【18th Century Chronicle 1706-10年】

【18th Century Chronicle 1706-10年】
 

◎宝永の天災・人災

*1707.10.4/東海〜四国 東海から四国に及ぶ諸国で大地震が発生する(宝永大地震)。

*1707.11.23/中部・関東 富士山が大噴火する。

*1708.3.8/京都 油小路より出火、内裏・仙洞御所はじめ417町、寺社100余、1万3000余軒が焼失する(宝永大火)。

*1708.3.10/肥後 熊本城下で大火、1200軒が焼失する。

*1708.11.22/備前 岡山城下で大火、11町、1077軒が焼失する。

*1708.11.-/関東 浅間山が大噴火し、近国一帯に降灰する。

*1708.12.29/大阪 大阪で大火、65町1500軒が焼失する。

*1710.閏8.10/中国 因幡伯耆・美作で大地震がおこる。
 

<宝永大地震

 宝永4(1707)年10月4日の午後、東海から四国に及ぶ諸国で大地震が発生した。南海トラフに関わる大規模な地殻変動によるものと想定され、歴史記録に残る日本最大級の地震とされている。この4年前(1703年)には、元号を「宝永」へと改元するに至らしめた相模地方一帯で「元禄地震」が発生している。


 地震規模は、古文書の記録などから推定するしかなく、不確定ではあるがマグニチュード8.4以上だったとされ、東海・近畿・四国など多くの地域で震度7程度の大きな揺れが観測された。地震による家屋等の倒壊、および倒壊による人身被害は甚大であったが、地域ごとの記述にばらつきがあり、単純に合計で計上するわけに行かない。
 


 そして、半時(1時間)程度のあとに数度に及んで押し寄せた津波は、地震以上に広範な海岸沿い地域に膨大な被害をもたらした。地震および津波によって、合計で少なくとも死者2万人、田畑の損壊30万石を下らず、船の流出および損壊3000とされる。ただし、大坂の被害を記した文献だけで、死者2万人以上とするものもあり、実際の全体被害を示すのは困難である。


 なお、147年後の1854年12月に「安政地震」が起きており、同じ南海トラフ地殻変動に起因するものとされている。
 
 

<富士山・宝永大噴火

 「宝永大噴火」は、「延暦の大噴火(800年-802年)」と「貞観の大噴火(864年-866年)」と並んで、歴史時代における富士山三大噴火の一つと数えられる。平安時代は火山活動が活発で二度も大噴火が記録されているが、その後は比較的穏やかな時期が続いていたところ、840年後に宝永大噴火が起こった。これ以降は、現在に至るまで富士山は噴火していない。


 宝永4(1707)年11月23日、昼前に富士山南東側斜面に亀裂が発生し(宝永火口)、そこから爆発的噴火が始まった。49日前の、宝永地震の影響下での大噴火であることは間違いない。前日夜から富士山麓一帯では強めの地震が繰り返し起こっており、翌23日の10時頃、白い噴煙が湧き上がり噴火が始まったとされる。富士山東斜面には焼き砂(火山灰)・焼き石(火山弾火山礫)が絶え間なく降り注いだ。
 


 この噴火で江戸でも大量の火山灰が降った。江戸で幕政に携わっていた儒者新井白石は、のちの随筆「折たく柴の記」に降灰の様子を記している。「よ(夜)べ地震ひ、この日のひるどき雷の声す、家を出るに及びて、雪のふり下るごとくなるをよく見るに、白灰の下れる也。西南の方を望むに、黒き雲起こりて、雷の光しきりにす」

 大噴火は、宝永4年11月23日から16日間にわたって続いた。この噴火の特徴は、溶岩流の噴出を伴わず、爆発的な噴火で噴煙を噴き上げ、マグマは粉々となり、火山礫・火山灰となって降り注いだ。最初に白い灰や軽石が降り注いだことから、噴煙は成層圏にまで達したと考えられる。
 


 噴火が収まってからも、火山灰による二次被害が深刻となった。江戸を含めた関東一帯に降り注いだ火山灰は、堆積して川の水位を押し上げた結果川を決壊させ、また田畑に堆積した火山灰は、農作物の大凶作をひき起こした。さらに成層圏にまで舞い上がった粉塵は太陽光を遮り、何年にもわたる冷夏で大飢饉をもたらした。

 当方が小中学生の頃、活火山・休火山・死火山という分類があって、富士山は休火山だと習った記憶がある。しかしこの分類は非学術であるとして、近年では用いられなくなっている。有史以来噴火の記録がない死火山であったはずの木曽御嶽山が、1979年に水蒸気爆発を起こし、この定義を大きく見直すきっかけとなり、2014年の水蒸気爆発では、多数の登山客が巻き込まれ、生々しい記憶を残した。
 

<京都・宝永大火>

 宝永5(1708)年3月8日午の下刻、京都の油小路通三条あたりから出火、南西の風に煽られて被害が拡大し、禁裏御所・仙洞御所・女院御所・東宮御所が悉く炎上、九条家鷹司家をはじめとする公家の邸宅、寺院・町屋など、西は油小路通・北は今出川通・東は河原町通・南は錦小路通に囲まれた上京を中心とした417ヶ町、10351軒、佛光寺下鴨神社などの諸寺社などを焼いた。


 江戸時代における京都の三大大火には、1708年の「宝永の大火」、1788年の「天明の大火」、1864年の「元治の大火」が挙げられる。天明の大火は鴨川東側の宮川町団栗辻子から出火したため「団栗(どんぐり)焼け」とも呼ばる。また、元治の大火は禁門(蛤御門)の変によって御所の周辺から出火、御所の西部や南東方面一帯にどんどん焼け広がったため「どんどん焼け」と言われた。

 

 宝永の大火では、火災後「見渡せば京も田舎となりにけり芦の仮屋の春の夕暮」と書かれた落首が市中に貼られるなど、京都御所の南部一帯が焼け出された。そのため火災後、一部の町及び民家が鴨川の東などに丸ごと移転され、京都の市街が鴨東(おうとう)地域に拡大されることになった。


 当時の京都御所周辺には、公家の邸宅と町屋が混在していたが、焼失した禁裏に公家邸を集中させ、混在していた町屋は鴨東の二条川東に広がる畑地に移転させた。町並み丸ごと移転させたため、この地域には、新丸太町通新麩屋町通新富小路通新東洞院通新柳馬場通新堺町通新高倉通など、新の字を頭につけた通り名がたくさん出来た。これらは本来、御所の南側に南北に走る通りの名で(丸太町通りは東西)、これらの京都の中心街を知る人にとっては、このまったく別場所に出来た新地名に出くわすとぎょっとするとほどである。
 
 

(この時期の出来事)

*1706.7.29/甲斐 幕府が、大老甲府藩主柳沢吉保に領内で金貨鋳造を許す(甲安金)。

*1706.8.-/常陸 水戸藩が、財政家松波勘十郎を藩政改革に参画させる。

*1708.5.-/ 儒学者貝原益軒が「大和本草」を書き上げる。

*1708.8.29/屋久島 イタリア人宣教師シドッチが屋久島に潜入上陸し、薩摩藩の役人に捕らわれる。

*1709.1.10/ 第5代将軍徳川綱吉没(64)。

*1709.1.20/ 幕府は「生類憐みの令」を廃止する。

*1709.5.1/ 徳川家宣が第6代将軍位に就く。

*1709.12.4/ 新井白石が、イタリア人宣教師シドッチを尋問する

*1710.4.15/ 幕府は、新井白石の改定になる武家諸法度の解説を出す。

*1710.5.23/上野 幕府が真鍋詮房に2万石を加増し、高崎藩主とする。