【長崎小6少女殺人事件】-3

【長崎小6少女殺人事件】-3

 ごく大雑把な言い方をすれば、文学の主要なテーマ、とりわけ近代における小説文学のそれは「わたし探し」にあったと言える。恋愛小説が主流であったのも偶然ではない。自我が確立されようとする青春期などに、最初に出くわす「他」経験が異性(同性を含めても良いが)との恋愛事であろう。一旦明瞭になったつもりの自意識が、恋愛対象の出現であらためて混乱を引き起こす。そこに理想の「他」を見出し、深く浸透し合い、支配し支配され、ひいては魂(含む肉体)の合一までをも目指す。

 そして(おおむね何らかの意味での失恋におわるのだが)、そこに決して支配しきれない「他」を見出す。そのときの「自(わたし)」とは何なのか。そこで、あらためて「わたし探し」が始まる。そこに見出された「わたし」は、単にまわりとの役割や位置関係で決まる「箱」のような自己の入れ物ではない。いまだそれがどんなものであるかは定かではないが、新たに「発見」された「わたし」なのである。

 哲学の分野においても、デカルトのコギトにまつまでもなく、その大きな課題の一つは「わたしとは何か?」であろう。専門的なこむずかしい述語はいろいろあるのだろうが、私なりに平たく言ってしまえば、そんなものである。その哲学領域でも、デカルト以降、明晰に確立されたかと思われた「わたし」は、構造主義以後、もっぱら解体される方向に進む。いまや「自他の境界」はきわめて曖昧になっているのである。

 小説文学でも、上記のような恋愛関係はほどんど成り立たなくなっている。あるとしてもハーレクイン・ノベルぐらいのもんだろう。さらには、近代以降、自他の機制をベースにしてきた小説自体が、成立しがたくなっている。ここでも自他の関係が明確でなくなっているのだ。そして、これは何も哲学・文学とかの領域に限られた問題ではなく、むしろ現実の状況がそれらに反映しているのである。

 さて事件を引き起こしたA少女は、上記のような文学的哲学的な「わたし」の領域に足を踏み入れつつあったのではないだろうか。恋愛関係ではないにしても、自分より社交的で快活で成績もすぐれている被害者B少女の内に理想的な「自分」を見出し、現実の「自分」では適えられない理想像を投影させていたと考えられる。他の級友などはとるに足らない存在だったが、B少女だけは失うわけにいかない特別な存在であった。なにより、現実の「わたし」を支える、もう一人の理想の「わたし」なのであるから。

 当然ながらA少女からすれば、B少女から特別な存在として扱われなければならない。ところが社交性豊かなB少女は、Aだけではなく他の共通の友人たちをも分け隔てなく扱う。そのうち、些細ないさかいから、行き着くところ、何よりも大切だったネットのHP仲間であることから「はずれて欲しい」とまで書かれるようになる。

 理想的自我としての「わたし」であったはずのものが、「支配しきれない他」として振舞うようになってきたのである。一旦接点が切れた理想的自我と現実的自我の間には、安直な宥和や妥協はあり得ない。理屈上、「消すか消されるか」の二者択一しかない。加害者A少女は、このような構造領域にはまり込んだと考えられる。
 (つづく)