【18th Century Chronicle 1701-05年】

【18th Century Chronicle 1701-05年】
 

赤穂浪士討ち入り(赤穂事件)

*1701.3.14/江戸 赤穂藩浅野長矩が、江戸城中松之廊下で高家吉良義央に刃傷に及ぶ。

*1701.4.19/播磨 赤穂藩元家老大石良雄が、赤穂城を開城する。

*1702.12.15/江戸 赤穂藩元家老大石良雄らが吉良義央を討つ。(赤穂浪士討ち入り事件)

*1703.2.4/江戸 幕府が、大石良雄ほか赤穂浪士切腹を命じる。

*1703/10.-/ 室鳩巣が「赤穂義人録」を著す。
 


 元禄14(1701)年3月14日昼前、江戸城松之大廊下で、浅野(内匠頭)長矩が、吉良(上野介)吉央に斬りかかった。浅野内匠頭は背後から吉良上野介に小刀で斬りかかった。浅野はその場に居合わせた梶川与惣兵衛らに取り押さえられ、吉良は眉間に傷を負ったが、命に係わる太刀傷は受けずに済んだ。浅野が吉良に斬りかかったのは、何らかの遺恨があったとされるが詳細は不明である。

 斬りかかった場所は、江戸城本丸御殿の大広間につながる松之大廊下であり、刃傷沙汰はご法度の重要な場所だった。事件当時、江戸城では、幕府が朝廷の使者を接待している真っ最中であり、しかも高家筆頭の吉良はその接待役の責任者で、浅野は補佐役に任じられていた。
 


 立場・場所がらもわきまえずに刃傷に及んだ浅野に対して、第五代将軍徳川綱吉は激怒し、即日切腹を申し付け、浅野が藩主の播州赤穂浅野家は改易、赤穂城も明け渡しとした。一方、吉良が斬りつけられた際に抜刀しなかったため、この事件は「喧嘩」と見なされず、吉良側に一切のお咎めは無かった。

 浅野内匠頭は一旦田村家の預かりとされたが、即日切腹と決まり、その日の夕刻、田村邸の庭で切腹する。遺体は浅野家の家臣達によって引き取られ、菩提寺泉岳寺に埋葬された。
 


 浅野のみ刑に処せられた事に、浅野家家臣達は反発したが、筆頭家老であった大石(内蔵助)良雄は、素直に幕府の申しつけに従い、赤穂城を明け渡したうえで、浅野内匠頭の弟浅野大学の下で浅野家再興を目指す道を選んだ。そして4月19日、家老大石良雄の指揮の下で播州赤穂城は開城された。

 赤穂家の江戸詰めの家臣には、堀部安兵衛ら強硬派(江戸急進派)がおり、主君の敵である吉良を討つことに拘っていた。城を明け渡してからも、大石たち上方の主流派と堀部たち江戸急進派の対立は続いた。大石は、つてを頼って京都近隣の山科に隠棲し、この地から幕府に対してお家再興の嘆願を出している。
 

 翌元禄15(1702)年2月15日から数日間、大石内蔵助の寓居する京都の山科で、今後の行く末を決める会議が執り行われた(山科会議)。この時点で大石は、ほぼ討ち入りを決断していたが、浅野内匠頭の三回忌まで待つべきという意見で、会議ではしばらく延期することになった。

 その後、浅野大学が閉門と決まり、事実上お家再興が閉ざされたため、堀部ら江戸急進派と大石らお家再興派の対立点は無くなり、7月28日京都祇園円山にある寺院で会議を開き(円山会議)、大石は10月に江戸に出向き吉良邸に討ち入る事を正式に表明した。
 

 当初120名ほどいた同志は、円山会議で討ち入りが決定すると、脱盟する者が続出する。大石は連判状の血判を各自に返して、それでも討ち入りをしたいという意志の固い者50人ほどだけに同志を絞った(神文返し)。そして大石は円山会議の約束に従い、11月には江戸に入った(大石東下り)。

 すでに浪士たちは生活に困窮しており、もうあまり猶予はなかった。12月2日、頼母子講を装って深川八幡前の大茶屋に集まり、討ち入り当日の詳細を決めた(深川会議)。そして、12月14日に吉良が茶会を開くという情報を得ると、この日を討ち入りの日と決めた。その間にも同志の脱盟が続き、最後まで残った同志は47人となった。

 

 そして元禄15(1702)年12月14日未明、大石内蔵助ほか四十七士は吉良邸に討ち入り、見事、吉良上野介を討ちとった(吉良邸討ち入り)。四十七士は吉良邸から引き揚げて、吉良の首を泉岳寺浅野内匠頭の墓前に供えた。引き上げの最中、寺坂吉右衛門がどこかに消えたが、その理由は不明である
 


 討ち入りの報告を受けた幕府は、赤穂浪士浪士等の処分に苦慮したが、元禄16(1703)年2月4日、彼らを切腹にする事を決めた。主君の仇(かたき)は、通常、血縁者にのみ適用される「仇討」とは認められず、徒党を組んで吉良邸に「押し込み」を働いたとされたからであり、その場合は斬首が通常だが、そこは武士の体面を重んじて切腹としたと考えられる。

 元禄16(1703)年2月4日、幕府の命により、赤穂浪士達はそれぞれの預かり置かれた大名屋敷で切腹した。 切腹の場所は庭先であったが、切腹の場所には最高の格式である畳数枚が敷かれた。当時の切腹は形式化しており、脇差を腹にあてた瞬間に介錯人が首を落とす作法になっていた。赤穂浪士の遺骸は主君の浅野内匠頭と同じ泉岳寺に埋葬された。
 
 

(この時期の出来事)

*1701.4.16/備前 岡山藩閑谷学校が完成する。 

*1701.11.26/江戸 将軍綱吉は、寵愛する側用人柳沢保明に「松平」の姓と「吉」の一字を与え、以後、「柳沢吉保」と改名させる。

*1702.3.19/甲斐 新井白石が、甲府藩主徳川綱豊(のちの6代将軍家宣)に著書「藩翰譜」(諸大名家の家史)を献上する。

*1702.-.-/ 松尾芭蕉の「奥の細道」が刊行される。

*1703.5.7/大坂 近松門左衛門作「曽根崎心中」が竹本座で初演される。

*1703.11.23/関東 関東地方に大地震が発生する(元禄大地震)。これがきっかけで元禄から宝永に改元される。

*1703.-.-/常陸 水戸藩が藩財政の改革を始める(宝永新法)。

*1704.2.19/江戸 初代市川団十郎(45)が市村座の楽屋で、同じ役者の生島半六によって刺殺される。

*1704.12.21/甲斐 将軍綱吉が、側用人柳沢吉保甲府藩5万1千石の藩主にする。

*1705.閏4.10/大和 奈良東大寺大仏殿が再建される。

*1705.5.-/大坂 大坂の豪商淀屋三郎右衛門が、奢侈驕慢をとがめられ闕所(財産没収)所払になる。