【18th Century Chronicle 1746-50年】

【18th Century Chronicle 1746-50年】
 

加賀騒動

*1746.7.2/加賀 加賀藩で財政改革に手腕を発揮した大槻伝蔵が、保守派の反撃で失脚し蟄居閉門となる。(加賀騒動
 

 「加賀騒動」は、延享3(1746)年に加賀藩で起こったお家騒動で、「黒田騒動(1632)」や「伊達騒動(1671)」とともに江戸時代の三大お家騒動と呼ばれる。
 


 講談などで巷間に広まった物語では、足軽出の御居間坊主に過ぎなかった「大槻伝蔵(朝元)」が、藩主前田吉徳の側近として取り立てられて破格の出世を果し、やがて吉徳の側室真如院(お貞)との密通で生まれた子を跡継にしようと、藩主や世子を毒殺してお家乗っ取りを図った大悪人として描かれる。

 しかし事実はかなり異なっており、不明な部分の方が多く、異例の出世をした大槻伝蔵を恨んで、門閥派の重臣前田直躬など守旧派が仕掛けた冤罪だとする説もある。
 


 外様の雄の加賀藩であったが、その100万石の家格を維持するための出費の増大で、元禄期以降、藩の財政は破綻に瀕していた。享保8(1723)年、前田吉徳が第六代藩主となると、より強固な藩主独裁を目指した。足軽の三男で御居間坊主にすぎなかった大槻伝蔵を側近として抜擢し、藩の財政改革に着手させた。

 大槻伝蔵は、藩財政の悪化を食い止めた功績で吉徳に厚遇され、最後には3800石に加増され家老格にまで上り詰めた。一方で藩内の門閥層や保守派は、伝蔵を成り上り者として、その出世を妬まれ憎まれていた。重臣の代表格前田土佐守直躬ら保守派家臣たちは、吉徳の世子前田宗辰を恃みとし、伝蔵を非難する弾劾状を差出すなどした。
 

 延享2(1745)年6月、藩主吉徳が病死し前田宗辰が第七代藩主となると、前田直躬門閥派の反撃が始まる。その翌年、大槻伝蔵は「吉徳に対する看病不充分」という曖昧な理由で、宗辰から蟄居を命ぜられ、さらに延享5(1748)年には禄を没収、越中五箇山に配流とされた。

 だが事はこれで終わらなかった。宗辰は藩主の座になって1年余りで病死し、次男で異母弟の前田重煕が第八代藩主を継いだ。そんな中で延享5(1748)年、加賀藩江戸藩邸において、藩主重煕と、前藩主宗辰の生母である浄珠院を狙った毒殺未遂事件が起こる。その主犯は吉徳の側室だった真如院(お貞)であり、さらに真如院は伝蔵と不義密通していたとされた。真如院は身柄を拘束され、このことを五箇山で聞いた伝蔵は自害する。

 

 真如院は、奥女中の浅尾に毒殺を実行させた疑いで拘束され、家来に自らを殺させて事実上の自害、浅尾も殺害された。前田直躬らによる大槻伝蔵一派や真如院の産んだ子女に対する苛酷な追求は、宝暦4(1754)年まで続き、この一連の騒動は「加賀騒動」と呼ばれるようになる。

 しかし実際には、真如院が主犯であったことを裏付ける証拠はなく、大槻伝蔵とつるんでお家簒奪を図ったなどという根拠は見られない。浅尾の自白なども、当時の拷問が当然であった世界では信憑性が担保されているわけではない。黒田騒動伊達騒動では幕府が介入したが、加賀騒動に幕府が感知した痕跡はなく、事実だとして文献等で残されているものは、大槻一派を一掃した門閥派側からの一方的なものだけであった。
 

 人口に膾炙した「加賀騒動」では、大槻伝蔵をお家乗っ取りを狙う大悪人として描き、当時の倫理観に沿った「勧善懲悪」の物語として受け入れられた。さらには、また浅尾に対する刑では、穴蔵に浅尾を裸にして押込め数百匹の毒蛇に襲わせるというグロテスクな話に仕立て上げられるなど、庶民受けする大仰な話として展開された。


 近年の研究では、大槻伝蔵や真如院が陰謀を企てたという事件性は薄く、守旧派前田直躬らが大槻派を一掃するためにでっち上げたものだという説が主流である。近年の村上元三による小説「加賀騒動」では、足軽出自の有能な大槻伝蔵が、藩主に一生懸命仕えて身を立てたにも拘らず、悲しい運命を迎えてしまった物語として描かれた。また、それをもとに制作された1953年東映映画「加賀騒動」では、御家乗っ取り犯として切腹を命じられた伝蔵が、逆臣の汚名を拒み無念の斬り死にをするという最後を、大友柳太郎が演じた。

 

村上元三作「加賀騒動」  https://www.kobunsha.com/shelf/book/isbn/9784334772031
東映映画「加賀騒動」   http://www2u.biglobe.ne.jp/~kazu60/orm5/orm53.htm
 
 

(この時期の出来事)

*1746.8.21/大坂 武田出雲ら合作による人形浄瑠璃「菅原伝授手習鑑」が竹本座で初演され、大ヒット。さらに「義経千本桜」「仮名手本忠臣蔵」と時代物大作が続き、菅原ブームとなる。

*1746.9.15/江戸 幕府は田安宗武・一橋宗伊に10万石を付与、「田安家」・「一橋家」に「清水家」を加え「御三卿」と呼ばれ、秀次由来の「御三家」に代わって、吉宗系譜の血筋が徳川家主流となる。

*1746.10.25/江戸 幕府は、本田正珍を老中に、大岡忠光を御側御用取次に任命し、将軍家重のもとでの側近政治が復活する。

*1747.1.-/京都 盗賊浜島庄兵衛(日本左衛門)が、京都奉行所に自首する。神出鬼没の怪盗として幕府の手を焼かせた。のちに歌舞伎「白浪五人男」の日本駄右衛門のモデルとなる。

*1747.11.16/大坂 武田出雲らによる人形浄瑠璃義経千本桜」が竹本座で初演され、大当たり。

*1748.2.12/越前 福井藩で45ヵ村の農民が、御用金の重課に反対し、打ち毀しを行う。

*1748.6.1/江戸 将軍家重が、江戸城朝鮮通信使と引見する。

*1748.閏10.1/江戸 寺社奉行大岡忠相奏者番兼任となり、4080石を加増され1万石の大名となる。

*1749.1.15/播磨 姫路藩領内加古郡の農民が、凶作のため減免延納を求め大庄屋宅を打ち毀す。

*1749.12.24/陸奥 会津藩で、種米貸し付けの返済をめぐり、農民が郡代の罷免を要求、若松城を包囲する。

*1749.-.-/江戸 歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」が江戸三座で競演、人気を博する。

*1750.1.20/ 幕府は、農民が年貢減免などを要求して強訴・徒党・逃散することを厳禁する。

*1750.7.19/甲斐 山梨・八代郡の農民2万人が、新たな運上金に反対して名主宅を打ち毀す。(米倉騒動)