12【20世紀の記憶 1910(M43)年】

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12【20世紀の記憶 1910(M43)年】(ref.20世紀の全記録)
 
*6.1/日本 幸徳秋水ら、大逆罪で検挙さる。(幸徳事件)
 


 「大逆罪」とは、旧刑法第116条で「天皇三后皇太子ニ対シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス」と定められており、天皇を国家の根幹と位置づけた旧憲法下では、まさに国家転覆を謀る大罪とされた。大審院での一審のみの裁判で、科せられる刑罰は死刑のみだった。

 旧憲法下で大逆事件が適用されたのは、「幸徳事件」の外に「虎ノ門事件」「朴烈事件」「桜田門事件」の4事件があるが、一般に「大逆事件」と言われるときは、この幸徳事件を指すとされる。
 

 1910年(明治43年)5月25日より、多数の社会主義者無政府主義者の逮捕・検挙が始まり、6月1日には幸徳秋水、管野スガが逮捕された。翌年1月、死刑24名、有期刑2名の判決。1月24日に11名、翌25日に唯一の女性管野が処刑された。

 その前年、幸徳秋水、管野スガら5名が、明治天皇暗殺計画を練り、長野県の明科で爆弾を製造、爆発実験を行った「明科事件」が発端であったが、当時の政府は、これを契機に社会主義者無政府主義者を一掃しようと、一気に関係者の逮捕に踏み切った。

 天皇暗殺計画に直接かかわったのは数名だけだったが、24名が大逆罪で死刑の判決が下された。翌日、天皇特赦により12名が無期懲役減刑されたが、うち5名は獄中で死亡している。死刑判決確定の12名には、一週間で処刑が執行された。この事件の影響で、社会主義運動は数多くの同調者を失い「社会主義冬の時代」とも呼ばれる時期を迎える。
 


 幸徳秋水は、黒岩涙香の創刊した『萬朝報』記者となり、草創期のジャーナリストとして活躍した。萬朝報は日本に於けるゴシップ報道の先駆者、権力者のスキャンダルを追求するなど、明治の"文春砲"といったところか(笑) 日露戦争が始まると、「萬朝報」が社論を非戦論から開戦論へと転換させたので、秋水と堺は非戦論を訴えつづける為に平民社を開業し、週刊『平民新聞』を創刊する。

 やがてクロポトキンを知ると無政府主義に傾き、アナーキストとしての自覚のもとに、急進的な直接行動を主張するようになる。そのような傾向を官憲に睨まれ、「明科事件」に直接に関与してないにもかかわらず、愛人菅野スガの療養を兼ねて訪れた湯河原で逮捕された。

 

 幸徳秋水の愛人だった管野スガは、大阪の裁判官で事業家の家庭に長女として生まれ、19歳で東京深川の裕福な商人に嫁ぐも、まもなく離婚して帰阪。文士の宇田川文海に師事して文学を学び、『大阪朝報』の記者となると、廃娼運動や男女同権の運動にも参加するようになる。

 日露戦争に際して、スガは幸徳秋水堺利彦らの非戦論に共鳴、平民社と関わるようになると、婦人運動から社会主義運動にシフト、そこで荒畑寒村と知り合い、同棲のあと結婚する。「赤旗(セッキ)事件」に連座して寒村とともにスガも逮捕されるが、肺病を患っていたスガは釈放される。

 アナーキズムに共鳴し、秋水の経済的援助を受けながら療病生活を続ける内、秋水と恋愛関係になり、平民社内で同棲するようになる。秋水には妻千代子がおり、スガにも獄中の寒村がおり、いわゆるダブル不倫状態で、平民社内部でも不興をかった。結果、スガは獄中の寒村に一方的な離縁状を送って離婚、秋水の妻も追い出す格好になった。

 官憲は、過激アナーキスト頭目として秋水を付け狙っており、明科事件を契機に社会主義者無政府主義者を次々と逮捕。やがて、スガの湯治療養を兼ねて湯河原に逗留していたところを、両名ともに逮捕された。
 

・菅野スガを描いた小説。瀬戸内晴美『遠い声』 http://ameblo.jp/fufufu-mumble/entry-11912783848.html

・「大逆(幸徳)事件」を描いたドキュメンタリー映画『100年の谺 大逆事件は生きている』 http://taigyaku-movie.net/
 

*8.22/日韓 日韓併合条約、調印さる。
 


 「李氏朝鮮李朝)」は、清国の冊封体制下で属国であったが、日清戦争の結果、「大韓帝国」と改称して独立国の体裁をとった。しかし、実質的には日本とロシアがせめぎ合う強い影響下にあって、それが日露戦争の原因の一つともなった。日露戦争の結果ロシアが後退すると、日本は三度の日韓協約を結び、事実上の属国としていった。

 日本は朝鮮支配を列強に認めさせるために、ロシアとは日露協約の秘密協定で満州外モンゴルとの引き換えに、権益の相互承認を合意、イギリスとは日英同盟でイギリスのインド支配との相互承認、アメリカとは桂=タフト協定でアメリカのフィリピン支配とバーターして、大韓帝国を併合する条件は整っていた。
 


 初代韓国統監の伊藤博文韓国併合には慎重であったが、韓国統監としての仕事が一段落すると、主眼を満州に向けるようになり、統監職を辞するとともに併合派に妥協した。伊藤博文は実質保護国のまま、形式的には独立国として、韓国に自治させておく方が効率的と考えていたようだ。併合後の朝鮮植民地経営は、結果的に大赤字だったことをみれば、伊藤の考えの方が合理的だったと思われる。

 しかし、伊藤博文満州ハルビン安重根に暗殺されると、桂太郎首相など韓国併合推進派は一気に力を得て、「韓国併合条約」の調印にこぎつける。「併合」という言葉はこの時の造語であり、「対等合併」ではないことを明示する意図があったとされる。
 


 当時の大韓国内では、ロシアの力を借りて独立自治を維持したい皇帝近辺のグループと、日本と「韓日合邦」して富国強兵を図る一派とが対立していた。日本との対等合併を目指す大韓国内の政治結社一進会」李容九会長らは、日本軍や日本政府の支援を受けつつ、伊藤が暗殺されると、「韓日合邦を要求する声明書」を大韓国皇帝純宗、韓国統監曾禰荒助などに送りつけた。


 一進会の声明書は日韓対等合併を目指すものだったが、それはかなわず日本に併合されることになった。一方、併合する側の日本にとっては、朝鮮人民自身の要望による併合という理由づけには好適であった。もちろん民意とは名ばかりで、朝鮮上層一部の意見でしかなく、日本政府はそれを根拠に圧力をかけ、大韓国政府に韓国併合条約を調印させた。

 併合条約では、韓国皇帝が日本天皇に譲渡したという「任意的併合」の形式をとった。それは、国際法上の制約によるもので、「強制的併合」とするわけにいかなかったことによる。日本では、歴史学者が「日鮮同祖論」を発表するなど、歓迎する世論に沿って併合を合理化された。このように、一つの独立国が自ら申し出た形で併合されたのは、アメリカのハワイ併合と日本による韓国併合の例のみであるとされる。
 

〇この年の出来事
*2.25/中国 清国、チベットに武力進駐、ダライ・ラマ13世を退け、主権確立。
*5.19/-- ハレー彗星大接近、地球滅亡か!? 流言飛語に尾ヒレがつき、世界中が大騒ぎ。
*9.6/日本 第2次「新思潮」創刊。谷崎、和辻ら東京帝大生によって。
*11.20/ロシア 大地主の貴族であった作家トルストイは、すべてを棄てて出奔し、中央アジアの寒村でひとり客死する。
*11.29/日本 白瀬中尉ら、南極探検に出発。
*12.-/ドイツ ドイツの詩人ライナー・リルケが、6年がかりで完成した「マルテの手記」を刊行。