『Get Back! 30’s / 1930年(s05)』

『Get Back! 30's / 1930年(s05)』
 
○1.11 金解禁が実施され、13年ぶりに金本位制に復帰する。(昭和恐慌)


 それまで金本位制を採っていた各国だったが、第一次世界大戦が勃発すると、金の国外流出が懸念され、アメリカをはじめとして各国は金の輸出を一時禁止し、日本もそれに従った。大戦が終了すると、各国は順次金輸出を再開し金本位制に復帰していったが、日本では関東大震災などの経済混乱で金解禁のタイミングを失い、歴代内閣は先延ばしを続けていた。

 金本位制は、一国の通貨の価値を担保し、国際収支を均衡させる機能があると考えられて、事実上「金」が世界の唯一の共通通貨であるとされた。日本だけ金解禁(金本位制への復帰)をしていないことに、諸外国からの金解禁要求が高まっており、国内でも金解禁を行って為替相場を安定させることを望む声が強くなっていた。

 1929年7月、立憲民政党濱口雄幸内閣が成立すると、大蔵大臣に金融の専門家である井上準之助を任命し、「金解禁の断行」と「放漫財政の整理」の実現を進めた。井上は直ちに「旧平価による金解禁の実施」を主張、その準備のために緊縮財政を実施の上で財政支出を抑え、為替相場を回復させることを表明した。

 濱口や井上は、金解禁や財政再建とともに産業の構造改革が必須であると考えていた。明治時代以来の政府・政商・財閥のもたれ合いで水ぶくれした日本の産業界は、第1次世界大戦後の不況や関東大震災後の放漫財政で不健全なまま維持された。濱口内閣はこうした日本経済の脆弱な体質を、金解禁によるデフレと財政緊縮によって健全化させようとした。

 一時的に経済が悪化しても、企業整理と経営合理化によった国際競争力は向上し、金本位制が持つ通貨価値と為替相場の安定機能や国際収支の均衡機能が発揮されて、景気は確実に回復すると濱口・井上は考えた。しかしその実行は最悪のタイミングであった。前年10月ウォール街の株価大暴落は、世界大恐慌へと進みつつあったが、濱口らはこれが一時的な経済変動であると捉えており、それは当時の世界の経済専門家の共通認識でもあった。


 井上も今回の恐慌を通常経済の範囲内の出来事と考えたために、旧平価による金解禁が実施したが、これは実質上平価切上げ(円高)となり、輸出不振による不況と輸入超過の拡大を増進させた。この金解禁の実施時期は、前年末に発生したアメリカの恐慌が日本にも影響し始めた時期に重なり。日本経済は二重の打撃を受けることになった。

 「ライオン宰相」と呼ばれた濱口雄幸は、自分の信念に基づいて正しい政策を断固として行う政治家として、国民の人気を博した。しかし「正しい政策」を最悪のタイミングで実行したため、「昭和恐慌」と呼ばれる最大級の大不況を招き、これは1931年12月、立憲政友会犬養毅が内閣を組織し、高橋是清蔵相を起用して金輸出を再禁止、デフレ政策を180度転換し、積極財政でのインフレーション政策を実行するまで続くことになる。


 深刻な恐慌は社会的危機を激化させ、濱口雄幸井上準之助三井財閥の大黒柱であった団琢磨らを襲った右翼のテロリズムとなって暴発し、さらには1932年、「五・一五事件」で一部青年将校らに犬養毅首相が暗殺され、大正時代から続いた政党内閣制は終焉、軍部が抬頭する戦争とファシズムへの時代へと進む。
 

○3.24 [東京] 関東大震災からの復興を祝い帝都復興祭が挙行される。


 関東大震災からの復興が一段落した事を祝い、この日から一週間「帝都復興祭」が華々しく行われた。式典から、ダンスパーティー・映画上映・音楽の演奏会など数々の催し物が行われ、中でも天皇陛下東京市内巡幸では、沿道が百万人もの人々で埋め尽くされたという。

 1923年(大正12年)9月1日、関東地方を襲った関東大地震は、関東一帯の広範囲に甚大な被害をもたらした。加藤友三首相は震災発生8日前に急死しており、内田康哉が臨時代理として職務を代行した。灰燼と化した帝都東京の復興計画は政府主導で行われ、山本内閣の内務大臣後藤新平が復興政策を担うことになった。


 後藤新平は「帝都復興院」を設立し、いわゆる後藤系官僚を結集させて強力な復興事業を推進する。後藤は医者として出発するが、医者としてよりも衛生・医療の行政官僚として能力を発揮した。台湾総督府民政長官、満鉄初代総裁、東京市長などを歴任し、植民地経営や都市計画の専門家的手腕を発揮したが、その計画規模の壮大さから「大風呂敷」とあだ名されることもあった。

 後藤は、19世紀フランスでナポレオン3世治下のセーヌ県知事オスマンが行った「パリ改造(現在の花のパリの骨格を造ったとされる)」をモデルに、土地を地権者から大胆に収用する手法をとろうとした。しかしそれに要する膨大な予算、有力地主・地権者の抵抗などに加えて、帝都復興院での内紛やスキャンダルで後藤の計画は行き詰る。


 その後、山本内閣は虎ノ門事件を契機に総辞職し、その間の政争で支持を失っていた後藤も辞職とともに政界から身を引くことになる。後藤肝いりの復興院は廃止され、復興計画は大幅に縮小され復興局に継承されるが、のちも疑獄事件などスキャンダルが相次つぐなか、やっとこの日の帝都復興祭にこぎつける。

 その前の昭和4年(1929年)、後藤新平は脳溢血で倒れ復興祭をまたずに死去する。後藤の当初の構想は実現しなかったが、放射状に伸びる道路と環状道路というパリを擬した基幹道路や、南北軸としての昭和通り、東西軸としての靖国通り環状線の基本となる明治通り(環状5号線)など、計画縮小されながらも実現され、首都高速建設以前の東京の基幹交通網となった。
 

○4.22 [ロンドン] 海軍軍縮条約に調印する。

 この年1月ロンドンで始められた海軍軍縮会議は、4月に「ロンドン海軍軍縮条約」の調印にこぎつける。1922年のワシントン海軍軍縮条約で戦艦や空母など主力艦の制限はなされていたが、巡洋艦以下の補助艦艇は無制限のままであり、ロンドン条約ではこの補助艦の制限が主要議題となった。


 民政党濱口雄幸内閣は、緊縮財政を維持するためにも、各国とは協調外交の方針をとり、軍縮による軍事費削減に積極的であった。当初、第一次世界大戦戦勝国である五大国、英米日仏伊によって開始された会議だったが、仏伊は潜水艦の制限比率を不満として部分加盟となり、英米日の間では、補助艦全体の保有比率が「10:10:6.975 」で締結されることとなった。ただし、軍令部は重巡洋艦や潜水艦の保有量が低く抑えられたことに不満を残した。

 10月には何とか批准にこぎつけたものの、希望量を達成せず条約に調印したこと、仏伊のように部分参加にとどめなかったことなどで、一部マスコミや野党から批判が噴出した。さらに、野党・政友会の犬養毅や枢密院の伊東巳代治などは、いわゆる「統帥権干犯問題」を提起して内閣を批判した。


 統帥権とは、大日本帝国憲法第11条で「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス(統帥大権)」と定められており、濱口内閣が軍令(=統帥)事項である兵力量を天皇(=統帥部)の承諾無しに決めたのは憲法違反だと攻撃した。濱口内閣は民政党衆議院の多数を占めていたことで条約批准にこぎつけたが、この時に与野党の政争のために統帥権が持ちだされたことは、後に、統帥権を盾にする軍部の独走を議会政治が押さえられなくなるという悔恨を残した。
 
○11.14 [東京] 浜口雄幸首相が東京駅で右翼青年に狙撃される。このときの首相の言葉「男子の本懐」が流行語となる。


 軍縮条約の批准を無事終えた濱口雄幸首相は、11月14日朝、昭和天皇行幸への付き添いとして、乗車するため移動中の東京駅のホームで、愛国社社員の佐郷屋留雄に至近距離から銃撃される。銃弾は腹部を貫通し、骨盤を粉砕していた。駅長室に運び込まれた濱口首相は、別件でたまたま東京駅に居合わせた幣原外相らに見舞われるが、「男子の本懐」とつぶやくなど気丈に振る舞った。

 犯人である佐郷屋は「濱口は社会を不安におとしめ、陛下の統帥権を犯した」と襲撃理由を供述したが、「統帥権干犯とは何か」と問われても答えられなかったという。ロンドン条約締結を「統帥権干犯」と追及されたことを、そのままうのみにした凶行であるが、一方で金解禁による大不況を到来させ、経済的社会的不安を招いた状況も遠因とされる。濱口雄幸首相は奇蹟的に一命をとりとめ、翌年1931年3月には議会に登壇するが、無理がたたり再度容体が悪化、首相を辞任したあと、療養の甲斐なく8月26日死去する。

 翌々年1932年になると「血盟団事件」という連続テロ事件が起り、政財界の大物が軒並みリストアップされた中、濱口首相の下で蔵相として金解禁を進めた井上準之助が暗殺され、財界では三井財閥の総帥團琢磨が、金解禁下で投機に走り暴利を得たとして、三井本館の玄関前で射殺された。さらに同年、濱口の政敵でもあった犬養首相が、青年将校らの凶弾に斃れる「五・一五事件」が起り、テロと軍部によって政党政治は終わりを告げる。
 

○8.18 [東京] 谷崎潤一郎夫妻が離婚。「妻(千代)を友人(佐藤春夫)に与える声明」を3人連名で、知人友人に送付する。「細君譲渡事件」

 「我等三人はこの度合議をもって、千代は潤一郎と離別致し、春夫と結婚致す事と相成り、 ・・・」 このような声明文が、谷崎潤一郎、妻千代、佐藤春夫三者連名で関係者に送付された。谷崎45歳、佐藤38歳という成熟期の著名文士間での「細君譲渡事件」として、当時の世間をにぎわせた。


 谷崎潤一郎は既に新進作家としてスタートしていたが、29歳の時、芸者だった「石川千代」19歳と結婚式を挙げる。「悪魔主義」などという大仰な形容をされた新進作家谷崎にとって、妻としては申し分なくても、女としては平凡な娘であった千代は気に入らなかったようで、娘鮎子をもうけるも、夫婦愛をはぐくむことがなかった。

 15歳になる千代の末妹「せい」は、千代と正反対の奔放な娘であって、これを気に入った谷崎は、千代母子を実家に預けてせいと同棲、せいを思い通りの娘に育てようと、葉山三千子として女優デビューさせたりした。谷崎中期の問題作『痴人の愛』のヒロイン・ナオミは、このせいをモデルにしたものとされる。


 一方、佐藤春夫は谷崎より六歳年少で、文壇デビューを支援してくれた先輩として、小田原に住む谷崎のもとに親しく通う間柄であった。そんな中で、谷崎の不当な扱いに悩む千代の相談に乗ったりしているうちに、佐藤の千代への同情が愛に変わっていったとされる。ただし谷崎の方では、せいとの結婚を考えて、それを意図的に仕組んでいたふしもある。

 谷崎は千代と鮎子の面倒を佐藤に押し付け、自身はせいに求婚するも「いやぁよ」の一言で拒絶されると、千代との生活によりを戻すことを選ぶ。裏切られ怒り心頭に達した佐藤は、谷崎に絶交宣言をする(小田原事件)。その時期の恋情を、佐藤春夫はいささかセンチメンタルに絶唱する、「さんま、さんま さんま苦いか塩つぱいか・・・」
 『秋刀魚の歌』>http://www.mikumano.info/satoharuo/sanmanouta.html

 大正12年関東大震災が起きると、谷崎は京都・神戸といった関西に拠点を移す。やがて、書生風に谷崎家に居候していた和田という男と、千代夫人の関係が出来ると、谷崎は千代夫人と和田を一緒にさせようとも考えたが、すでに和解していた佐藤春夫は、若い和田との将来に懸念を抱き、結局和田は立ち去った。この間の経緯は『蓼食ふ蟲』として作品化されている。

 そしてやっと冒頭の「細君譲渡事件」に至る。三者満足の結果で他人がとやかく言うことでもないが、事情を知らない世間一般にはとんでもない事だと映ったに違いない。最初の試みから15年、円満離婚に至るまでの谷崎は、対外的には「夫としての立場」を保ち続けたという。


 翌1931年(昭和6年)、谷崎は古川丁未子と結婚するが、この時すでに根津(旧姓森田)松子と知り合っており、兵庫の根津家の隣に転居すると同時に丁未子と別居、やがて1935年(昭和10年)両人ともに離婚が成立すると、谷崎潤一郎と森田松子は無事結婚に至る。


 ほとんど気が遠くなるような経緯を経て、谷崎は終生の伴侶を得ると、松子の実家、船場商家の四姉妹のあでやかな社交をモデルに『細雪(ささめゆき)』を書き上げる。発表の場さえ期待できない戦時中にも、ランプの灯を頼りに黙々と書き続けたという。

 密かな女性遍歴がありながらそれを作品に反映させられなかった芥川龍之介、愛人から小説の素材を得るか心中の伴侶にしかできなかった太宰治、これらに比して「小男、醜男、小心、変態」の谷崎が、接した女性を肥しに次々と名作をものにし、艶福家、美食家、文豪として終生を全うしたこの摩訶不思議を見よ!(笑)
 

*この年
自殺者急増(年間1万3942人)/都会でコリントゲーム、郊外ではではベビーゴルフが流行/ハイカラ女性にマニキュア、ロングスカートが人気
【事物】国産電気洗濯機・冷蔵庫/切符自動販売機/デパートの月賦販売
【流行語】エログロナンセンス/ルンペン/金解禁/銀ブラ/OK
【歌】祇園小唄(藤本二三吉)/すみれの花咲く頃天津乙女・宝塚月組
【映画】何が彼女をそうさせたか(鈴木重吉)/お嬢さん(小津安二郎)/西部戦線異状なし(米)
【本】九鬼周造「〈いき〉意気の構造」/津田左右吉「日本上代史研究」/川端康成「浅草紅団」