かう汽車の窓から、貝殻の含まれた地層を見つけ、改めて政府の許可を得た上、9月16日に発掘調査を行った。これは、まだ「考古学」という概念の無かった日本で、最初の発掘調査であり、そこで発見された貝塚遺跡は「大森貝塚」と呼ばれた。
 


 モースは請われて、設立されたばかりの東京大学の教授に就任、当時、外国人教授が、研究業績もない宣教師ばかりだったのを一掃し、アーネスト・フェノロサら確たる専門性をもった陣容に改めるとともに、大量の専門図書を寄贈や購入で充実させるなど、東大における学術研究の端を開く役割をはたした。

 引き続き、専門の腕足動物類の採取と併行して、大森貝塚の本格的発掘を進め、それらの成果をもとに、学術論文の執筆、進化論の学術講義、大森貝塚発掘成果の講演会など幅広い活動で、日本における進化論の普及と、考古学研究の確立に大きく寄与した。
 


 一旦帰米したあと、翌1878年明治11年)4月、再来日して東京大学に戻ると、6月末浅草で「大森村にて発見せし前世界古器物」と題して、500人余を前に講演した。この講演では、考古学の概要と「旧石器時代新石器時代青銅器時代鉄器時代」という区分を概説し、大森貝塚が「新石器時代」に属することを述べた。また、1879年7月には、大森貝塚発掘の詳報、"Shell Mounds of Omori"を著し、この中で使われた"cord marked pottery"が、日本語の「縄文土器」となった。
 

 大森貝塚の発掘には、モースとは別個に、幕末に西洋医学をもたらしたフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの次男、ハインリヒ・フォン・シーボルトも、関わっていたとされる。ハインリヒは、外交官(書記・通訳官)として赴任していたが、考古学にも精通していた。ハインリヒは大森貝塚の発見を、彼の師であるコペンハーゲン国立博物館館長ウォルソーに報告しており、その報告によると、モースの発掘に先行していた可能性がある。

 モースとハインリヒは、大森貝塚の第一発見者を競うだけでなく、他の遺跡発掘や考古学上の論争を展開し、我が国の考古学発展に寄与したとされる。最終的には、モースが大森貝塚の報告書を出版したことと、ハインリヒは本業である外交官業務に専念し考古学研究を事実上終えたことから、モースの業績として決着した。ただ、日本における「考古学」という言葉は、ハインリヒが出版した「考古説略」が初出であった。

 

 大森貝塚での縄文土器の発掘が機縁となって、モースは日本の陶磁器の収集にも興味を持った。44歳になっての三度目の来日では、民具と陶器の収集を第一の目的としており、集めた民具は800点余、陶器は2900点に上ったという。晩年になったモースは、遺跡発掘や民具収集などで日本各地を巡った経験と、その時に書き溜めたスケッチや記録をもとに、「Japan Day by Day(日本その日その日)」を執筆し、出版した。


 三度にわたる日本滞在経験から眺めた「日本人と日本の文物」に関する記述は、明治初頭での親日家としての優しい視線と、科学者としての精密な観察とを相備えており、単なる極東の小国の想い出や紹介記事以上のものとなっている。柳田國男らに先行する、最初の「民俗学」的著作とも見なすことができる。
http://hinode.8718.jp/book_japan_morse.html


$『日本その日その日』(青空文庫で全文が読める)
http://www.aozora.gr.jp/cards/001764/files/55990_60221.html
 
 

〇この年の出来事

*1.4/ 地租改正の詔勅が発布され、正租は地価の3%から2.5%へと軽減される。(7.1 施行)

*4.12/東京 東京開成学校と東京医学校を統合して、「東京大学」が設立される。法文理医の4学部を置き、予備門を附属させる。

*5.26/ 明治政府重鎮で内閣顧問の木戸孝允が没する。享年45。「西郷、もういい加減にやめるがいい」というような言葉を残したと伝えられる。

*8.21/東京 東京上野公園で、第一回内国勧業博覧会が開かれる。