『Get Back! 30’s / 1937年(s12)』

『Get Back! 30's / 1937年(s12)』
 
○6.4 第1次近衛文麿内閣が成立する。軍・官・民の挙国一致内閣。


 近衛文麿(ふみまろ)は、五摂家筆頭という血筋や、貴公子然とした長身で端正な風貌で将来を嘱望され、論文「英米本位の平和主義を排す」などを発表して、対英米協調外交に反対する現状打破主義的主張で、大衆的な人気も獲得し、早くから将来の首相候補に擬せられていた。

 1937年(昭和12年)、対中国政策が行き詰まった広田内閣が総辞職し、後継の林銑十郎首相も3ヶ月で辞任するなど、短命内閣が続いたあと、近衛文麿は元老西園寺公望の推薦を受け、6月4日に第1次近衛内閣を組織した。当年45歳の貴公子宰相は、陸海軍、財界、政界からの支持を受け、国民の圧倒的な期待のもと、軍官民の挙国一致内閣として迎えられた。


 7月7日に盧溝橋事件(日中戦争)が勃発すると、即時に不拡大方針を表明し、現地では停戦努力が進められた。しかし近衞は蒋介石が新たに兵を増派するとの報を受けると、政財界及び報道陣代表を前に「北支派兵声明」を発表する。このような決定は現地における停戦努力を無にする行動であり、国民の戦争熱を煽るパーフォーマンスと見なされても仕方がない。

 その後も「事件不拡大」を唱え続けながらも、次々と北支事変軍事予算を追加決定し、不拡大とは正反対の政策を実行した。北支事情を熟知する石原莞爾らは、近衛首相が自ら南京の蒋介石と膝詰めで談判するべしと提言するが、近衛は優柔不断に首脳会談から逃げた。その後の情勢変化で和平工作が進みそうになると、近衛は特使を上海へ派遣しようとしたが、事前に察知した陸軍の強硬派によって阻止されてしまう。

 さらに日中両軍による戦闘が拡大すると、近衞は「今や断乎たる措置をとる」との声明を発表、不拡大方針の放棄を決定し、「北支事変」を「支那事変」と呼称も変更する。また国内では、国民精神総動員体制や経済総動員体制の確立に向けて動き出した。さらに、日独にイタリアを加えた「日独伊防共協定」を締結し、大本営を設置するなど、どんどん戦時体制を進めさせた。

 翌年4月には国家総動員法や電力国家管理法を公布、経済の戦時体制を導入し、明確な国家運営思想を持たないままに「国家社会主義」政策を推進する。国家総動員法や電力国家管理法は、共産主義ソ連の第一次五カ年計画の模倣、国民学校令は、ナチスドイツのフォルクスシューレを模倣したとされるちぐはぐさであった。口先だけの停戦努力は軍の意向で無力化されたまま、1939年1月に第1次近衛内閣は総辞職する。


 近衛は翌1940年、翌々1941年と、さらに2度組閣している。すでにヨーロッパで第二次大戦が始まっており、やがて太平洋戦争も必至との状況となっていた。近衛内閣は為すすべもなく、軍部は中国だけでなく南方進出をはじめ、陸軍は日米交渉を事実上終わりと判断、参謀本部は近衛内閣に対し外交期限を設定した。

 軍から戦争の決断を迫られた近衞は、重臣を集めた会談で、「今、どちらかでやれと言われれば外交でやると言わざるを得ない。(すなわち)戦争に私は自信はない。自信ある人にやってもらわねばならん」と述べ、政権を投げ出して内閣総辞職した。そのあと、東條英機が首相として組閣し、太平洋戦争へなだれ込む。日米戦争の責任を一身に背負わされる東條ではあるが、近衛の優柔不断によって戦争は目前に準備されていたと言える。

 なお、戦後、日本新党を率いて細川連立政権を樹立、戦後55体制を終わらせた細川護熙は、近衛文麿の外孫にあたる。彼もまた、1年にも満たない時期に、資金問題を突っつかれたとたんに政権を投げ出した。血は歴史を繰り返させる?(笑) 
 

【芸能関係】
○7.3 [東京] 浅草に国際劇場が開場。松竹少女歌劇団が国際東京踊りを上演する。


 戦前の演芸のメッカ浅草に「(浅草)国際劇場」が開場し、4,000人〜5,000人収容(公称3,860席)の「東洋一の五千人劇場」とされる巨大な劇場が誕生した。松竹直営であり、宝塚歌劇団に対抗する「松竹歌劇団(SKD)」のメイン劇場として開設された。当時の松竹歌劇団は、「男装の麗人」と称され人気絶頂期を迎えたターキーこと水の江瀧子を擁して、老舗の宝塚歌劇団をもしのぐ勢いであった。

 しかし戦時色が強まるなか、名物のレビュー「東京踊り」には「祖国のために」というバレエが併演されるなど、上演内容についての軍部からの制限が強化され人気は低迷する。さらに、オリエ津阪・水の江瀧子という看板男役スターが相次いで退団するなどして、1944年3月戦時非常措置により国際劇場が閉鎖されるとともに、松竹少女歌劇団も解散する。


 終戦後、松竹歌劇団は再出発し、東京大空襲で損壊していた国際劇場も修築されると、国際劇場の巨大さと舞台機構を活かした演出法で、宝塚をも圧倒する大規模ショーとしての松竹レビューが定着した。スタイルを誇る40名のラインダンスチーム「アトミック・ガールズ」は、30m近くの大舞台一杯にダイナミックなラインダンスを繰り広げ一世を風靡した。

 その後国際劇場では、SKDのレビュー以外に人気歌手の実演や女剣劇、喜劇などが上演されたが、SKDのレビューはマンネリ化して、宝塚風のミュージカルにシフトするも立ち遅れは否めなかった。やがて、1982年の「東京踊り」を最後に国際劇場が閉鎖されると、松竹歌劇団は地方劇場での公演を続けるも、やがて1996年をもって解散する。かつて国際劇場劇場が面していた通りは、現在も「(浅草)国際通り」と呼ばれている。
 
○9.- [東京] 益田喜頓川田晴久坊屋三郎芝利英が「あきれたぼういず」を結成する。


 「あきれたぼういず」は、川田義雄(晴久)、坊屋三郎芝利英益田喜頓による日本のボードビルグループとして結成された。「チョイと出ましたあきれたぼういず、暑さ寒さもちょいと吹き飛ばし、・・・」とのリズミカルなテーマ曲とともに登場するスタイルは、音楽コミックグループとして、戦後のクレージーキャッツドリフターズなどの嚆矢となった。

 米英のボードビル芸を採り入れ、スマートで風刺精神にあふれた芸風は、昭和モダンを代表するコントグループとして、知的階層から庶民に至るまで幅広く受け入れられた。後に引き抜き等があり、川田の代わりに、山茶花究を加えて第二次あきれたぼういずを結成、「あきれた石松」「ダイナ競走曲」などのヒット曲も生み出す。

 坊屋の実弟であった芝利英の応召と戦死があり、戦後には芝を除いて残された3人のメンバーで復活した。その後解散しても、坊屋、益田、山茶花は、舞台、映画界、テレビで活躍する。ちなみに、芝利英は稀代のエンターテイナー「モーリス・シュバリエ」、益田喜頓喜劇王バスター・キートン」をもじったもので、山茶花究は掛け算九九の「三三が九」のことであろう。

戦後第三次「あきれたぼういず」 https://www.youtube.com/watch?v=Kq7elUhbiM4
 
○11.12 [京都] 松竹から東宝に移籍した俳優林長二郎長谷川一夫)が、暴徒に切りつけられ、左顔面に重傷を負う。


 「林長二郎」、本名長谷川一夫は、京都宇治で芝居小屋を営む叔父の影響で、幼い時から芝居に親しんで育った。関西歌舞伎に加わり初代中村鴈治郎の門下となると、林長丸を名乗り、その美貌から女形として人気を博した。そのうち、大阪松竹座こけら落としの舞台に出ているところ、観劇に来ていた大阪松竹社長白井松次郎に認められ、松竹下賀茂撮影所に入社すると、林長二郎の芸名を貰い受ける。

 松竹は林を期待の新人スターとして、莫大な宣伝費をかけて売りだし、結果、若い女性の間で大人気となり、たちまち若手時代劇のスター俳優となった。しかし1937年(昭和12年)、松竹から東宝への移籍契約をめぐり松竹とトラブル、マスコミからは「忘恩の徒」などとの非難を浴びせられた。

 同年11月12日、「源九郎義経」の撮影中に、東宝京都撮影所出入りの二人の男に襲われ、顔を斬りつけられて左頬を貫通の重傷を負った。新聞見出しには「林長二郎暴漢に顔を斬らる!」との見出しが躍り、日本全国が騒然となった。当時日本を代表する映画会社、松竹と東宝犬猿の仲であり、事件の背後には松竹の意向が働いたとも言われる。


 事件後、林長二郎はこの名を松竹に返上し、本名の長谷川一夫を名乗る。「長谷川一夫」は二枚目俳優として致命的とまで言われた傷を、独自のメイキャップで隠して、再起不能とまでいわれた逆境を跳ね返して、堂々と大スターに返り咲いた。

 戦後は、大映京都撮影所に重役として迎えられると、長谷川一夫の代表作ともされる「銭形平次」に出演し、計17本ものシリーズ作品は、大映を支える人気シリーズの一つとなった。また、NHKドラマ「赤穂浪士」で大石内蔵助役で主演、この「おのおの方、いざ」などという名セリフは語り草ともなった。

 なお、「ミーハー」という流行語は、当世の軽薄な若い女の子がとび付く大好きなものとして、「みつまめ」のミと「林長二郎」のハをつなぎ合わせた造語とされる。もはや死語に近いが、その意味するところのものはいつの世にも存在するようである。
 

日中戦争
○7.7 [中国] 北京郊外の盧溝橋付近で数発の銃声が響き、8日、日中両軍が衝突する。(盧溝橋事件)
○8.13 [中国] 上海で海軍陸戦隊と中国軍が交戦を開始。(第二次上海事件)
○12.10 [中国] 日本軍が南京総攻撃を開始。13日、南京を占領する。(南京事件


 1937(昭和12)年7月7日、北京郊外の盧溝橋付近で日本軍と中国軍の衝突し、これが「日中戦争」の始まりとされる。日本軍への発砲をきっかけに交戦状態となったが、何者が発砲したかについては定かになっていない。この時の第1次近衛内閣は不拡大方針を閣議で確認し、現地に事態収拾を指示し一旦停戦が成立しつつあったが、蒋介石が師団を派遣するとの情報に対抗し、近衛は「北支派兵声明」を発表し停戦は困難となった。


 紛争が勃発した当初、日本側は「北支事変」と称し地域紛争に収めようとしたが、やがて戦闘が上海にまで拡大すると「支那事変」と命名した。戦闘は拡大し事実上の戦争となったが、双方とも宣戦布告は行わず「事変」と呼んだ。中国では一般的に「七七事変」と呼ばれるが、これ以降、日本は十五年戦争とも呼ばれる長い戦争に入り込んでゆく。


 戦線は上海に飛び火し「第二次上海事変」が起こると、日本軍はさらに蒋介石国民党政府のある南京まで攻略する。この南京陥落のときの「南京大虐殺」は、後の東京裁判で非人道的行為として責任を追及される。さらに国民党政府は、武漢をへて四川省奥地の重慶にまで移動し、日本軍は険しい立地の重慶を攻略するために、200回を超える「重慶爆撃」を行った。これもまた東京裁判で、ナチスドイツ軍の「ゲルニカ爆撃」に匹敵する無差別大量殺戮であるとして弾劾された。
 

*この年
千人針と慰問袋作り盛ん/出征のぼりや小旗の需要伸び旗屋繁盛/普通乗用車5万台突破(戦前最高)
【事物】プラネタリウム/プラスチック什器/人間ドック/戦争玩具
【流行語】パーマネントはやめましょう/馬鹿は死ななきゃなおらない/銃後
【歌】人生の並木道(ディック・ミネ)/青い背広で(藤山一郎)/別れのブルース淡谷のり子
【映画】裸の町(内田吐夢)/真実一路(田坂具隆)/人情紙風船(山中貞夫)/女だらけの都(仏)/オーケストラの少女(米)
【本】山本有三路傍の石」(朝日新聞)/石坂洋次郎「若い人」/川端康成「雪国」/火野葦平「糞尿譚」