【長崎小6少女殺人事件】-4

【長崎小6少女殺人事件】-4

 消すか消されるかの二者択一とは、まさしく「バトルロワイヤル」の世界である。しかし、A少女はこの小説や映画にのめり込んだから事件を起こしたのではない。逆に、このような二者択一の心的構造に陥ったからこそ、バトルロワイヤルで描き出される世界が、日常世界より圧倒的なリアリティをもって逼ってきたというべきであろう。

 二者択一といっても、じつはいづれを選択することも「できない」ような択一である。理想自我も現実自我も双方とも「わたし」なのであるから、その分裂状況からどちらかを救出できるという性質のものではない。このようなアンチノミー状況においては、自分の内部からは行動が準拠する指針を見出すことはできない。その場合の行為は、「外在化」されたものに準拠して進められるほかない。

 その場の流れの状況にまかせて暴発する場合もあるだろう。しかし加害者少女は、前述したように単にキレて凶行に及んだのではなく、それなりの計画と準備も行っていたわけである。ここで「文学的」な考察を進めるならば、少女の行為を決定付けたものは、「外在化」された「ことば」だということになる。

 「重たい」と言われた、「ぶりっ子している」と書かれた。通常、この程度のことで殺人を犯すに至るとは考えられない。しかし上記したような構造状況においては、「ことば」はわれわれが日常言語を用いるのとはまったく次元の異なった強度を持ってたち現れる。ことばのもつ「呪術性」が支配的にふるまうことになるのだ。

 現にA少女は、そのような「ことば」を消そうと試みている。被害者B少女のHPを幾度か消去したと言われる。しかし書かれた文字は消せても、呪縛性をもってA少女に取り付いた「ことば」は消せない。さらに消すとすれば、B少女自体を「消す」しかない。そもそも、「消すしかない」とか「殺すしかない」という言葉自体が、バトルロワイヤルの中でも何度も繰り返し出てきたであろう。そのような「ことば」に、いわばとり憑かれて、「ことば」に支配されるかのように凶行におよんだと言えるのである。

 言葉に支配されるといえば、シェークスピアの『マクベス』が想起される。マクベスこそ、まさしく「ことばに憑依された人」であった。それほど野心のあったわけではないマクベスは、魔女たちの「王になる人」という予言にとり憑かれる。その言葉に支配されるがまま、王位を簒奪し、やがては滅亡にいたるまで、まさに予言が主人公であるかのごとく、呪術的な言葉にそって物語が進行していくのである。

 凶行後、血だらけになって教室に戻った加害少女は、取り乱して問いたずねる教師に、「これは私の血じゃない」「もう一人はあちらにいます」と答えたという。自己が分裂し、自他の区別が目まぐるしく混交したA少女の「物語」は一旦の決着をみた。あきらかに「わたし」ではない、他人としてのB少女の遺体を前にして、A少女の「わたし」は回復されたかのように見える。

 しかしながら、現実のA少女の物語は決して終わることはない。あらたに、自分が殺害したB少女という「他者」を孕みこんだのである。そしてそのことをA少女が真に認識するには、それなりの時間が必要になるであろう。
(おわり)