【日本のフォークブーム】

【日本のフォークブーム(第一次・60'後半〜70'初め】
 

 日本でのフォークソングは、戦後のアメリカン・フォークの強い影響下で始まった。アメリカでは、民衆の間で親しまれた民謡やカントリー&ウェスタンの系譜をもつ曲を、独自に編曲して自演するミュージシャンが現れた。そんな中で、60年代の黒人公民権運動やベトナム戦争を背景に、メッセージ性の強いオリジナルなプロテストソングを歌う、シンガーやグループが登場する。
 

 ピート・シーガーらがリードし、やがて、キングストン・トリオ、ボブ・ディラン、ピーター・ポール&マリー、ブラザーズ・フォアなど数多くのアーティストが登場し、全米に広がっていった。これらの影響が日本にも波及し、当初は日本語に翻訳したものを、既存のポップ歌手がテレビで歌うなどして、一般に普及したが、一方で直接に原曲の影響を受けたミュージシャンが、原語で歌い、かつまたオリジナルの曲を、ローカルな局面で演奏し、より深く浸透していった。
 

 60年代半ばには、ロックバンド風のグループ・サウンズがブームとなり、フォークグループもそれらに入り混じる形でステージに立った。実際、フォークロックと呼ばれるスタイルはGSと区分しがたいところがあった。やがて60年代末にグループサウンズが下火となると、代わってフォークソングが前面に出てくることになる。

「受験生ブルース/高石ともや
https://www.youtube.com/watch?v=cCxIuxGdi24


 GS全盛期に並行して、アマチュアのフォークシンガーやフォークグループが各地で活動し出していたが、彼らは商業ベースに乗るのを嫌ったため、単独ライブやフォークコンサートなどでの活動が主であった。そんな中で、メッセージ性の強いプロテストソングを歌い、関西を地盤として活動していた「関西フォーク」と呼ばれる一団が頭角を現し、岡林信康高田渡加川良高石ともや等が評判となった。

「山谷ブルース/岡林信康
https://www.youtube.com/watch?v=2AMZVkzVryg 


 関西フォークのメンバーが中心になって、1967年から「関西フォークキャンプ」と呼ばれる自主企画の野外コンサートが4回に渡って開催された。これらは小規模なものであったが、口コミで聞き付けた他のフォークシンガーたちも多く参加した。これらをうけて、全国規模の野外フェスティバルが企画され、1969年から1971年にかけて3回に渡り、「中津川フォークジャンボリー」と呼ばれる大規模コンサートが開かれ、フォークステージは大きな盛り上がりを見せた。
 

 第1回のフォークジャンボリーは、1969年8月9-10日、岐阜県の現中津川市で、2000〜3000人の観衆を集めて開催されたが、あのウッドストック・フェスティバルより一週間先行して開催されたことは特筆すべきであろう。都合3回開かれたフォークジャンボリーには、前述の関西フォーク系だけではなく、五つの赤い風船遠藤賢司、上条恒彦、つのだひろ、浅川マキ、六文銭なぎら健壱あがた森魚かまやつひろしカルメン・マキ、ガロ、長谷川きよし山本コータロー吉田拓郎など、より幅の広いそうそうたるメンバーが顔を連ねた。


全日本フォークジャンボリー記録映像」
https://www.youtube.com/watch?v=v1jqnvNkT_w 
 

 フォークソングの局面を大きく変えたのは、やはりフォーククルセダーズの登場だろう。当初、純粋にフォークを楽しむアマチュアグループとして活動していた「フォーク・クルセイダーズ」は、1967年の第一回関西フォークキャンプに参加した上で解散することを決めていた。解散記念にと、「ハレンチ」と名付けたアルバム300枚を自主プレスしたが、それがたまたま、ラジオ関西(神戸)やラジオ京都(現KBS)のDJ番組で取り上げられた。

帰って来たヨッパライ/フォーク・クルセダーズ
https://www.youtube.com/watch?v=HgW5KUyJarw
 

 アルバム「ハレンチ」収録の「帰ってきたヨッパライ」は、そのユニークな構成やコミカルな歌詞で、深夜ラジオを聴く受験生らを中心に、一気に話題になった。急遽メジャーレーベルからプロデビューの声がかかり、加藤和彦北山修の二人は、京都のフォークステージで先輩格の端田宣彦(はしだのりひこ)に声をかけ、1967年末に三人で新「フォーク・クルセダーズ」としてプロデビューした。
 

 各自学業をかかえており、最初から一年限りという約束でのプロ活動だったが、次々とヒットを飛ばし、テレビなどの出演もいとわなかった。商業主義と言われようが、一年限りというお気楽な感覚で、自分たちが歌いたい曲を歌うというスタンスを貫いた。そんな姿勢は、解散後もはしだのりひこ杉田二郎らに引き継がれ、次々と新グループが結成された。
 

 70年代にかけて、ビリーバンバントワ・エ・モワ、赤い鳥、ガロ、かぐや姫海援隊などのグループやコンビが次々に登場、プロテスト色は背景に退き、大手プロダクションや大手レコード会社によるプロデュースも関わり、商業ベースでテレビ露出の多いタレントが活躍するようになった。

 
「結婚しようよ/吉田拓郎
https://www.youtube.com/watch?v=jJvnAL0L-oI

 その中で、ソロ活動の吉田拓郎井上陽水が独自の路線を打ち出しつつあった。ボブ・ディランのように自作曲をソロで演じるまさに自作自演で、彼らは独自の世界を作り出した。陽水はレコード・アルバムの制作に心血をそそぎ、テレビなどの露出はほとんどなかった。一方で、拓郎は「つま恋コンサート」をかぐや姫と共同で企画主催するなど、ライブ活動を重視しながら、フォークをポップなメインカルチャーとして広めた。
 

 以後、彼らに追随するように、多くのシンガー・ソング・ライターがメジャーステージに登場し、やがてニューミュージックとして一からげにまとめられる時代に突入してゆく。これらの時代を実体験した者たちが語り合ったテレビ番組が残されている。山本コータローがMCをつとめ、重鎮杉田二郎に加えて、当時若手のさだまさし松山千春の4人で語り合っている。メンバーの若さから、1980年代半ばの収録かと思われる。

 

「日本のフォーク・グラフティ」
https://www.youtube.com/watch?v=pk5un8aJdSc
 

(追補)
 吉田拓郎井上陽水が出てきて、ニューミュージックへの流れを切り開いたと言われるが、これは時代状況と密接に関係している。

 関西フォーク系のプロテストソングは、反ベトナム戦争の流れをくみ、日本においては、70'反安保闘争という過剰な政治運動の季節を反映したものだった。

 露骨な反ベトナム戦争や反安保を歌っていなくても、プロテストという精神を共有していたわけだ。「山谷ブルース」も、このような政治の季節を背景にして歌われたのだ。
 

 70年が過ぎて安保が自動延長されると、政治闘争は沈静化し、一部の過激派と大多数の無関心派に分離する。そこで大仰な政治論争などよりも、自分個人の生き方を見直そうとする状況が生まれる。

 そのような背景の下で、拓郎・陽水らが発するメッセージが若者の心をとらえたのであった。「結婚しようよ」と、公衆の前で高らかに歌い上げられる状況が生じていたのであった。
 

 その切り替わりの時期に活動したのがフォーククルセダーズ。露骨なプロテスト系の歌詞は無い。しかし「青年は荒野をめざす」や「戦争は知らない」には、「この前の戦争」がどこかに意識されているし、北山修杉田二郎に提供した「戦争を知らない子供たち」でも、あえて「知らない」と居直る必要があったわけである。

(「戦争は知らない」は、寺山修司が自己体験をもとに書いた詩であるが、それを独自の感性で見つけ出し取り上げたのは、加藤和彦だった。)