【19th Century Chronicle 1865年】

【19th Century Chronicle 1865年】
 

◎第二次長州征伐と薩長連合(1865年)

*1865.1.2/長門 高杉晋作ら急進派が挙兵し、下関を占拠する。

*1865.1.15/ 幕府が、長州藩毛利敬親父子の服罪により、長州征伐の中止を布告する。

*1865.3.15/長門 長州藩奇兵隊など民兵諸隊を再編成し、軍制改革を行う。

*1865.3.17/長門 長州藩毛利敬親が保守派を退け、討幕を藩論とする。

*1865.6.24/京都 薩摩藩西郷隆盛土佐藩浪士坂本龍馬中岡慎太郎が会見し、長州藩の要請で武器購入を約束する。(薩長同盟への第一歩)

*1865.7.21/長門 長州藩井上馨伊藤博文が、薩摩藩の斡旋により、イギリス商人グラバーから鉄砲を購入する。

*1865.9.16/摂津 英米仏蘭4国が軍艦を兵庫沖に集結し、兵庫ほかの開港をせまる。

*1865.9.21/ 将軍家茂が参内し、長州征伐を奏上し、勅許を得る。

*1865.10.-/京都 西郷隆盛が、長州征伐阻止のため、兵を率いて上洛する。

*1865.11.7/ 幕府が、長州出兵を命じる。
 


 長州藩では、元治の内乱で実権を奪取した高杉晋作ら急進尊皇派は、奇兵隊など民兵諸隊を再編成し、軍制改革を行うなど、藩の軍事力を高めた。下関戦争などの敗戦から、もはや攘夷は無理だ見極めた長州藩では、桂小五郎木戸孝允)らが藩政を主導し、藩主毛利敬親をも促して、尊王討幕を藩論とするようになった。
 


 禁門の変長州藩兵を打ち払った薩摩藩は、第一次長州征伐で西郷隆盛が征長軍参謀に任命されると、恭順を示す長州に対して強硬処置を望む江戸の幕閣に対して、より緩和な処置に動いた。公武合体が藩論の薩摩藩であったが、西郷・大久保らは、薩英戦争の経験から攘夷は不可能と認識、また幕府の無能ぶりに討幕もしかたないと考えつつあった。
 


 この間、土佐藩浪士中岡慎太郎坂本龍馬が、薩長の調停に乗り出した。西郷隆盛薩長の協力と和親の必要を説き、下関で桂小五郎木戸孝允)と会う場を設定したが、これは西郷の都合でかなわなかった。しかし、慶応1(1865)年6月24日、西郷は京都で坂本龍馬と会い、長州が欲している武器・艦船の購入を薩摩名義で行うことを約束した。そしてさらに翌慶応2(1866)年1月、京都の小松帯刀邸にて、坂本龍馬立ち合いの下、西郷隆盛木戸孝允が会談し、両者の間で薩長同盟が成立する。
 


 一方、慶応1(1865)年9月、英米仏蘭4国の軍艦が兵庫沖に集結し、安政五カ国条約の勅許と兵庫の開港をせまるという事態が起こっていた。禁裏御守衛総督として在京し独自の動きを目指す一橋慶喜は、何一つ対応できない江戸の幕府に代わって、勅許を得るのに奔走した。京都に近い兵庫開港は、孝明天皇が頑強に反対したためかなわなかったが、五カ国条約の勅許を得るのに成功し、慶喜の信望は高まり、畿内に長期滞留して、京都で江戸から距離を置いた独自の権力基盤を持ちつつあった。
 

 条約勅許の騒動が一段落すると、幕府は第二次長州征伐に取り掛かる。11月7日、幕府は三十一藩に長州征伐の出兵の令を発した。その間にも幕府側と長州側の代表が広島で会談をするが、長州側はのらりくらりと返答を遅らし、結局幕長の談判は決裂する。翌慶応2(1866)年1月22日、幕府は長州処分の最終案を奏上し、勅許が下された。

 しかしながら、幕府の意向に反して諸藩の足並みは揃わず、密かに薩長同盟を結んでいた薩摩藩は出兵の拒否を申し出ている。やっとのことで、慶応2(1866)年6月7日、幕府側の周防大島への砲撃が始まり、順次、各方面でも戦端が開かれる。一致団結して防衛に当たる数千の長州勢に対して、幕府方からは15万もの大軍が集められたが、寄せ集めの諸藩軍には戦意乏しく、各方面で長州勢に打ち負かされる。

 その最中の7月20日、将軍家茂が大坂城薨去する。一橋慶喜は朝廷から休戦の詔勅を引き出し、一部の反対を押し切って休戦協定を締結した。かくして第二次長州征伐は無残な失敗に終わり、幕府の権威は完全に失墜した。


(この時期の出来事)

*1865.3.22/肥前 薩摩藩五代友厚・寺島宗徳・森有礼ら19人が、イギリス留学のために長崎を出発する。

*1865.5.-/肥前 土佐藩浪士坂本龍馬亀山社中(のちの海援隊)を長崎で結成する。

*1865.閏5.11/土佐 土佐藩が、尊攘派武市瑞山らを処刑する。

*1865.8.24/武蔵 幕府直営の横浜製鉄所が完成する。(初の近代工場)

*1865.9.27/相模 横須賀製鉄所の起工式が行われる。

*1865.10.1/京都 将軍家茂が、4国との条約締結と兵庫開港を願い出る。2日には、将軍職の辞表を提出する。

*1865.10.5/京都 孝明天皇は、条約を勅許し、兵庫開港は不許可の決定を下す。