【アメリカの歴史】22.[番外]アメリカ政党史概観2/5

アメリカの歴史】22.[番外]アメリカ政党史概観2/5

 

 1775年の「アメリカ独立戦争」から1890年の「フロンティアの消滅」にかけて、アメリカ合衆国は西へ西へと領土を広げていったが、南北戦争後にはほぼ共和党が政権を握った。まずフランス領ルイジアナの買収から、イギリス領カナダの一部を交換で獲得するなどして、ミズーリ川西岸地域が領土となり、さらにメキシコから独立していたテキサスを併合、スペインからフロリダを購入し、またオレゴンを併合して領土は太平洋に到達した。さらに、メキシコとの米墨戦争に勝利しカリフォルニアを獲得するなど、ほぼ今の合衆国の領土に近づいた。

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 しかし、グレートプレーンズからロッキー山脈にいたる峻厳な自然に阻まれ、インディアンとバッファローが散在するだけの荒れ地や山地が横たわっており、やっとフロンティアを西に進める本格的な西部開拓史が端緒に着いたが、西部開拓は困難をきわめた。東西交通は馬車で4000m級の険しいロッキーを越えるのは困難で、西海岸に船舶で行くには、南米大陸の南端を回る為、移動に4ヵ月以上を要した。

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 この困難を解消するため、リンカーン大統領は南北戦争中から、東西交通の基幹となる「大陸横断鉄道」の建設を進めた。南北戦争の勝利で黒人奴隷は解放されたが、解放後の対策は不十分で、大半の黒人はシェアクロッパー(分益小作人)として南部地主のもとにとどまった。そのため北部が期待した労働者になるものは意外に少なかった。

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 そのため大量の労働者を必要とした大陸横断鉄道の建設には、新たな移民が動員された。東側には、ジャガイモ飢饉で本国に住めなくなったアイルランド移民などが多く動員され、西海岸には、船で太平洋を横断して直接に運ばれる中国人移民が大半となり、苦力(クーリー)と呼ばれた。

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 1869年に最初の大陸横断鉄道が開通し、順次開業していくと、アメリカは実質的にも精神的にも、やっと国土が一つとなった。合衆国は、鉄道建設の邪魔になり、西部のインディアンの生活の糧でもあるバッファロー(バイソン)を、絶滅させる作戦をとった。さらに一連の「インディアン戦争」と呼ばれるインディアン部族の一斉蜂起も鎮圧し、1890年には、インディアンの掃討作戦は終了したとして「フロンティアの消滅」が宣言された。

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 フロンティアの消滅が公式に宣言され、インディアン戦争も終わりを告げ、西部開拓の時代も一段落した。ヨーロッパ列強はアフリカやアジアに植民地を獲得しつつあったので、アメリカも更なるフロンティアを海外へ求め、外に目を向けるようになった。

 

 1889年にパン・アメリカ会議が開催されると、これを契機にアメリカはラテンアメリカへの進出を始める。1896年のアメリカ合衆国大統領選挙で、「共和党ウィリアム・マッキンリー」が勝利を収めると、国内産業を育成し急速な成長と繁栄の時代を到来させ、南北戦争で出遅れたアメリカも、帝国主義に参戦した。

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 1898年、米西戦争が勃発すると、アメリカ軍はスペイン艦隊を壊滅させ、キューバとフィリピンをスペインから獲得するとともに、ハワイ共和国を併合、お膝元のカリブ海や太平洋地域に勢力圏を確保した。マッキンリーは暗殺されるが、副大統領の「セオドア・ルーズベルト」が後任となり、「ルーズベルト命題」を発表し、ラテンアメリカ諸国がアメリカの権益化にあることを宣言した。

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 そして、太平洋への経路としてパナマ運河建設権を得て、運河地帯の永久租借権を獲得した。太平洋の対岸の東アジアでは、西欧列強により中国の分割が進んでいたが、セオドア・ルーズベルト大統領は、清国の門戸開放を提唱して、アジアへの進出をもくろんだ。

 

【アメリカの歴史】21.[番外]アメリカ政党史概観1/5

アメリカの歴史】21.[番外]アメリカ政党史概観1/5

 

 アメリカ独立戦争の前から、北部では造船・運輸などの産業が発展をはじめ、イギリス本国の産業と競争するようになってきた。イギリス本国は印紙税などをアメリカ植民地に課して産業発展の妨害をしたため、パトリオット(独立派)の声が大きくなった。

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 一方、農業主体の南部では、綿花やタバコなどの農産物を英国に輸出するため、英国に残留しようとするロイヤリスト(忠誠派)が多かった。アメリカ13植民地では大陸会議を開いて方針を検討したがまとまらず、「ボストン茶会事件」に端を発した植民地の反乱は、1775年レキシントン・コンコードの戦い独立戦争が勃発した。

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 独立の機運は高まり、1776年7月4日、大陸会議は「アメリカ独立宣言」を採択した。組織的な軍事力をもたない植民地は苦戦したが、徐々に利害の絡むヨーロッパ諸国を巻き込んだ国際的な戦争に変化していき、フランス・スペイン・オランダなど英国と競合する国がアメリ大陸軍を支援し、1783年ついにパリ講和条約が締結され、アメリカ大陸植民地は独立を獲得する。

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 独立戦争の英雄「ジョージ・ワシントン」が初代大統領となったが、独立した13州の合衆国は、まだ統一国家としての形態が未熟で、強力な統一政府を作るために1787年フィラデルフィア憲法制定会議が開催され、「主権在民の共和制」「三権(立法・司法・行政)分立」「連邦制」を基本とした「アメリカ合衆国憲法」が制定された。

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 かくして「アメリカ合衆国」が誕生するが、この憲法に対する批判運動が起こり、連邦憲法容認の「連邦派(フェデラル)」と連邦制反対の「協和派(リパブリカン)」が対立するようになった。その後リパブリカンが主流となるが、さらに連邦主義を容認する「国民共和党(ナショナル・リパブリカン/ホイッグ党)」と州権主義を維持する「民主共和党(デモクラティック・リパブリカン)」に分裂する。

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 後者が「アンドリュー・ジャクソン」を第7代大統領に当選させると、「民主党」と改名して勢力を拡大した。庶民派を標榜するジャクソンは、競争の自由・普通選挙制(白人限定)など民主的な政策を進め、票を集めたが、その後、黒人奴隷制を支持する南部党員と奴隷制に批判的な北部党員の間で亀裂が深まった。

 

 南部中心に奴隷制支持に振れていった民主党に対して、北部を基盤に反奴隷制を標榜する進歩主義政党「共和党」が結成された。奴隷制が争点となった1860年アメリカ合衆国大統領選挙では、民主党候補が割れたため、40%の得票だった共和党の「アブラハム・リンカーン」が17代大統領に就任する。

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 そして南北の対立は決定的となり「南北戦争」が起こる。北軍を支持した共和党は北部の勝利により圧倒的に支持を増やし、南の支持に傾いていた民主党は勢力を失う。なお、この時期の支持基盤層や支持基盤地域は、「北部連邦派の共和党」と「南部州権派の民主党」であり、現在とほぼ逆だったことに注目する必要がある。

 

【アメリカの歴史】20.トランプ政権の誕生とアメリカの思想的混乱(2017- )

アメリカの歴史】20.トランプ政権の誕生とアメリカの思想的混乱(2017- )

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 2016年7月、共和党予備選挙で正式に大統領候補に指名されたドナルド・トランプは、2016年11月の2016年アメリカ合衆国大統領選挙の一般投票でも、民主党指名候補のヒラリー・クリントンらを相手に、アメリカの大手マスコミの殆どを敵に回しての選挙戦の末、全米で過半数の選挙人を獲得し勝利した。

 

 民主党バラク・オバマの後任として、2017年1月20日に第45代アメリカ合衆国大統領に就任した。その並外れた言動から暴言王とも称され、実業家出身で政治経歴のないドナルド・トランプが大統領に選ばれたこと自体、異例中の異例で世界中のマスコミを驚かせた。

 

 2017年1月20日、第45代アメリカ合衆国大統領ドナルド・トランプの就任式が挙行され、就任式のテーマは"Uniquely American"としてアメリカの独自性を強調し、"united behind an enduring republic" というフレーズで「アメリカ・ファースト」での国民的統合を訴えた。

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 しかし、野党である民主党の議員らが就任式の出席を拒否し、著名な芸能人も大統領就任式への出演依頼を拒否し、アメリカ国内の各j地では、トランプの大統領就任に反対するデモが実施され、新大統領の歓迎ムードに水をさす雰囲気が大きく報道された。

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 トランプ大統領は就任すると幾つもの大統領令などを発し、「医療保険制度改革(オバマケア)の撤廃」「環太平洋パートナーシップ(TPP)からの撤退」「メキシコなどからの不法移民規制」「気候変動の多国間協定(パリ協定)からの離脱」「イラン核合意からの離脱」「国連人権理事会(UNHRC)からの離脱」「キューバとの国交正常化の否定」など、前任のオバマ民主党政権の政策を全否定する政策を展開した。

 

 トランプの政策的主張は共和党の主流派とは大きく異なっており、共和党主流はトランプに批判的な意見が多い。そもそも、かつては民主党員であり、合衆国改革党にも所属していた。2012年アメリカ合衆国大統領選挙では、世論調査共和党の候補として2位の支持率を獲得したが、不出馬を表明した。2016年大統領選で共和党から出馬したが、出馬表明の場でトランプは、メキシコからの移民や不法入国者を犯罪者扱いする破天荒な発言をし、増大するヒスパニック(中南米)系住民の反発を受けた。

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 その後も様々な問題発言を発しながらも、トランプは共和党の指名候補争いでトップの支持率を保ち続け、ついに共和党の大統領候補になったが、トランプ人気の高まりとともに、共和党支持者の中からも反トランプの声が強くなった。しかしあれよあれよという間に、実業家出身で政治経歴のないドナルド・トランプが、元ファーストレディの民主党候補ヒラリー・クリントンを破り当選を果たし大統領に選出されてしまった。

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 ドナルド・トランプは金持ちであるが、不動産業で成り上がった成金に過ぎず、ウォール街を支配する金融大資本とは無縁だった。むしろウォール街側は、反トランプの広告に何百万ドルも使って、トランプの勝利を阻もうとしたと言われる。

 

 さらに、ニューヨークタイムズなど主要ジャーナリズムやCNNなど大手TV局といったメジャーなマスコミが、こぞってトランプ批判を繰り返した。そして大都市のインテリ層も粗雑な言動のトランプを毛嫌いし、学生など若者も反トランプのデモを展開した。表に流れる情報は、圧倒的に反トランプ一色だった。

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 しかしトランプが勝利したことで、やっとトランプ側の支持層の分析が始まった。大手のジャーナリズムは、「高校を出ていない白人」「農業や製造業といった古い産業の底辺」とし、「高卒の白人、特に男」「下流労働者で非民主的な思想の持ち主」だと分析した。しかしこれらの表層分析では、決して「トランプ人気」の源流を抉り出せなかった。

 

 2020年アメリカ合衆国大統領選挙では、コロナウイルス感染症への対策ミスなどで、土壇場で民主党バイデン候補に敗れることになるが、それでも全米で7,400万票を獲得するなどバイデンに肉薄した。これだけ根強いトランプ支持者は、どこから「湧いてきた」のだろうか。それは、いまだまともな解析がなされたとは言い難い。

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 ラストベルトと呼ばれる廃れた工業地域の労働者、いまだ進化論を認めないキリスト教原理主義福音派(evangelical)、ヒルビリーやレッドネックと呼ばれる半野蛮化した白人貧困層、これらは近代産業の進展とグローバル化の世界に置いていかれた層として、社会の底辺に沈潜していた。それらのゾンビが、トランプの「アメリカ・ファースト」に目覚めさせられたというのは、一つの視点ではなかろうか。

 

 アメリカのサブカルチャーの歴史をたどってみると、うなずけることが多い。かつてトランプ政権が誕生したときに書いたものを、下記にリンクしておく。
「トランプ現象」と「負け犬白人」たち - naniujiのブログ

 

【アメリカの歴史】19.バラク・オバマ民主党政権の8年(2009-2017)

アメリカの歴史】19.バラク・オバマ民主党政権の2期8年(2009-2017)

 

 バラク・オバマ(バラクフセインオバマ2世)は、ケニア生まれの留学生の父親と、白人系の母親との間で、ハワイ州ホノルルで誕生した。ハーバード・ロー・スクール卒業後、公民権を擁護する人権は弁護士となり、その後イリノイ州議会上院議員として政界に進出する。

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 2008年の大統領選では、当初泡沫候補視されていたが、急激に頭角をあらわし、ヒラリー・クリントンとの接戦の末に民主党の大統領候補に指名された。その勢いで、共和党候補のジョン・マケインを抑えて当選し、2009年1月ジョー・バイデン副大統領と共に第44代アメリカ合衆国大統領に就任した。

 

 オバマは初の非白人の大統領であり、初のアフリカ系アメリカ人(アフリカ系と白人との混血)の大統領となった。ただしオバマの父親は、アフリカのケニアから来たエリート留学生であり、アメリカ建国以来アフリカから輸入された黒人奴隷に直接の出自をもつものではない。

 

 オバマは大統領予備選のころから、"Change!"というキーワードを提示し、聴衆の前で ”yes we can!” と呼びかける演説で人気を獲得してきた。そして2009年1月には、全米からワシントンD.C.に集まった200万人を超える観衆の前で、大統領就任演説をおこなった。ベトナム戦争以降、数代の大統領の失政で自信を喪失した国民に対して、「米国再生」を確信させる力強い名演説を展開した。

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 オバマは就任して最初の2年間に、それまで持ち越されてきた課題を解決すべく、多くの画期的な法案に署名して法律を成立させた。「医療保険制度改革(オバマケア)」、「税制救済・失業保険再承認・雇用創出法」などは、病人・失業者など弱者に対する救済の手を差し伸べる法案として期待された。

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 また外交政策では、泥沼化したアフガニスタン紛争での処理、混乱の極みに陥ったイラク戦争後のイラク、などに対処し、リビアではカダフィ政権を打倒し、アルカイダの最高指導者オサマ・ビンラディンに死をもたらすなど、軍事アクションも示した。

 

 オバマ予備選挙でライバルとして闘ったヒラリー・ロダム・クリントン国務長官(外務大臣に相当)に起用した。ヒラリーは外交・経済・軍事・政治・法律・文化を状況に応じて組み合わせ、その場に適切で正しい手段を用いる「スマート・パワー」提唱したが、このオバマ&ヒラリーの外交は「現実主義の一形態」と規定され、イデオロギーに拘らない現実的な外交を展開するものとされた。

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 オバマ大統領は、米中関係は21世紀の運命を決める世界で最も重要な二国間関係であるとしたが、一方で中国の人権問題は許されるべきでないと述べた。しかし、この硬軟併せ持った方針は現実的で融和的な政策ではあったが、一旦有事となると具体的なアクションを起せない現実是認外交とも見られた。

 

 その弱点を露呈させたのは、「戦略的忍耐」という北朝鮮政策にみられる。2009年1月オバマの大統領就任間もなく、北朝鮮は再びミサイルの発射テストを始めたため、オバマ政権は北朝鮮の挑発的な行動に対し警告した。この時期、北朝鮮金正日書記の健康不安が進行し、核開発の実績つくりを急いでいたとみられる。

 

 2012年に金正恩体制に代わって、核実験の中断と国際原子力機関査察に合意するなど、対話姿勢を見せながらも、すぐに長距離ミサイルを発射して米朝合意を破るなど、オバマの対応を翻弄した。結局このようなオバマ政権の戦略的忍耐政策は、北朝鮮の核開発、ミサイル開発を促進してしまったとされる。

 

 オバマは、2012年アメリカ合衆国大統領選挙にも再選を賭けて出馬し、共和党候補者のミット・ロムニーと激しい選挙戦を展開したが、接戦の末に勝利を収め、アメリカ大統領に再選された。2期目のオバマ大統領は、外交実績を作るために積極的に動いた。

 

 2013年9月にイランのハサン・ロウハーニー大統領と電話で会談し、イラン革命後初めてのアメリカ合衆国・イラン両国首脳の接触となり、やがてイランの核兵器開発を大幅に制限する「イラン核合意」を成立させた。

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 また2014年12月、オバマキューバ国家評議会議長ラウル・カストロと国交正常化交渉の開始を発表し「キューバの雪解け」を演出し、2015年7月にアメリカとキューバ相互に大使館が再び開設され、1961年に断交して以来54年ぶりに国交を回復させた。

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 しかしこれらの合意は、オバマ政権の末期に当たってレジェンド造りを急いだ感が否めず、次のトランプ大統領が就任すると、中身が未成熟であるとしてことごとくひっくり返されている。

 

【アメリカの歴史】18.同時多発テロとジョージ・W・ブッシュ共和党政権(2001-2009)

アメリカの歴史】18.同時多発テロジョージ・W・ブッシュ共和党政権(2001-2009)

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 民主党ビル・クリントン大統領の任期満了にともない、2000年アメリカ合衆国大統領選挙では、共和党ジョージ・W・ブッシュ(ブッシュ・ジュニア)が、民主党の現職副大統領アル・ゴアを破って当選した。しかしこの大統領選はアメリカ合衆国史上で最も接戦となった選挙で、最終的には選挙結果をめぐり法廷闘争(ブッシュ対ゴア事件)になるほどだった。

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 共和党ジョージ・W・ブッシュ大統領は、選挙での接戦もあり支持率は当初から低かったが、就任9ヵ月後に起こった「アメリカ同時多発テロ事件」によって、一気に様相が転換する。2001年9月11日朝、同時にハイジャックされた民間航空機が、ニューヨーク市のワールド・トレードセンターの双子ビルに突入して倒壊させるなど、衝撃的なニュースが駆け巡った。

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 テロ事件でもたらされた大きな衝撃は、アメリカ国内のムードを一変させた。ウサーマ・ビン=ラーディンの率いるアルカーイダのテロリストがこのテロを仕組んだことが判明し、ブッシュ大統領が徹底した「テロへの戦い」を宣言すると、アメリカ国民から圧倒的な支持を得た。

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 ジョージ・W・ブッシュ大統領は2002年1月の一般教書演説で、イラン、イラクおよび北朝鮮を「悪の枢軸」と呼び、これらの国がテロを支援し、大量破壊兵器を得ようとしていることを糾弾した。ブッシュ政権は、イラクを支配するサダム・フセインがテロを支援し、国連停戦決議に違背し、生物兵器化学兵器核兵器といった大量破壊兵器保有しているとして批判した。

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 2003年3月17日、ブッシュ大統領サダム・フセイン大統領に対し、全面攻撃の最後通牒を行った。しかし国連の決議が得られないため「有志連合」として、イギリスなどと共に「イラクの自由作戦」と命名した作戦に則って、侵攻を開始した。侵攻作戦は順調に進み、5月1日には「大規模戦闘の終結宣言」を行ったうえで、連合国暫定当局による占領統治を行い、徐々に民主化することとした。

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 しかしブッシュ大統領が、イラク侵攻の名目とした大量破壊兵器は見つからず、イラク戦争に対し国民は懐疑的になり、アメリカ国民の支持率が同時多発テロ事件以来の最低水準に落ち込む。ブッシュはフセイン排除の目的を「人権抑圧」にすり替えたが、占領政策による民主化は一向に進まず、フセインが強圧的に統治していたイラクは、ほぼ無政状態となった。

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 2004年、ブッシュは再びアメリカ合衆国大統領選挙に立候補したが、イラクでの失政などで支持は急落しており、かろうじて過半数を得票し2回目の当選を果たした。2期目における一般教書演説では、外政に関して各国との協調路線を取ると述べたが、イランの核開発問題や北朝鮮の核問題などでは強い姿勢を示した。

 

 しかし、8月のハリケーンカトリーナによって過去最大級の犠牲者を出すと、ブッシュ政権の予防の不十分さと対応の遅れが非難の的となった。チェイニー副大統領ら政府首脳にも不祥事が明らかになり、支持率は最低レベルにまで低下した。しかも先延ばししてきたイラク大量破壊兵器の調査も、報告に誤りがあったと認め、イラク政策の責任者であったラムズフェルド国防長官を更迭することになった。

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 2008年の政権末期には、サブプライムローンに端を発した世界同時金融不況へも、効果的な対応が取れず、共和党の後継大統領候補をジョン・マケインとしたが、ブッシュの不人気が影響し、民主党候補のバラク・オバマに敗れることになった。2期目のブッシュ大統領は、これといった実績にも乏しく、多大な財政赤字を残したまま、2009年1月に任期満了で退任する。

 

【アメリカの歴史】17.冷戦終結後の世界とビル・クリントン民主党政権(1990-2001)

アメリカの歴史】17.冷戦終結後の世界とビル・クリントン民主党政権(1990-2001)

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 冷戦が終わると1990年8月、サダム・フセインイラククウェートに侵攻した。これに対し国連安全保障理事会は、イラクが即時撤退しない場合は武力行使を容認する決議を可決した。翌1991年1月、アメリカのジョージ・H・W・ブッシュ大統領は「多国籍軍」の結成を呼びかけ、1991年1月から2月にわたって戦闘を行い、クウェートイラクから解放した。

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 この「湾岸戦争」は、第二次世界大戦後初の国連決議にもとづく多国籍軍の結成であり、安保理での拒否権行使のない決議は東西冷戦の終結を象徴する出来事だった。アメリカ主体の多国籍軍は、最新の電子兵器を駆使し、その様子は刻々と世界中のテレビジョンに映し出された。あたかもPCゲームかと見まがうほどの画像を、世界中が居間にいながら観ることができた本格的な「電子戦争」でもあった。

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 1992年1月、ジョージ・H・W・ブッシュ大統領は、冷戦終結後のアジア・太平洋地域を巡る外遊を行った。日本も訪れて天皇明仁(現上皇)と会見し、宮澤喜一首相による歓迎会に出席したが、その会食で失神してしまいその様子はテレビで放映された。これでブッシュ健康不安がささやかれ、次期選挙に影を落とした。

 

 ブッシュは、湾岸戦争の勝利や北米自由貿易協定調印など外交での実績をほこり、1992年アメリカ合衆国大統領選挙に挑んだ。しかし湾岸戦争からは時間が経ち、その後の景気後退や増税はしないという公約を反故にしたことなどから、人気は凋落していた。

 

 1992年アメリカ合衆国大統領選挙では、若い民主党ビル・クリントンが勝利した。クリントンアメリカ合衆国史の中でも若く就任した大統領として、ベビーブーム世代としては初の大統領となった。

 

 ソビエト連邦が崩壊し、自由主義陣営の中心であるアメリカの勝利となったが、レーガン、ブッシュの共和党政権のもとで、アメリカ経済は「双子の赤字」(財政赤字貿易赤字)に苦しんでいた。民主党ビル・クリントン政権は、こうした経済的不況を解消することに注力した。

 

 1990年代には、ちょうどICT技術の開花期に当たり、副大統領アルバート・ゴアが提唱した「情報スーパーハイウェイ構想」など、ITC産業を積極的に後押しする事業が展開され、民間でもマイクロソフトやアップル・コンピュータなどICT企業が頭角をあらわし、1995年の「Windows95」の発売は、まさにインターネット時代の幕開けを象徴した。

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 アメリカ経済の中心を重化学工業からICTなどのハイテクに重点を移行させ、インターネット・バブルとも呼ばれた好景気をもたらす一方で、上下両院を抑えた共和党が「小さな政府」を主張するなか、共和党のお株を奪うような「財政赤字削減」に転換し、2000年には財政黒字を達成した。

 

 ビル・クリントンは、アーカンソー州知事としての地方政治経験しかなく、外交に関しては未知数だった。その外交姿勢は、場当たり的だという批判にさらされたが、幸いにも冷戦後で米ソの大国が背後にいるような大きな対立は無く、民族間の紛争が散発する程度でおさまった。

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 長年の懸案だったイスラエルアラブ諸国との対立も、1993年、和平の機運が高まる中でイスラエルのラビン首相とパレスチナ解放機構(PLO)のアラファト議長の間で、歴史的な「オスロ合意」がなされ、クリントンはその立会人となった。しかし現実には、和平反対勢力のテロの応酬や両者の衝突事件が相次ぎ、95年11月にはラビン首相が暗殺され合意は破綻、クリントンはキャンプデービットに両国代表を招いて和平交渉を仲介したが、結局は実現できなかった。

 

 アジアでは、チャイナゲートと呼ばれる中国共産党政府から選挙資金を得た疑惑もあり、親中の傾向が強く、鄧小平の開放路線を受け継いだ江沢民国家主席と強力な貿易関係をもち、一方で貿易摩擦が激化する日本には厳しい態度を取った。北朝鮮の核開発問題では、監視体制などを厳密に構築せず、結果的に北朝鮮核武装の防止に失敗した。

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 クリントンは多くの女性とスキャンダルが噂されていたが、1998年に「モニカ・ルインスキー事件」が発覚し、ホワイトハウス内で淫行が暴露されると、大統領職としての権威を大きく失墜させたと、窮地に陥ったが、妻であり政治的野心があったヒラリー・クリントンの「寛大な援護」によって、これを乗り切った。

 

【そこにはフォーククルセダーズが流れていた】

【そこにはフォーククルセダーズが流れていた】

 

フォーク・クルセダーズフォークソングブーム

*1968.2.20/ 大ヒットの「帰って来たヨッパライ」に続く第2弾として、翌2月21発売予定の「イムジン河」が、突如、発売中止される。

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 この時期のラジオ局は、「オールナイトニッポン」「セイ!ヤング」「パックインミュージック」など、各局が個性的なパーソナリティを起用してディスクジョッキー(DJ)番組を競った。この時期、団塊世代がまさに受験期にさしかかり、深夜ラジオを聴きながら机に向った。

 1967(s42)年4月から私もまた受験浪人となっていたが、深夜ラジオに投稿したりするほど熱心な方ではなかった。それでも受験生同士の話題には必須なので、それなりに聞いていた。そんなとき耳に飛び込んできたのが「帰ってきたヨッパライ」で、神戸のローカル局ラジオ関西」の放送だった。

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 こちらは京都なので電波状態がよくなく、主に「ラジオ京都(KBS京都)」に合わせることが多かったが、こちらでは同じくフォーク・クルセダーズの「イムジン河」をよく流していた。そして勉強に飽いた仲間が夜中に窓をつついて、いま何を聴いてるんだとかさぐりに来たりする。みな孤独感と不安を抱きながら、こうやってラジオを共有して安心していたのだった。

 フォーク・クルセダーズは、京都のアマチュアグループとして関西中心に活動していたが、メンバーの都合で解散を決め、その記念に自主制作盤のアルバム「ハレンチ」を制作した。そのアルバムから、関西のラジオ局のパーソナリティがピックアップして来たのが上記の曲だった。

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 1967(s42)年末ごろ、大手レコード会社からプロデビューの声が掛かり、「加藤和彦」「北山修」が新たに「はしだのりひこ」を加え、「一年間だけ」という約束で再結成して、大手レーベルから出したシングル盤「帰ってきたヨッパライ」が、いきなりミリオンセラーとなった。

https://www.youtube.com/watch?v=HgW5KUyJarw

 

 さっそく次の曲をということで、同じく「ハレンチ」から「イムジン河」を取り上げ収録した。すでに13万枚が出荷されていた発売予定日の前日、1968(s43)年2月20日になって、突如レコード会社は「政治的配慮」から発売中止を決定する。北朝鮮系の団体からクレームが付けられたのがその理由だった。

https://www.youtube.com/watch?v=-wA4wFqszpY

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 そこでまた急きょ別の曲を作れと、音楽出版社の一室に閉じ込められ、加藤和彦がギターをいじっているうちに出来上がったのが「悲しくてやりきれない」で、1968(s43)年3月21日に発売された。TV番組で「イムジン河のコードを逆にたどって出来上がった」と紹介されたこともあったが、加藤和彦自身は、ギターでいろいろ遊んでただけと言っている。

「悲しくてやりきれない」 

https://www.youtube.com/watch?v=jr49g9dvZBY

 

 フォーク・クルセダーズは、そのあと矢継ぎ早にヒットを連発し、1968(s43)年10月17日、大阪でのさよならコンサートの末、一年という約束通りに解散した。フォークルが日本のフォーク史に残した足跡は大きく、各メンバーはその後も音楽に関わったので、解散後にも大きな影響を及ぼしている。

 なお、一連の日本のフォークブームについては、下記ブログでまとめた。

「日本のフォークブーム」 https://naniuji.hatenablog.com/entry/20180930

 

(2021.12.07追記)

「悲しくてやりきれない 」ザ・フォーク・クルセダーズ https://www.youtube.com/watch?v=kP4oluZmjzA

 

 夜中に酒をのんで過去の想いにふけって、この曲を思い出した。1968年春、大学に入学し、4月から神戸の青谷というところに下宿した。三畳ひと間に押し入れのみという部屋だったが、それなりに生活できた。

 入学当初、あれこれ張り切って動き回ったが、やがていわゆる五月病というのにはまり込み、夜になってひとりになるとホームシックな気分に落ち込んだ。下宿のすぐ向かいにある川べりの小公園で、ひとりこの曲を口ずさんでいた。

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 受験などバタバタしている時期に、「イムジン河」の発売中止騒ぎがあったが、当時はなぜ中止されたかよく分からなかった。急きょ代わりの曲を作れと、レコード会社に缶詰めにされた加藤和彦が、ギターコードをいじっているうちにできあがったのが「悲しくてやりきれない」だそうだ。

 そのままディレクターが、当時著名の作詞家サトーハチローのもとに走って、詩を付けてもらい出来上がったという。「かな~しくってかな~しくって」と、ひたすら哀切でペシミスティックなリフレインが続き、加藤和彦自身、歌っていてどうかなと思ったそうだが、いざレコードとして発売後ヒットすると、曲に馴染んだ詩だと納得したそうだ。

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 実際「雲を眺めて涙ぐむ」などと、理由もない哀しさというのは、口ずさみながらもいささか恥ずかしい気がする。ただ、思春期の悲しみというものは、このように理由もなく孤独感におそわれれるものであり、下宿を始めて2ヵ月ほど過ぎた時期に、ホームシックな感傷におそわれ、この曲にドップリひたったというわけだった(笑)

 

(2021.12.08追記2)

さらにフォークルついでに、自分の精神的転機の時期に脳裏に刻まれた記憶を記す。

 

「戦争は知らない / フォーク・クルセダーズ」 https://www.youtube.com/watch?v=79Ld-CdgVeg&list=RD79Ld-CdgVeg&start_radio=1&t=12

 

 この曲は、寺山修司が作詞して、ラテン歌手坂本スミ子が歌ったが、シングルのB面でまったくヒットしなかった。ところが、同時期にフォーククルセダーズが、グループ解散記念にと自費プレスした「帰って来たヨッパライ」が、ラジオ放送を通じて偶発的に大ヒット。

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 一年きりのプロ活動ということで、再結成してプロデビューした加藤・北山・端田の新クルセダーズは、「イムジン河」の発売中止などのアクシデントに見舞われながら、次々とヒットを飛ばした。そんな中で、独自の感性で加藤和彦が掘り起こしてきたのが、この「戦争は知らない」だった。 


 本来は寺山修司が、太平洋戦争に出征して戦病死した自分の父親をしのんで書いた詩だが、当時ヴェトナム戦争の最中で、アメリカから反戦歌が幾つも流れてくる状況下で、この歌も反戦フォークとして受け容れられた。露骨な反戦詩ではなく、名前も知らない野に咲く花に託して、父を亡くして20年後にお嫁に行く娘が、父に新たに別れを告げる詩になっていて、歌人寺山独自の抒情が、切なく訴えてくる。


 私自身はこの時期、大学に入学したものの、夏休みの帰省中に二度目の鬱病に落ち込んで下宿は引き払い、10月ごろからやっと学校に通い始めたとたんに学園紛争で大学封鎖、翌春になっても一向に封鎖解除される気配がなかった。仏教思想などに耽って、何とか鬱を克服、漠然と郷愁を感じて、奈良西ノ京などを徘徊していた。

 写真家入江泰吉の「大和路」風景などにある、菜の花畑を通して観る薬師寺の塔の光景など、そっくりの位置を見つけて、下手くそなスケッチをしたりしたものであった。最悪の時期は通り越して、少しづつ光が見えてきたが、これからの方向性も見つけられず、将来に自信が持てない不安定な時期、春の明るい景色の中に、かすかなもの悲しさを感じた心象風景に、この「戦争は知らない」の曲が重なって記憶に埋め込まれている。

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『戦争は知らない』 【作詞】寺山修司 【作曲】加藤ヒロシ

 

野に咲く花の 名前は知らない

だけども野に咲く 花が好き

ぼうしにいっぱい つみゆけば

なぜか涙が 涙が出るの

 

戦争の日を 何も知らない

だけど私に 父はいない

父を想えば あヽ荒野に

赤い夕陽が 夕陽が沈む

 

いくさで死んだ 悲しい父さん

私はあなたの 娘です

二十年後の この故郷で

明日お嫁に お嫁に行くの

 

見ていて下さい はるかな父さん

いわし雲とぶ 空の下

いくさ知らずに 二十才になって

嫁いで母に 母になるの