【19th Century Chronicle 1881年(M14)】

【19th Century Chronicle 1881年(M14)】
 

(国会開設への流れ)
*1.-/ 大隈重信伊藤博文井上馨黒田清隆の4参議が、熱海で憲法・国会開設問題などを協議する。

*3.-/ 参議大隈重信が、2年後の国会開設・政党内閣制などを盛り込んだ国会開設意見書を、左大臣有栖川宮熾仁親王へ提出する。

*5.-/ 自由民権運動の中心的結社立志社が、人民主権一院制議会を採用した日本国憲法見込案を起草する。

*7.5/ 右大臣岩倉具視が、太政大臣左大臣憲法起草手続きについて進言し、井上毅起草の憲法の大綱領を提出する。

*8.-/ 植木枝盛が、東洋大日本国々憲案を起草する。

*10.12/ 1890年に国会を開設する旨の勅諭が出る。(国会開設の勅諭)
 
 

開拓使払下げ事件・明治14年の政変

*7.21/ 開拓使長官黒田清隆が、北海道開拓使官有物の払い下げを決定するも、黒田長官と関西貿易商会の五代友厚とが、同じ薩摩閥として癒着関係が指摘され、政争へと発展する。(開拓使官有物払下げ事件)

*10.11/ 御前会議で、立憲政体に関する方針、開拓使官有物払い下げ中止、大隈重信参議の罷免などが決定される。(明治14年の政変
 


 北海道開拓使長官の黒田清隆は、開拓使官有物を同郷薩摩の政商五代友厚らの関西貿易商会に安値無利子で払下げることを決定した。ところが、払下げ問題が新聞に掲載されると、世論の厳しい批判を浴び、政府内でも批判の声が起こった。この事件は単なる払下げ疑獄におさまらず、自由民権運動への対応方針や、薩長など藩閥間の主導位争いが絡み合って、「明治14年の政変」にまで発展する。
 

 開拓使は設立当初機能しなかったが、黒田清隆が長官となると、「開拓使十年計画」などで政府から大きな予算を獲得し、北海道のインフラを整備し、民間産業を育成する段階にまで達して来た。十年計画の満期が近くなった1881年明治14年)、開拓使の廃止方針が固まった。黒田は開拓使の事業を継承させるために、部下の官吏を退職させて民間企業を起こし、官有の施設・設備を安値で払い下げることにした。

 黒田開拓使長官の下で、開拓使中枢は薩摩閥が占めるようになっていた。薩摩出身の退職官吏などが設立した「北海社」が払下げ工場の運営などにあたるが、資金は五代友厚が仕切る「関西貿易商会」が出資することになった。五代もまた黒田と同郷で、実業家として大阪経済界の重鎮であり政商でもあった。
 


 政府内では、特に払下げの規則を作った前大蔵卿大隈重信が反対した。これ以前に、三菱商会の岩崎弥太郎開拓使の船舶の払下げを却下された経緯があり、大隈は岩崎の後見人的立場だったため、世間では、三菱と大隈が結びついて、薩摩に対抗していると見られた。

 政府批判から盛り上がる自由民権運動に憂慮した伊藤博文は、岩倉具視井上毅らと組んで事態の収拾に乗り出し、大隈と民権陣営が結託した上での陰謀と断じて大隈の追放を決定した。そして、明治天皇行幸に大隈が同行している間に、大隈の罷免、払下げ中止、10年後の国会開設などの方針を決めた。

 

 1881年明治14年)10月12日、勅裁をえて、大隈の罷免、払下げ中止とともに、「国会開設の勅諭」が公表された。これを「明治十四年の政変」と呼び、一種のクーデターである(明治十四年の政変)。大隈の下野とともに、黒田も開拓長官を辞して内閣顧問の閑職に退いた。
 
 

〇この年の出来事

*3.5/群馬 榛名山山麓の農民3万人が、入会権をめぐって集合する。(10日後、警官隊によって鎮圧)

*6.8/秋田 政府転覆をねらった秋田立志会の武装蜂起計画が発覚する。(秋田事件)

*10.18/東京 2日から開かれた自由党結成会議が本格的審議に入る。10月29日、総理に板垣退助を選出する。
 
*10.21/ 松方正義が、参議兼大蔵卿に任命される。(松方財政の本格的開始)