【洛中・洛外】

【洛中・洛外】
 

 ≪図1≫
 西暦794年に都とされた「平安京」は、南北5.2km、東西4.5kmの長方形に区画された都城であった。北は一条通から南の九条通、東は東京極大路から西の西京極大路で区切られ、京内は東西南北に走る大路・小路によって碁盤の目のように条坊に分けられた。

 東西の中央部北端に内裏が設けられ、真南に向けて朱雀大路が通された。朱雀大路で分けられた東半分は「左京(東の京)」、西半分が「右京(西の京)」と呼ばれた(内裏から南方向を見ての左右だから、地図上では逆になる)。
 

 ≪図2≫
 平安京は、隋・唐の長安城に倣って造営されたが、右京は桂川流域の低湿地帯が多くをしめ、早くから廃れたという。鎌倉時代の文献には、左京を漢帝国の都「洛陽」に擬え、右京を隋・唐の都「長安」と呼んだと記されている。

 右京が廃れたことから、左京が実質的な市街地として残り、市内のことを洛陽の「洛中(らくちゅう)」と呼ぶようになった。その外側は辺土であり、後には「洛外(らくがい)」と呼ばれたとされる。
 

 したがって、京以外の土地から、天皇の住まう京の都に向うことは「上洛」と呼ばれた。たとえ江戸時代においても、将軍が江戸から京に行く場合は「上洛」と言ったのである。

 豊臣秀吉の時代には、すでに左京が実質的な京の町となっており、秀吉が「御土居」で囲った地域は、ほぼ左京に重なる。ゆえに「洛中」という言葉が、名実ともに京都の市街地を指すことになった。
 

 ≪図3≫
 御土居の周囲には、京から各地に向かう街道への出入口があり、「京の七口」などと呼ばれる。最も有名なのが東海道の出口で、三条大橋から東に蹴上(けあげ)方面に向かうあたりの「粟田口」。北方面には、丹波から山陰に向かう「長坂口」、鞍馬街道への「鞍馬口」、大原から鯖街道などを経て若狭・北陸方面に向かう「大原口」。

 南には、かつて羅城門があり平安京の南の出口であった「東寺口」があり、今は大阪へ向かう国道一号線の出口になっている。ほかにも、鳥羽伏見の戦いでせめぎ合いとなった「鳥羽口」「伏見口」「竹田口」、今も地名として残っている「荒神口」「丹波口」など、実際には七つを超える。
 

 江戸時代半ばごろから、京の町は鴨川を越えて東に発展し、やがて東山にせき止められる。明治になるとやっと、東には広がれないので、かつて寂れた右京方面に向った。それまでは、京の町は東へ東へと移動していった。たとえば、今の京都の中心街には、寺町通りや新京極通りという南北に走る商店街がある。新京極自体は明治の初めに京都振興のために作られたものであるが、その名前は京の極まり、すなわち京の端を意味し、かつての平安京の東の端を区画する「東京極大路」の通っていたあたりなのである。

 一方、「西京極大路」は、JR花園駅と阪急西京極駅を南北に結ぶあたりにあった。西京極は、野球場や総合球技場などが集まった京都市のスポーツ公園となっている。つまり、かつてはそれだけのスペースのあった僻地だったということを示す。
 

 ≪図4≫
 京の町が東へ移動していったように、京都人は歳を経るにしたがって東へ移ってゆくという笑話がある。私たちは、中学高校生のとき、繁華街に出る時には「寺町・新京極」より東へ行くなと言われたものだ。京都に来た修学旅行生にも、そのような指示があるともいう。そのせいで新京極商店街は、修学旅行生向けのちゃちな土産物を売る店ばかりが増えて、京都人があまり行かなくなった時期もあったようだ。

 京都の街は、東へ向かうに従って「大人の街」になってゆく。中高生はこの辺りで、遊んでいろと言うことで、それ以上の若者は、京都のメインストリート「河原町通り」でショッピングやファッション・外食を楽しむ。そして二十歳を過ぎて成人すると、「木屋町通り」辺りを徘徊して、グループコンパなどアルコールを含む飲食で楽しむ。
 

 年配となってゆとりができると、鴨川を越えて「祇園町」方面に向かう。この辺り一帯には、高級クラブやスナックなどの高級飲食店がびっしりと並び、もちろん芸妓・舞妓はんにお出ましいただいて「お茶屋遊び」もできるわけだ。そしていよいよ寿命が
がきわまりあの世に逝くことになると、「東山」の寺院の墓地の世話になるのである(笑)