『Get Back! 80’s / 1987年(s62)』

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『Get Back! 80’s / 1987年(s62)』

#そのころの自分#
 家庭教師業も軌道に乗ってきた。関連して、中学校や高校の教科書を、あらためて読む機会ができた。このへんの基礎的な知識を身につけておくと、たいていの世の中の出来事は理解できる。基礎さえあれば、今は特殊な知識もすぐに調べられる。極端に記憶力は落ちているが、ネット検索でほとんど補える。
 
○5.10 [東京] 帝銀事件の平沢貞道死刑囚(95)が、収監先の八王子医療刑務所で死亡する。

 「帝銀事件」とは、昭和23年1月26日、帝国銀行椎名町支店で起きた行員毒殺強盗事件である。銀行の閉店時間に厚生省技官を名乗る男が現れ、近辺で赤痢が発生したため持参した予防薬をのむようにと指導、それを飲んだ行員及び関係者16名のうち12名が死亡するという事件が発生した。

 青酸化合物による毒殺とは判定されたがほとんど物証とされるものはなく、捜査は使用された毒物の扱いに習熟している者という方面から、戦中の731部隊など細菌毒物兵器の開発関係者という方向で操作が進むも、GHQの指示(敗戦後ですべてGHQ指揮下にあった)で突然中止された。

 この事件の前に類似事件が2件あり、それらも同一犯人と推定されたが、それぞれの事件で犯人は衛生技官を名乗る名刺を差し出していた。偽名のものもあったが、うちに実在人物の名刺があり、その名刺を受取った者をしらみつぶしに当った結果、著名な画家であった平沢貞道が浮かび上がった。

 状況証拠と手配似顔絵に似ているということから平沢は逮捕され、当初は無罪を主張するも、拷問に近い取調べの下で自白に至る。当事は戦前からの刑法が摘要され「自白第一主義」であったため、物的証拠皆無にもかかわらず、一審で死刑判決、控訴上告も棄却され昭和30年に死刑が確定する。その後幾度も再審請求するも認められず、逮捕から39年後95歳で獄中で病死する。


 平沢が真犯人であるかどうかは永遠の謎であるが、歴代の法務大臣が死刑執行に判をつかず、95歳の自然死まで放置したこと自体が、何らかの示唆をしているであろう。DNA鑑定などまだない時代だが、指紋一つ平沢を示す物証としては提出されていない。

 平沢を犯人とする状況証拠の一つとして、事件で奪われた18万ほど(現在で100万程度の価値か)とほぼ同額を、逮捕前に自己口座に入金したという事実が挙げられる。平沢はこの入手元を明示せず、より疑いが深められることになった。当時の混乱社会では一定の評価を受けた画家であっても、絵だけを売って食ってゆくのは至難であった。平沢も「春画(猥褻画)」を裏で描いて生活の糧としていたのだが、それを言うのは画家としてのプライドが許さなかったからではないかとも推測されている。
 
○6.13 [広島] プロ野球広島東洋カープ衣笠祥雄内野手が連続試合出場の世界新記録を樹立する。

 衣笠祥雄という選手は、京都の古豪 平安高校の4番キャッチャーで、春・夏の甲子園に出場したときから知っていた。野球が盛んとは言い難い京都府で、平安高校は群を抜いており毎年のように甲子園に出場していた。衣笠の前に、大型捕手として騒がれて巨人入りした野口という選手がいたが、泣かず飛ばずに終った。

 あとを受けた衣笠は筋肉質ではあるがひと回り小柄で、春夏ともベスト8まで進んだ甲子園でも目立つ活躍をしたとは言いがたかった。それでも、右バッターボックスに入ると、まず左肩にバットを立てるようにしてから、おもむろに右に引いて構えるという、相手投手を威圧するかのような衣笠のスタイルは、この高校生の時からだったと思う。

 広島東洋カープに入団して、打力を買われて内野手に転向、初年度から一軍に定着して試合にも出場したが、まだ目立つ活躍はなかった。4年目からは一塁手としてレギュラーに定着、打率3割に届かないものの、コンスタントに打点と本塁打を増やしていった。そして1970年シーズン末から1987年末まで、足掛け18年にわたって連続試合出場を続けた。2215試合連続出場は当時の世界記録とされ、そのシーズンで引退。翌年、王選手に続いてプロ野球選手として2人目の国民栄誉賞に輝いた。

 「鉄人衣笠」と呼ばれ、連続試合出場ばかりが取りざたされることが多いが、一塁手から三塁手にコンバートされてもその俊敏な守備は超一流であり、盗塁王も獲得したことのある俊足であり、しかもその打撃部門では、生涯記録のほとんどの分野でベスト10に入る安定した活躍をしている。
 
○10.19 [ニューヨーク] ニューヨーク株式市場で、株価が大暴落する。[暗黒の月曜日]

 1987年10月19日月曜日、ダウ平均の終値が前週末より22.6%も暴落し、これは暗黒の月曜日(ブラック・マンデー)と呼ばれる。これは、世界大恐慌の引き金となった1929年暗黒の木曜日(ブラック・サーズデー)の下落率12.8%をはるかに上回った。この急落は、翌日順次開かれるアジアの各市場、さらにヨーロッパへと連鎖してゆく。

 '80年代に入ってインフレ抑制に成功した世界市場は、金融緩和が進み過剰な流動性が発生しており、資金が株式市場に流れ込んでいた。過熱気味の市場に、アメリカでは貿易赤字抑制や行き過ぎたドル安修正のために、金利引き上げで金融引き締めされるという観測が進んだ。

 株式は、大地震と同じように、暴落が起りやすい状況は観測できても、それがいつどのタイミングで起るかは予測不能である。わずかな兆候や先行き不安などの思惑が、大きな株価の上下動を引き起こす。近年は、高度な金融工学の登場とコンピュータの普及とが相まって、頻度の高い自動売買が為されるために、僅かな傾向が極端に増幅される方向にある。

 今回の暴落も、そのようなシステムが大きく作用したと考えられる。しかし1930年代とはちがって、ケインズ以降、金融政策や財政出動など、マクロ・ミクロの対応策が整備され、各国政府の経済協調体制も緊密に維持されている。そのため、1929年のブラック・サーズデーのような大恐慌につながることはなかった。協調して金融緩和を続けた日本では、半年後には下落分を回復し、さらに拡大を続け、事後的にはすでにバブルが始まっていたと考えられている。
 
○11.29 [ミャンマー沖] 大韓航空機がバンコク空港と交信後、消息を絶つ。12月1日、偽造旅券の男女2人がバーレーンで警察に拘束される。[大韓航空機爆破事件]

 1987年11月29日、バクダット発アブタビ―バンコク経由ソウル行きの大韓航空858便ボーイング707型機(乗員乗客115人)が、ビルマの南方海上で消息を絶った。当初、事故による山中墜落説や海中墜落説など様々な憶測が飛び交ったが、12月1日、バーレーンの空港でローマ行きの飛行機に乗り換えようとしていた2人の男女が、日本人のパスポートを偽造所持していたのが判明、乗り込む直前に取り押さえた。

 取調べ中に男は用意していた毒薬を飲み込み服毒自殺、同様に飲み込んだ女は、すぐに吐き出させたため一命を取り留めた。2人は日本人親子を装った北朝鮮の秘密工作員で、死亡した蜂谷真一名義の男は「金勝一」、生き残った蜂谷真由美は「金賢姫(キムヒョンヒ)」であることが判明した。

 金賢姫の自供によると、爆破目的は翌年開催予定のソウル・オリンピックの妨害・阻止であったこと、命令指示は金正日の親筆であったとされる。韓国の安全性に疑いを抱かせ東欧諸国のボイコットを狙ったが、当時西側との関係修復過程にあったソ連は北による謀略があったとし、東欧諸国にも卑劣なテロ国家として認識がひろがり、ソウル五輪は無事に行われることになった。

 金賢姫は、韓国で起訴され死刑判決が確定した。しかし盧泰愚大統領は、「事件の生き証人」という政治的な配慮で特赦した。そのあとの記者会見で、自己批判北朝鮮の体制批判をしたが、この時、日本人拉致被害者とされる「李恩恵」こと田口八重子の話が飛び出し、一躍日本でも、拉致問題の有力な証言者として注目されるようになった。
 
*この年
超電動ブーム/霊感商法の被害広がる/マドンナ、マイケル・ジャクソン来日フィーバー
【事物】カセットブック/さくらメール/ドライビール
【流行語】朝シャン/ウォーターフロント/カウチポテト/ジャパンバッシング
【歌】命くれない瀬川瑛子)/スターライト(光GENJI)/愚か者(近藤真彦
【映画】マルサの女伊丹十三)/ハチ公物語(神山征二郎)/プラトーン(米)
【本】俵万智「サラダ記念日」/村上春樹ノルウェイの森」/石ノ森章太郎「マンガ日本経済入門」