『Get Back! 20’s / 1929年(s04)』

『Get Back! 20's / 1929年(s04)』
 
【政治と事件】
○1.25 衆議院予算委員会民政党中野正剛が、満州某重大事件(張作霖爆殺事件)について田中首相に真相の解明を迫る。
○3.5 旧労農党の代議士山本宣治が、右翼に刺殺される。
○4.16 共産党員が全国で大量検挙される。市川正一、鍋山貞親らの幹部も6月までに検挙され、党組織は壊滅的打撃を受ける。(四・一六事件)
○7.1 政府が張作霖爆殺事件の責任者の処分を発表。陸軍の悦力で河本大作大佐は停職処分にととまる。
○7.2 田中内閣が総辞職する。民政党浜口雄幸が組閣。第2次幣原外交、井上財政を展開する。


 金融恐慌で倒れた若槻内閣の後を受けた政友会田中義一内閣は、3度にわたる山東出兵を行ったが軍部が望んだ成果は上がらず、英米との軍事衝突を危惧した田中が関東軍の投入をも見送ったことで、中途半端な対応に軍部の不満は高まっていた。そんな中で関東軍は、若手将校によって奉天郊外で張作霖爆殺事件を引き起こす。

 政府は「満州某重大事件」として隠蔽するとともに、事件の真相究明を躊躇した。やがて、関東軍参謀河本大作大佐らが主導したとの事実を知ったが、田中は軍に遠慮し首謀者を軽微な処分で済ませることになった。その曖昧な態度は昭和天皇を激怒させ、天皇の信頼を失った田中内閣は総辞職に追い込まれた。


 このような政情不安定な状況下で、民間の右翼結社の活動は活発化し、他方で官憲による共産主義者弾圧も強化されてゆく。3月5日、治安維持法改正に反対する労農党代議士山本宣治が、右翼団体「七生義団」の黒田保久二に刺殺された。山本は第1回普通選挙で労農党から立候補し当選、帝国議会では治安維持法改正に反対した。この日、衆議院で反対演説をする予定だったが、与党に強行採決で可決され、その夜、暗殺された。


 山本宣治は、京都街中の「かんざし屋」の息子として生まれ、敬虔なクリスチャンの両親に厳粛なキリスト教主義の下で育てられた。両親が身体虚弱の彼の養育のため建てた、平等院奥の宇治川畔の別荘で育ったが、この別荘は、後に料理旅館「花やしき浮舟園」として山本宣治が当主となり、現在も引き継がれ営業されている。
花やしき浮舟園 > http://www.ukifune-en.co.jp/history.html

 カナダでの修業時代を経て、東京帝大理学部動物学科を卒業すると、生物学者として京都帝大などで教鞭を執った。宣治は科学者としての立場から、性教育の普及と産児制限の必要性を確信するにいたり、各地で講演や啓蒙活動を行う中で、左翼系の社会運動との関わりをも強めて行った。

 4月16日、全国にわたって、共産党員の一斉検挙が行われた。一連の検挙は「四・一六事件」と呼ばれる。さらに検挙は続き、1929年合計では5000人もの共産党員が治安維持法違反で逮捕された。前年に起きた「三・一五事件」での逮捕を免れて、党の再建を企んでいた市川正一、鍋山貞親らの幹部も逮捕され、非合法下の共産党はほぼ壊滅させられた。

 このような流れはさらに進み、ますます政党内閣や議会政治は弱体化が進み、軍国主義へと突き進むことになる。
 

小林一三阪急電鉄

○4.15 [大阪] 梅田に阪急電鉄経営の初の本格的ターミナルデパート「阪急百貨店」が誕生する。


 従来のいわゆる老舗百貨店は、江戸時代からの呉服店など「暖簾(のれん)」を誇り、旧市街の中心地に大店舗を展開するのが常識だった。そこへ、阪急電鉄の総帥小林一三は、大阪梅田駅の新ターミナルビル竣工に合わせて、「阪急百貨店」を開店させた。鉄道会社が百貨店を経営する事例は海外にもなく、疑問の声に対しては「便利な場所なら暖簾がなくとも客は集まる」と言って、「ターミナル・デパート」というカテゴリーを作り出した。

 小林一三山梨県に生まれ、福澤諭吉塾長の慶應義塾に学び、三井銀行東京本店に勤務するなど、本来関西に無縁だったが、大阪北浜で銀行を立ち上げた岩下清周に誘われ大阪へ赴任。当初の目的であった証券会社設立の話は立ち消えになったが、たまたま行き詰っていた「箕面有馬電気鉄道」の話を聞き、岩下から資金を調達すると、1907年(明治40年)「箕面有馬電気軌道」と社名を改め、小林は同社の専務として経営の実権を握る。


 しかし当時は何もない野山に線路を通すわけで、わずかな観光客以外は乗客も期待できない。小林は、乗客がないならば乗客が住む街を作ればよいと、沿線に宅地を開発し、大阪へ通うサラリーマンでも購入できるようにと、まだ珍しい割賦販売などをも取り入れた。山地を低価格で買収し付加価値を付けて分譲するという技は、線路をもつ鉄道会社ならではの発想、この手法は、関東の東急の五島慶太西武鉄道堤康次郎などが丸ごとまねして、私鉄事業の基本的な事業展開となった。

 鉄道を「線」としてではなく、その沿線を含めて「面」と捉え、その面にアメニティを創出することで、さらなる事業収入を拡大する小林の発想は画期的であった。沿線宅地の開発分譲だけではなく、宝塚には宝塚歌劇団劇場や遊園地という娯楽施設を開設、さらには六甲山ホテルの開業でホテル事業も展開、プロ野球球団阪急ブレーブスをも創設し、その極め付けとしてのターミナルデパート阪急百貨店であった。阪急沿線の分譲地に住まった住民は、その沿線で生活を完結させてしまうことができた。


 大正の初めの有名なキャッチコピー「今日は帝劇、明日は三越」は、帝劇の開設時に配布されたプログラムに掲載された三越の広告に添えられたものであった。これは「大正ロマン」の時代を彷彿とさせるが、このコピー対象とされたのは「山の手有閑マダム」であろう。

 一方、阪急百貨店が誕生した昭和の初めは「昭和モダン」と呼ばれ、「モガ・モボ(モダンガール・モダンボーイ)」が街中を闊歩する時代、若い男女がファッションリーダーとして登場する。若い彼・彼女は、今でもファッションセンスに定評のある阪急百貨店でショッピングをし、宝塚大歌劇場でレビューを楽しむという姿が想像される。
 

【昭和モダン】

○1.- 勅使河原蒼風が日用雑器を花器とし、伝統的な約束事に縛られない新しい生け花を雑誌「主婦之友」に発表。草月流に話題が集まる。

 まだ二十代後半の勅使河原蒼風は、従来の伝統的な手法を無視した、自由な作風の「草月流いけばな」を創始した。伝統的な華道界からは異端視されたが、生け花を西洋彫刻に相当する造形芸術とすることを目指し、欧州のジャポニズムの追い風にも乗って、欧米でアートとして評価された。

○4.15 [大阪] 梅田に阪急電鉄経営の初の本格的ターミナルデパート「阪急百貨店」が誕生する。
 (別項で既述)

○5.1 「東京行進曲」のレコードが日本ビクターから発売される。

 菊池寛の小説を映画化した溝口健二の『東京行進曲』は無声映画であったが、その映画とタイアップして、主題歌のレコードが映画公開に先行して発売された。映画のシーンとともに、モボ・モガが行き交う昭和初期の開放的な銀座の風俗が歌われ、「シネマ見ましょか お茶飲みましょか いっそ小田急で逃げましょか」という歌詞は一世を風靡する。
  ▽「東京行進曲」> https://www.youtube.com/watch?v=gY9u5FPyAis

○5.1 [東京] 1871年から続いた大砲による「正午のドン」が、サイレンに変わる。

 時計が一般民間に普及しない明治期に、皇居の大砲で空砲を打ち正午を知らせたことに始まり、全国の大都市を中心に午砲台(所)が設置された。漱石の『猫』にも「午砲[ドン]」と当て字して登場する。ちなみに土曜日の半休日を「半ドン」と呼んだのも、このドンに由来する。
 その庶民の耳になじんだドンが、サイレンの電気音声に切換えられた。牧歌的な空砲音が、救急信号を思わせるサイレン音に変わったことは、その後の軍国主義を暗示していたのかも知れない。サイレンという名称は、古代ギリシャ神話に登場する、航行中の船の乗組員を美声で誘惑、難破させる半人半鳥の精、セイレーンが語源であるとされる。

○5.9 [東京] 米国の本格的なトーキー映画「進軍」「南海の唄」が、新宿武蔵野館などで封切られる。

 それまでの無声映画サイレント映画)では、「活弁」と呼ばれた活動弁士が、映画面の解説やセリフを代行して観客をリードし、舞台脇ではバイオリンや三味線という和洋折衷の簡易楽隊がBGMとしてシーンの情感を醸し出した。
 トーキー(talkie)は、 talking picture から派生した語で、自ら話をする映画、つまり映像と音声が同期した映画のことで、画期的な仕組みであった。映写フィルムの脇に、音声を光波に変換した信号を焼き込んだもので、再生時に映像と音声がずれることが無くなった。日本ではトーキーの普及に時間がかかったが、一方で不要になった活弁や楽士が一斉解雇されて争議が引き起こされたりもした。
  ▽「無声映画活弁」> https://www.youtube.com/watch?v=FeGc_X4OmDc


○7.10 「東京」 浅草で「カジノ・フォーリー」が発足。10月の第2次発足後、榎本健一エノケン)の歌と踊りが人気を呼ぶ。

 「カジノ・フオーリー」は、フランス流のレヴュー(演芸)形式の軽演劇の喜劇団で、浅草の浅草水族館2階「余興場」を本拠地として旗揚げした。第1次カジノ・フォーリーは解散したが、再度、榎本健一を代表に第2次カジノ・フォーリーが発足すると、川端康成武田麟太郎堀辰雄という文学者の関心を呼ぶなどして評判を呼んだ。
 基本的には、エノケン特有の歌と踊りをたっぷり含んだドタバタ喜劇であったが、昭和初年の「エロ・グロ・ナンセンス」の時代風潮を踏まえて、時代を風刺するギャグが人気を呼び、やがてエノケンは日本の喜劇王としての地位を確保してゆく。
 

 以上のように、この年の大衆文化関連の事象を羅列してみたが、これだけでも「昭和モダン」と呼ばれた時代の雰囲気は感じられる。大正期も「大正デモクラシー」や「大正ロマン」と呼ばれて、大衆文化が花開いたとされるが、結果的にデモクラシーは根付かずやがて軍事弾圧の時代を迎える。また自由闊達な大衆文化を担うブルジョワジー層も未成熟で、戦争成金であったり政商としてのし上がった層などが、その代替をしていたとも言える。

 大正ロマンを象徴した「今日は帝劇、明日は三越」という有名なコピーの対象は、そのような成金の有閑夫人やその令嬢であったりする。しかしそのような享楽文化をささえた状況は、関東大震災や相次ぐ戦後不況、金融不況によって瓦解する。震災によって崩壊した東京は、やがて再建が始まるが、そこでは「文化住宅」と呼ばれる和洋折衷の木造住宅が多く建造され、旧家は没落していった。

 他方、関西には、震災から避難した文化人たちが多く転居し、小林一三らが敷設した鉄道網の利便性とも相まって、芦屋市に代表される阪神間山手を中心に展開された「阪神間モダニズム」は、さらに深化されていった。(谷崎潤一郎は震災で関西に移転し、没落してゆく大阪船場の旧家姉妹をヒロインに『細雪(さざめゆき)』を書いた) 関東でも、震災前から構想された田園都市「田園調布」が、東急沿線に実現してゆく。

 「東京行進曲」の「シネマ見ましょか お茶飲みましょか いっそ小田急で逃げましょか」という歌詞が、象徴的に登場する。「小田急(おだきゅ)る」という言葉が流行ったというが、いわゆる「駆け落ち」することで、この歌を担ったのは、決して有閑マダムや令嬢ではなく、モガ・モボと称された若い男女であろう。彼らの背景にはサラリーマンらの中流階級の勃興を見ることが出来る。本物の大衆文化の気配が萌してきたわけであるが、それはやがて軍国主義下に消えてゆくことになる。
 

世界大恐慌

○10.24 [ニューヨーク] 株式市場が大暴落。世界恐慌が始まる。(暗黒の木曜日

 1929年10月24日木曜日、ニューヨーク・ウォール街証券取引所で株価が大暴落、翌日からの数日間も大幅な暴落を繰り返した。大暴落の最初の日が木曜日だったため、「暗黒の木曜日(Black Thursday)」と呼ばれるようになる。突然の暴落で投資家はパニックに陥り、様々な地域・分野から資金を引き上げ始め、その影響はアメリカ経済全般に拡大した。そして第一次大戦後、アメリカ経済は欧州に代って世界経済の中心になりつつあり、アメリカに依存していた各国経済も連鎖的に破綻してゆくことになる。

 第一次世界大戦中、戦場となったヨーロッパ諸国に代って、膨大な物資や資金を供給し、アメリカは世界経済の中心となると、戦争後も活発な重工業の投資やモータリゼーションの開始による自動車工業の発展、帰還兵による消費の拡張などにより盛況を極め「永遠の繁栄」と呼ばれていた。

 やがてヨーロッパ経済が復興してくると、対欧輸出の停滞からアメリカの農業生産物や工業製品などにも過剰生産が蓄積しつつあった。一方で株式市場には、産業界に投資されずだぶついた資金が投機的に流れ込んで、一時的なバブル状況を呈していた。ただバブルははじけた時にそれと分かるもので、さ中にあった投資家たちは憑かれたように投機に走ったのであった。

 当時の共和党フーバー大統領は「株価暴落は経済のしっぽであり、ファンダメンタルズが健全で生産活動はしっかり行われている」と発言しパニックの収集を図った。たとえ事実状況はそうであっても、一旦破裂したパニックは連鎖拡大し、状況そのものを変えていってしまうので、あらゆる対応が「(事後的に見れば)すでに遅い」ことになってしまう。

 フーバー大統領は有効な経済対策が取れず、代って政権に就いた民主党フランクリン・ルーズベルト大統領は、修正資本主義に基づいたニューディール政策を掲げて、テネシー川流域開発公社(TVA)を設立するなど、失業者の吸収と消費購買力の向上を図った。これらは、英国の経済学者ジョン・メイナード・ケインズのアドバイスにそった最初のケインジアン政策でもあったが、政策としては不徹底であった。

 ニューディール政策が大不況の克服にどれだけ効果があったかは、評価が分かれる。そして、アメリカ経済が本格的に回復するのは、その後の第二次世界大戦参戦による莫大な軍需需要のおかげであったといわれる。「有効需要の創出のためには、ドブに棄ててもよいから金を使え」というケインズ風の考え方は、皮肉にも、膨大な人と金をドブに捨てるような大戦争によって実証されたというわけだった。
 

*この年
マージャンが上流社会で人気/見切り・均一・蔵払いなどの名で特売が日常化/松内則三のスポーツ実況中継「夕やみ迫る神宮球場、カラスが2羽3羽……」の名調子が人気
【事物】ターミナルデパート/国産ウィスキー/トーキー映画/正午サイレン
【流行語】緊縮/ステッキガール/大学は出たけれど/カジノ/国産品愛用
【歌】紅屋の娘(佐藤千夜子)/浪花小唄(二村定一・佐藤二三吉)
【映画】灰燼(村田実)/紐育の波止場(米)
【本】改造社改造文庫」刊行開始/島崎藤村「夜明け前」連載開始(中央公論)/三省堂「コンサイス英和辞典」/大学書林「語学四週間叢書」/雑誌「改造」の懸賞文芸評論に宮本顕治「敗北の文学」が当選。2等は小林秀雄の「様々なる意匠」