なつかしの連続TV映画『Route 66』

なつかしの連続TV映画『Route 66』

 

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『Route 66』は、昭和37年ごろNHKで放映された、なつかしの連続TVムービー。ロサンゼルスとシカゴを結ぶ大陸横断道路「ル-ト66」を、二人の若者バズとトッドがコルベット・ステイングレ-でドライブするロードムービー


ナットキングコ-ルの歌うテーマ曲「ゲッチョ-キックス・オンナルートシックステイシックス・・・」が、いかにも心地よい。

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当時の日本ではスポーツカーなど望むべくもなく、若者は国鉄周遊券などで低予算旅行。寝袋を入れた横広の登山リュックを担いで「カニ族」と呼ばれた(笑)

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【17th Century Chronicle 1656-60年】

【17th Century Chronicle 1656-60年】

 

◎明暦の大火

 

*1657.1.18/江戸 本郷の本妙寺より出火、翌日にかけて江戸城はじめ江戸市中の大半が消失する。

 *1657.2.29/江戸 大火の焼死者の埋葬供養のため、本所に回向院を創建する。

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 「火事と喧嘩は江戸の花」と言われたように、江戸では大火が頻発し、世界でも類例がない「火災都市」とされる。江戸時代260余年の間に、大火と呼ばれるものだけでも50回もあり、中でも「明暦の大火」・「明和の大火」・「文化の大火」は、江戸三大大火と称される。

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   とくに明暦の大火は、延焼面積・死者ともに江戸時代最大であり、江戸城天守を含めて、多数の大名屋敷と市街地の大半を焼失した。この明暦の大火を契機に、江戸の都市改造が行われ、武家屋敷・大名屋敷・寺社などの多くが移転した。

  さらに防災への取り組みも行われ、延焼を遮断する火除地や広小路が設けられ、防火のための建築規制も行われた。それでも、板葺き屋根や板壁の密集した長屋なども多く残り、その後もしばしば大火に見舞われた。

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  明暦3(1657)年旧暦1月18日から20日にかけて、江戸の街の大半を焼きつくした。当時は2ヵ月以上も雨が降っておらず、非常に乾燥した状況のもとで、朝方から北西風が強く吹いていたという。しかも、ほぼ連続的に本郷・小石川・麹町の3ヵ所から発火したため、古い密集した市街地が一気に焼き尽くされていった。

 火災の後、多数の身元不明の遺体は本所牛島新田に埋葬され、その供養のために万人塚、後の本所回向院が建立された。また幕府は、武士町人を問わない復興資金援助、備蓄米放出などの緊急の支援を施し、旗本らには救済金、大名の参勤交代の停止など、災害復旧支援に力を注いだ。

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  出火原因には諸説あるが、なかでも本妙寺失火説には、次のような伝承があり、「振袖火事」とも呼ばれる。

 (wikipediaより引用)>>

 お江戸・麻布の裕福な質屋・遠州屋の娘・梅乃(数え17歳)は、本郷の本妙寺に母と墓参に行ったその帰り、上野の山ですれ違った寺の小姓らしき美少年に一目惚れ。ぼうっと彼の後ろ姿を見送り、母に声をかけられて正気にもどり、赤面して下を向く。梅乃はこの日から寝ても覚めても彼のことが忘れられず、恋の病か、食欲もなくし寝込んでしまう。

 名も身元も知れぬ方ならばせめてもと、案じる両親に彼が着ていた服と同じ、荒磯と菊柄の振袖を作ってもらい、その振袖をかき抱いては彼の面影を思い焦がれる日々だった。だがいたましくも病は悪化、梅乃は若い盛りの命を散らす。両親は葬礼の日、せめてもの供養にと娘の棺に生前愛した形見の振袖をかけてやった。

 当時こういう棺に掛けられた遺品などは寺男たちがもらっていいことになっていた。この振袖は本妙寺寺男によって転売され、上野の町娘・きの(16)のものとなる。ところがこの娘もしばらくの後に病となって亡くなり、振袖は彼女の棺にかけられて、奇しくも梅乃の命日にまた本妙寺に持ち込まれた。

 寺男たちは再度それを売り、振袖は別の町娘・いく(16)の手に渡る。ところがこの娘もほどなく病気になって死去、振袖はまたも棺に掛けられ、本妙寺に運び込まれてきた。さすがに寺男たちも因縁を感じ、住職は問題の振袖を寺で焼いて供養することにした。

 住職が読経しながら護摩の火の中に振袖を投げこむと、にわかに北方から一陣の狂風が吹きおこり、裾に火のついた振袖は人が立ちあがったような姿で空に舞い上がり、寺の軒先に舞い落ちて火を移した。たちまち大屋根を覆った紅蓮の炎は突風に煽られ、一陣は湯島六丁目方面、一団は駿河台へと燃えひろがり、ついには江戸の町を焼き尽くす大火となった。<<

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 なお「振袖火事」は、「八百屋お七」の放火事件と混同されることが多いが、これはボヤで消火されたとされ、時期も20数年後の出来事である。

 

 

 (この時期の出来事)

*1656.2.-/江戸 幕府は、頬被り・覆面や華美な服装、贅沢な装飾を禁じる。

*1656.12.24/江戸 幕府の要請に基づいて、吉原遊郭浅草寺裏への移転を受け入れる。

 *1657.2.27/江戸 水戸藩徳川頼房の世子徳川光圀(30)が、神田の別邸に史局を開設し「大日本史」の編纂を始める。

*1657.7.18/江戸 旗本奴の水野十郎左衛門が、町奴の幡随院長兵衛をだまし討ちで斬殺する。

*1658.9.8/江戸 従来の大名火消が明暦の大火に対応できなかったため、幕府は新たに若年寄支配下に「定火消」を組織する。

*1658.11.-/ 幕府は再度、人身売買を禁止するとともに、10年以上の年季奉公を禁じた条例を発する。

*1659.6.-/山城 隠元隆琦(隠元禅師)が、宇治に黄檗山万福寺を創建する。

*1660.2.23/江戸 幕府が防火のため、市中に家屋建築規則を示す。

*1660.7.18/ 仙台藩伊達綱宗は、日ごろの不行跡を問われ、幕府から逼塞を命じられる。(伊達騒動の遠因)

 

 

【17th Century Chronicle 1651-55年】

【17th Century Chronicle 1651-55年】

 

◎浪人の反乱

*1651.7.23/江戸 由井正雪の謀反計画が発覚。丸橋忠弥が捕らえられ、由井正雪は自害する。(慶安の変

*1652.3.14/佐渡 佐渡奉行伊丹勝長の手代辻藤右衛門らが反乱を起こすが、勝長らに鎮圧される。(佐渡一揆

*1652.9.13/江戸 浪人別木庄左衛門らが老中暗殺を計画、密告により町奉行らに鎮圧される。(承応の変)

 

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  戦国時代から、地侍・野武士・牢人などと呼ばれ、武士として地位の曖昧な武士が存在した。特に牢人とは、主家を失い所領を持たない武士を指し、江戸時代半ばから浪人と呼はれるようになったので、ここでは「浪人」と表記する。関ヶ原の戦いで西軍についた大名の多くが取り潰されると、大量の浪人が発生した。

 戦国時代では、手柄を立てて再仕官する余地があったが、江戸幕府が全国を収めるようになると、その道は閉ざされてゆき、大坂の役の時には、豊臣方に大量の浪人が寄り集まった。そして大坂冬・夏の陣で豊臣家が滅亡すると、生き延びた浪人たちも仕官の道は閉ざされた。

 

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  徳川家康・秀忠・家光と三代にわたる武断政治のもとで、戦乱はほぼ消滅するとともに、その大名廃絶政策によって、さらに多数の浪人が生じていった。三代将軍徳川家光の晩年には、その数は50万人にも達したとされ、彼らは浪人となった時点で、ほぼ再仕官の道は閉ざされた存在であった。

 島原の乱では、改易などで地侍などになり、農民のリーダー的立場になっていた浪人が主導したと考えられ、そのような浪人を危険視した幕府は、さらに厳しい政策をとるようになり、浪人たちはますます追い詰められていった。

 

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  浪人は士籍を失っても苗字帯刀は許されており、武士としては認知されていた。しかし、その多くは貧困で借家住まいのその日暮らしの生活を余儀なくされており、笠張浪人に表象されるような手仕事で身をすすいだり、盗賊などに身を落とす者もいた。また、宮本武蔵のように浪人ながら、武芸や道場主として身を立てたり、近松門左衛門松尾芭蕉のように、武士の身分でありながら、文芸の道で名を残した者も登場する。

 

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  慶安4(1651)年、武断政治を完成させた徳川家光が死去すると、継嗣で11歳の徳川家綱が将軍の位につく間隙を突いて、由井正雪による「慶安の変由井正雪の乱)」が引き起こされた。由井正雪は優秀な軍学者で、徳川将軍家からも仕官の誘いが来ていたが、仕官には応じず軍学塾張孔堂を開いており、幕府に不満をもつ浪人たちも塾生として集まった。

 家光の死を契機として正雪は、幕府の転覆と浪人の救済を掲げて行動を開始する。まず丸橋忠弥が江戸の各地に火を放って混乱を起こし、それに乗じて江戸城を焼き討ちにする。同時に京都で由比正雪が、大坂で金井半兵衛が決起し、天皇を奪取して討幕を正当化する勅命を出させる。そして、それに基づいて全国の浪人に決起を呼びかけるという計画だった。

 

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  しかし身内の密告により計画は事前に露見、慶安4(1651)年7月、まず丸橋忠弥が江戸で捕縛され、すでに京に向かっていた正雪は、駿府の宿で捕り方に囲まれ自決する。その正雪の死を知った金井半兵衛も大坂で自害、8月には丸橋忠弥が磔刑とされ、計画は頓挫した。

 正雪らによる謀反は未然に防がれたとはいえ、年少の家綱が将軍を引き継ぐ混乱中の事件であり、御三家の紀州藩の関与の疑いもあるなど、幕府は衝撃を受けた。翌年には、佐渡で奉行の下役人が土民を率いて一揆を起こし、さらに江戸では、浪人別木庄左衛門らによる老中襲撃計画(承応の変)が発覚した。

 

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  江戸幕府では、これらの事件を受けて、老中阿部忠秋らを中心としてそれまでの政策を見直し、浪人対策に力を入れるようになった。浪人の発生する改易を減らすために末期養子の禁を緩和し、各藩には浪人の採用を奨励した。これを契機に、幕府の政治はそれまでの武断政治から、法律や学問によって世を治める文治政治へと移行していくことになる。

 

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  浪人が活躍する黒沢監督映画『七人の侍』は、戦国時代末期を舞台に描かれたとされる。信長・秀吉により戦国の世が収斂してゆく時代だが、彼ら浪人には、まだ武勲を挙げて大名に抱えられたり、あるいは映画のように自らの「義」に生きる余地もあった。しかし江戸時代の由井正雪の時代には、笠張浪人などでイメージされるように、身をすすぐためだけの閉塞した状況に置かれていた。このような状況が、「慶安の変」の背景にあったのであろう。

 

(この時期の出来事)

*1651.4.20/ 徳川家光、没(48)。

*1651.4.-/ 保科正之が家光の遺言により、徳川家綱の補佐となる。

*1651.8.18/ 江戸城徳川家綱(12)に将軍宣下が行われる。

*1652.12.-/下総・江戸 佐倉藩公津村の名主佐倉惣五郎が、藩主の年貢強化などに反対し、将軍家綱(12)の寛永寺参詣時に越訴する。

*1652.-.-/江戸 江戸市中に旗本奴・町奴など「かぶき者」が横行し、幕府は取締りに苦労する。

*1654.7.5/肥前 中国、明の高僧隠元隆琦が長崎に来航、黄檗宗をひらく。

*1654.11.-/江戸 男伊達(おとこだて)を売りにして街中を闊歩する「町奴」が、大量に検挙される。

*1655.10.12/江戸 幕府は市中法度を定め、町人の殺人・窃盗・放火・姦通・財産処分などに関する処分令を示す。

 

【17th Century Chronicle 1646-50年】

【17th Century Chronicle 1646-50年】
 

武断政治から文治政治

*1648.2.28/江戸 江戸の市中整備と生活統制をねらい、江戸の町民の日常生活をこまかく規制した「市中法度」を布達する。
*1649.2.26/ 幕府は、これまでの農民統治の法令の集大成として、「慶安の御触書」を交付する。


 徳川家康、秀忠、家光と続く3代の将軍の治世は、関ケ原の戦い以後の江戸幕府の基盤を固める時期であり、その徳川幕府の基本方針から「武断政治」と言われる。幕府に従わない大名や、武家諸法度などの法令に背いた大名は、容赦なく改易、減封などの処置を行った。そのため、大量の浪人が発生し、治安が悪化した。

 また、将軍の命として大名に課せられた参勤交代や手伝普請などは、大名にとって多額の出費となり、諸大名は家臣を減らすなどの対策を取るとともに、農民からの年貢の取り立てを厳しくした。そのため武士は困窮し、農民は生活苦に悩むことになる。

 

 「島原の乱」では、領主による厳しい年貢の取り立てが原因となった上に、島原や天草の領主は乱の責任を問われ、改易などの厳しい処分を受け、その結果多くの浪人が発生した。さらに、1640年から1643年頃に起きた「寛永の大飢饉」では、被害が全国に及び、多数の餓死者を出すなど農村の疲弊は極まった。

 これらは武断政治の限界を示すことになり、家光の晩年には「慶安の御触書」を出し農民の生活を統制し、百姓撫育(百姓成立)として農民の生活を安定させる方針を打ち出した。また、「市中法度」では江戸町民の生活を規制し、幕府自ら江戸の治安を高める姿勢を示した。
 


 慶安4(1651)年家光が亡くなると、幼少の家綱への代替わりの混乱に乗じて、慶安の変由比正雪の乱)や承応の変という不満浪人による反乱計画が露見した。これらの反乱は未遂に終わったが幕府を驚かせ、やがて家綱・綱吉の治世では、幕府は本格的に武断政治から「文治政治」へと基本方針を転換させてゆくこととなる。
 

(この時期の出来事)
*1646.9.26/出羽 庄内藩御家騒動長門一件)により、家老高力喜兵衛一族が処罰される。
*1647.6.24/肥前 ポルトガル船が長崎に来航、貿易の再開を望むも、長崎奉行を通じ通商不許可・来航禁止を通告される。
*1647.11.18/肥前 唐津藩寺沢堅高が乱心により自害する。島原の乱を誘発した失政で処罰されており、そのことが起因したとされる。
*1648.11.10/ 関所通行用の女手形の発行元が定められ、「出女」の統制と監視が強化される。
*1649.2.-/ 幕府は、検地の心得・方法などを定めた検地条目を出す。
*1649.11.28/江戸 オランダ特使フリシウスが江戸に到着し、随従医カスパル・スハンベルヘンがオランダ医術を伝える。
*1650.3.-/伊勢 伊勢大神宮のお札が降ったという噂が広まり、伊勢を目指して「お蔭参り」をする人々が急増する。

【17th Century Chronicle 1641-45年】

【17th Century Chronicle 1641-45年】
 

寛永の大飢饉

*1642.2.-/ 5月にかけて全国的に大飢饉がおこる。
*1642.5.22/江戸 凶作による米相場の高騰を利用し、私欲をはかった蔵奉行・代官・勘定役らの不正が摘発される。
*1942.5.26/ 幕府が全国を襲っている大飢饉への対応策を交付する。
*1642.8.10/ 幕府は凶作に対処して、新農業政策、郷村取締り令を定める。
*1643.3.11/ 幕府が田畑永代売買の禁止を定める。
 


 江戸四大飢饉の一つに数えられる寛永の大飢饉は、寛永17(1640)年から寛永20(1643)年にかけて起こり、江戸時代初期では最大の飢饉となった。島原の乱に引き続いて起こり、とともに江戸幕府の農政転換にも影響するとともに、武断政治から文治政治への切っ掛けともなった。

 飢饉は寛永19(1642)年前後に最大規模となるが、島原の乱の後ぐらいからその兆候はあった。寛永15(1638)年頃には牛疫が西日本に蔓延、寛永17(1640)年には蝦夷駒ケ岳が噴火し陸奥国津軽地方などで凶作、寛永18(1641)年には、大雨、洪水、旱魃、霜、虫害が発生するなど全国的な異常気象となった。
 

 凶作は寛永19(1642)年にも続き、百姓の逃散や身売など飢饉の影響が顕在化しはじめると、幕府は対策に着手する。同年5月、将軍徳川家光は諸大名に対し、領地へおもむいて飢饉対策をするように指示し、翌6月には諸国に対して、煙草の作付禁止、雑穀栽培制限、酒造統制、御救小屋の設置など具体的な米不足や飢饉への対策を指示する触書を出した。

 寛永19(1642)年末から寛永20(1643)年(1643年)にかけて餓死者が増大し、江戸をはじめ三都への人口流動が発生するなど、農村の荒廃が進み、都市部では治安が悪化した。幕府は、浮浪民を元の村に返すように諸藩に指示し、3月には、田畑永代売買禁止令を出した。

 

 大飢饉の背景には、世界規模での異常気象による凶作のほか、江戸時代初期の武士階級の困窮、参勤交代や手伝普請、将軍の上洛や日光社参など、幕府や藩の多額の出費があり、それらが農民からの収奪を強化させたことも要因となった。

 寛永の飢饉の経験は、幕府に農村政策の転換を迫ることになった。家康の「百姓は生かさず殺さず」という言葉にあるように、それまでの農民の倹約とぎりぎりまでの収奪を基本としたものから、百姓撫育(百姓成立)という百姓の生活安定を優先した農村対策へと移り変わった。

 

 また、家康・秀忠・家光と三代にわたる武断政治は、大名に課せられた普請役、参勤交代などでの浪費、倹約の推奨による武士階級の困窮化、厳しい改易や転封による浪人の増大、飢饉による没落浪人や浮浪民の都市流入などにより、大名の窮乏と大都市の治安の悪化を招いた。


 島原の乱から寛永の飢饉にかけて、多くの没落浪人が生まれ、その不満を背景に、家光から徳川家綱への代替わりの時、慶安の変由比正雪の乱)や承応の変という不満浪人による反乱計画が露見し、幕府を驚かせた。そのため幕府は、家綱・綱吉の治世で、武断政治から文治政治へと基本方針を転換させてゆくことになった。
 

(この時期の出来事)
*1641.4.2/江戸 将軍家光がオランダ商館長を引見、商館の長崎出島への移転を命じる。
*1641.9.20/肥前 幕府領となった天草の初代代官に鈴木重成を任じる。
*1641.-.-/肥前 長崎に来航したキリシタン宣教師が全員処刑される。
*1643.2.21/肥後 熊本藩が、家臣阿部一族の反乱を鎮圧する。
*1643.5.2/陸奥 会津藩主加藤明成が家臣との争いにより、所領42万石を没収される。その後、将軍家光の弟で山県藩主「保科正之」が会津藩主となる。(会津騒動)
*1644.4.9/江戸 「かぶき者」の横行を統制するため、武士の刀や脇差の寸法を制限し、徒士・若党・中間などの派手な衣服を禁止するなど、規制を強化する。
*1644.-.-/肥前 オランダ商館長が、ヨーロッパなどの海外情報を、長崎奉行を通じて幕府に提出する「オランダ風説書」が、以後、毎年の慣例とされる。
*1645.7.18/江戸 幕府は大脇差・大撫付・大額など奇矯な風俗を禁止し、市中の無頼者の取締りを強化する。
*1645.8.5/江戸 盗賊・無頼者などの取締りのため、市中に辻番所を設置する。

【17th Century Chronicle 1636-40年】

【17th Century Chronicle 1636-1640年】
 

島原の乱

*1637.10.25/肥前・肥後 島原・天草で農民・キリシタンが蜂起し「島原の乱」が勃発する。
*1637.11.9/肥前・肥後 島原の乱に対し、幕府は板倉重昌を派遣するとともに、九州の諸大名に動員を命じる。
*1637.12.3/肥前 島原の乱の首領益田(天草)四郎時貞ら数万人が、原城跡に籠城する。
*1638.1.1/肥前 幕府軍原城を総攻撃するも、指揮官板倉重昌が戦死して失敗。
*1638.1.4/肥前 老中松平信綱率いる幕府援軍が到着する。
*1638.2.28/肥前 原城が陥落し、首領益田四郎時貞(18)が討ち取られる。
*1638.4.12/肥前 島原藩松倉勝家が、島原の乱の責任で所領没収のうえ斬罪、天草領主で唐津藩主寺沢堅孝も減封される。
 


 島原半島キリシタン大名有馬晴信の所領だったので、キリスト教信仰の盛んな地であった。慶長19年(1614年)、有馬氏が転封となり、代わって大和五条から松倉重政が入封した。重政および勝家父子は積極的な政策を進めたが、そのため過重な年貢を取り立て、また幕府の意向に従って厳しいキリシタン弾圧も行った。

 一方、天草諸島は元はキリシタン大名小西行長の領地であったが、関ヶ原の戦いで行長が敗れ、後に寺沢広高が入部、次代の堅高の時代まで島原同様の圧政とキリシタン弾圧が行われた。
 


 島原や天草では、領主の改易や転封により取り残された家臣が、浪人百姓として土着しており、彼らが反乱をリードした。彼ら首謀者は島原湾の湯島(談合島)において会談を行い、幾つもの奇跡を行ったと噂されれ、カリスマ的人気のあった16歳の少年天草四郎益田四郎時貞)を頭目として、一揆を惹き起こした。

 寛永14(1637)年10月25日、有馬村のキリシタンを中心に蜂起し、代官所を襲い代官を殺害する。組織化された一揆集団は、反対する者も含めて半強制的に一気に組み込まれ、島原半島の雲仙以南がほぼ一揆軍に支配された。島原藩は討伐軍を繰り出したが、一揆軍の勢いに押されて島原城に籠城するが、幕府の命を受けた諸藩の討伐軍が来ると知ると、一揆軍はいったん南に引いた。
 


 数日後には、呼応して肥後天草でも一揆が蜂起。天草四郎を戴いた一揆軍は、天草の支配拠点を攻撃、11月には富岡城代を討ち取って、さらに唐津藩兵が籠る富岡城にせまった。しかし九州諸藩の討伐軍が近づいてくると、一揆軍は撤退を選び、有明海を渡って島原半島に移動した。

 ここに島原と天草の一揆勢は合流、その数37,000人とされ、島原半島南部の旧主有馬家の居城であった廃城原城址に籠城した。幕府は、乱の鎮圧のため板倉重昌を派遣、重昌に率いられた九州諸藩による討伐軍は原城を包囲する。しかし、再三攻め寄せるも撃退され、その中で指揮官の板倉重昌自身が銃弾をを受け死亡してしまう。
 

 一揆軍が戦意たかく一致団結していたのに比べて、討伐軍は諸藩の寄せ集めで統率が取れていなかった。総大将の板倉重昌は小大名であり、九州の諸侯はこれに従わず勝手な動きをしたため、一揆軍の攻略に失敗したとされる。事態を重く見た幕府は、老中松平信綱の派遣を決定した。そのため焦った板倉重昌が、無謀な総攻撃を仕掛けたという。

 新たに着陣した松平信綱率いる討伐軍は、九州諸侯の増援をも得て、12万以上の軍勢で原城を完全包囲した。信綱は一揆側に兵糧が残り少ないことを察知すると、兵糧攻めに作戦を転じた。このとき、オランダ船が海から城内に砲撃するという支援があったが、一揆軍はポルトガルの支援を期待しており、新教国オランダと旧教国ポルトガルとの市場争奪戦という側面もあった。
 


 寛永15(1638)年2月28日に、総大将の老中松平信綱は総攻撃を行うことを決定するが、ここでも、鍋島勝茂の抜け駆けにより前日に攻撃が開始され、さみだれ式に総攻撃が始まってしまった。この総攻撃で原城は落城、天草四郎は討ち取られ、一揆軍は皆殺しにされて乱は鎮圧された。幕府軍の攻撃とその後の処刑によって、籠城していた老若男女37,000人はほぼ全員が死亡したとされる。

 反乱軍への処断は苛烈を極め、島原半島天草諸島カトリック信徒はほぼ根絶された。また、島原藩主の松倉勝家は、過酷な年貢の取り立てによって一揆を招いたとして、改易処分のうえで斬首となり、同様に天草領主の寺沢堅高も責任を問われ、天草の領地を没収された。
 

 島原の乱は江戸期初期に発生したが、江戸時代を通じて最大の大乱となった。領主による圧政と弾圧が直接の動機となったが、百姓一揆キリシタンの反乱という性格が重なり合い、江戸幕府を怯えさせるほどの内乱に発展した。

 江戸時代を通じて百姓一揆は多く発生したが、これだけ組織だった一揆はなかったし、キリシタンも武器を取って抵抗することはなく、殉教という形で神の裁きを期待するのが普通だった。したがって、百姓一揆キリシタンの反抗だけで、この島原の乱を説明できない。

 

 島原はかつてキリシタン大名有馬晴信の領地であったが、晴信は配流され自害した。また天草は、これもキリシタン大名であった小西行長の領地だったが、行長は関ケ原で西軍に付いたため斬首されている。それらの地では、領主から取り残された家臣が浪人となり、百姓として庄屋など土地の中心的存在となっていた。

 彼ら浪人百姓は、かつての戦国の空気を嗅いだ武士でもあったわけで、彼らが一揆軍を組織したと考えられる。かれらもまたキリシタンでかつ百姓でもあったし、他の農民も束ねやすかったと思われる。さらに乱の初めから、かなりの武器を用意していたと考えられる。となれば、そのバックにポルトガルやイエスズ会が関わっていたことも想像される。こう考えると、圧制と弾圧をこらえかねて立ち上がった百姓やキリシタン一揆というだけではなく、遠くマカオやマニラまでも関わる国際的な背景のもとでの反乱という構図が浮かんでくる。幕府が体制の危機とまで恐れた理由が分かる気がする。
 

(この時期の出来事)
*1636.5.19/ 幕府は日本人の海外渡航を厳禁、ポルトガル人を海外追放。(第4次鎖国令)
*1636.5.24/仙台 仙台藩伊達政宗(70)没。
*1636.-.-/肥前 長崎の出島が完成。
*1638.9.20/ 幕府はキリシタン禁教令を諸大名・旗本に重ねて布告し、密告を奨励する。
*1639.6.-/ 幕府は宗門改役を設置し、宗門改帳を作成する。
*1639.7.4/ 幕府はポルトガル船の来航とキリスト教の厳禁を通達する。(第5次鎖国令・鎖国の完成)
*1639.10.-/肥前 オランダ人とその日本人妻子を国外追放する。
*1640.6.16/肥前 幕府は、貿易再開の要請のため長崎に入港したポルトガル船を焼き、使節や乗組員61名を処刑する。
*1640.7.26/播磨・讃岐 幕府は池田騒動と生駒騒動に採決を下し、播磨山崎藩主池田輝澄と讃岐高松藩主生駒高俊を厳重処分。

【Five Jews change the way we see the world】

【Five Jews change the way we see the world】
 


Five Jews change the way we see the world:

Moses: "The Law is everything"
Jesus: "Love is everything"
Marx: "Money is everything"
Freud: "Sex is everything"
Einstein: "Everything is relative"

(Jewではないが)
Nietzsche: "Power is everything"
 

これだけで現代思想を語り尽くせるのだ。

 愛[love]と道徳[law]が廃れて、金欲[money]・性欲[sex]・権力欲[power]が支配的の世の中になったが、すべては無[relative]である(笑)

 

 詩人鮎川信夫は、ニーチェマルクスフロイトを少し齧るだけで、現代思想ぐらい語れると言ってのけた。

 つまり、律法・規範[law]や普遍愛[love]といった理想(当為"sollen")に対して、経済的欲望・性的欲望・権力的欲望という現実(実在"sein")が優先されるのが現在という世の中である。
 

 それら三つの無意識的欲望を見出したのが上記三人であり、当然ながら三者の思想は、現在社会を貫徹しているわけだ。しかしこれらの欲望は、すべて相対的・関係的[relative]であり、絶対的なものではない。すなわちすべての欲望は「無」へと差し向けられている。

 あとは各自、自分で考えてくれ(笑)