【19th Century Chronicle 1816-20年】

【19th Century Chronicle 1816-20年】
 

◎京の町民自治が大幅に認められる。

*1817.7.3/京都 京都下京の町年寄(町組長)らが、町代(町役人)の専横を訴え、町組と町代の権限について町奉行所に判断を求める。

*1818.10.10/京都 懸案の町代権限問題に、町奉行所は町組側勝利の判決を下す。

*1819.閏4.23/京都 京都上京に、町自治最高機関としての「大仲[おおなか]」が組織される。
 


 応仁の乱をまつまでもなく、京の都には各地の武士団が攻め入り、街中で覇権抗争を繰り返し、都は幾度も焼け野原となる。負ければ帰れる国元がある武士たちに対して、京の町にしか居場所のない町民庶民は、いづれが勝つか分からない武士勢力に、旗色を鮮明にして支持するわけにはいかない。

 物事を曖昧婉曲に表現する京都人の独特の言い回しは、このような状況から発生したと思われる。どちらとも採れる独自の言語表現を獲得したわけで、これが京都人の意地悪さと錯覚されるが、いわば生活の必然の知恵として発生したものと考えるべきである。
 

 一方で、頼りにできない武士勢力に対して、京の町衆は自衛できる自治能力を持とうとした。その基礎単位となったのが「町組」であった。天文1(1532)年に始まった「天文法華一揆」が、町組の勃興時期と重なる。そして、法華一揆終焉後の荒廃した街の復興処理には、町組が重要な役割をはたしたとされる。


 江戸期に入ると京都の市街は発展し、新たな町[ちょう]が幾つも誕生し、町組の再編が行われた。別個に発展していた下京[しもぎょう]と上京[かみぎょう]は、市街地の発展につれて境界がつながるようになった。二条大路を境にして、下京と上京それぞれが、惣町(拡大町組)として組織されていった。
 

 各町では、町年寄(町組長)が代表して、町民の寄合い(会合)で合議されたが、町奉行との連絡役として「町代」が置かれていた。しかし町代は次第に町奉行配下の役人的性格を帯び、奉行の権威をかさに次第に横柄にふるまうようになった。


 そこで上京・下京のそれぞれが、町組の権限と町代の立場確認を求めて町奉行所に訴えていたが、奉行所は町組側の主張を認め、上京・下京には「大仲」という自治組織最高機関の設立が認められた。やがて京都全体の統一的自治機関に拡大してゆく。
 


 京都人の自治意識の強さは、このような歴史的経緯に裏付けされたものといえる。町衆の祭と言われる祇園祭も、その歴史は平安朝にまで遡るが、今のような山鉾の巡行の形をとるのは、室町期の町組の確立と無縁ではあり得ない。現在まで山鉾巡行を支えているのは、そのような強固な町組組織が機能している証左でもあろう。


 また、明治の初期、小学校設立は予算のない政府に代わって、町組の資金協力によって可能になったものが多い。市中心部の小学校区も、町組の単位に沿ったものが多いという。その後、昭和以降の人口増で、小学校区もさらに多くの「町」に分かれているが、その小学校のグラウンドでは、町別対抗の運動会やソフトボール大会が行われたものである。
 

 当方は、戦後すぐに生まれた世代だが、京都市北区(分区前は上京区)に生まれ育った。その当時でも「町[ちょう]」の結び付きは強く、町会を基本に役員が選ばれ、形骸化したとはいえ、それなりに町単位の催し事も多かった。また、ボランティア的だが青年会や子供会もあり、活動も活発だった。

 いま住んでいる地域では、隣近所の名前も憶えられないぐらいの付き合いしかない。町内会があるのかないのか、回覧板ひとつ回ってこない。それが良いのか悪いのかは、別問題ではあるが。
 

◎「十組問屋」・「三橋会所」・「株仲間」

*1819.6.23/江戸 幕府は、三橋会所頭取杉本茂十郎を罷免し、三橋会所・米会所を廃止する。
 


 文化4(1807)年の深川富岡八幡宮の祭礼の際、見物客が殺到し、永代橋が破壊して多数の死傷者を出す大事故が発生した。当時の隅田川に掛かる主要な橋は民間の運営に任されていたが、この事故を契機に、幕府が関与することになった。しかし、それにかかる莫大な費用が問題となった。

 そこで「江戸十組問屋」頭取(代表)の杉本茂十郎は、新大橋・永代橋・大川(吾妻)橋の三橋を管理運営する「三橋会所」の設立を提案した。この時、十組問屋は株仲間の承認を願い出ており、その見返りに冥加金1万両を上納を予定していた。この冥加金を幕府から貸し下げてもらい、それを三橋会所の元金とし、その運用益から橋の架け替え費用などを捻出するという提案だった。

 

 十組問屋への新規加入者は、そのつど冥加金を幕府に納めて株鑑札を受ける仕組みで、幕府は潤い、三橋の費用も任せられる。「十組問屋」は、業種ごとに十組の江戸の荷受問屋が結集した組合で、株仲間として承認されると、上方から輸送される船荷を独占的に取り扱うことができる。

 さらに茂十郎は、幕府に伊勢町米立会所を願い出て許可される。各地大名が年貢として取り立てた米は、大坂の堂島米会所でなされるのが基本であったが、大消費地の江戸でもかなりの米が集まり、立会取引を必要とした。幕府は当時の米価の低下で財政に窮しており、その価格維持機能を必要としていた。かくして杉本茂十郎は、十組問屋・三橋会所・米会所の頭取として、江戸の経済界の大実力者となった。

 

 杉村茂十郎は甲州の農民の出で、日本橋の飛脚問屋大阪屋茂兵衛の養子となる。家業を継いで流通問屋業に精通した茂十郎は、十組問屋の抱えた紛争をうまく調停し、十組問屋の取締り世話役となる。幕府も茂十郎の手腕を重宝し、十組頭取として苗字帯刀を許可し町年寄の次に列する待遇を与えた。

 江戸の経済界の重鎮に上り詰めた茂十郎だが、米の買い占めでの価格維持に失敗すると、それ以外の不祥事も明らかにされた。三橋会所への幕府貸し下げ金の私的流用や、会所での寄合い(会合)の名目で、料理茶屋で酒食三昧にふけった浪費などが表面化し、文政2(1919)年6月、幕府は三橋会所・米会所を廃止し、杉本茂十郎を罷免する。やがて天保の改革では、十組問屋も解散を命じられ消滅した。
 
 

(この時期の出来事)

*1816.9.7/ 戯作者・浮世絵師山東京伝(56)、没

*1816.9.-/対馬 対馬藩の宗義質が、朝鮮通交の功労で米1万表を与えられる。

*1816.12.4/江戸 1913年に遭難漂流した、尾張国名古屋の督乗丸船頭の重吉らが、江戸へ帰還する。

*1817.8.29/ 老中首座の松平信明(55)、没。寛政の遺老を率いて、松平定信失脚後の改革政策を維持していた。

*1818.4.16/ 幕府が、真文二分判金を発行する。以後、文政期の貨幣悪鋳が始まり、物価が騰貴する。

*1819.***/信濃 小林一茶の随筆・発句集「おらが春」がまとめられる。

*1820.6.28/ 幕府が、草文丁銀・小玉(豆板)を新鋳する。