【19th Century Chronicle 1811-15年】

【19th Century Chronicle 1811-15年】
 

◎最後の朝鮮通信使

*1811.5.22/対馬 朝鮮通信使、最後の来日。朝鮮使節対馬で応対する。(最後の使節
 


 朝鮮通信使の歴史は、室町幕府の将軍足利義満からの使者に対しての高麗王朝の返礼に始まる。高麗王朝に取って代った李氏朝鮮は、1392年から5世紀以上にわたって朝鮮半島を支配しており、ほぼその間、断続しながら朝鮮使節の派遣は続いた。「朝鮮通信使」となったのは、江戸幕府になって再開された時からであった。


 江戸期の朝鮮通信使は12回に及び、日朝の交流には、対馬藩の宗氏が重要な仲介の役割を果した。朝鮮との交易が主要な収入を占めた対馬宗氏は、日朝双方の国書を改竄するまでして、交流を繋いだ。通信使は釜山から海路で、対馬を経て馬関(下関)から瀬戸内海に入り、大坂からは淀川を遡航し、陸路で京都を経て江戸に向かうルートを取った。
 


 通信使は江戸時代に入って様式化され、正使に伴う一行が500人あまり、これに対馬藩からの案内や警護1500人ほどが加わったという。朝鮮通信使朝貢を意味したわけではないが、江戸の将軍に謁見するという一行は、江戸幕府の権威付けのために大仰な行列で行われた。しかし末期になると、朝鮮や江戸幕府双方の経済的負担が大きく、最後の使節団は対馬差し止めという形となった。


 鎖国中の江戸幕府にとって、朝鮮通信使は東アジア地域の動向を知る重要な情報源でもあった。しかし幕末が近づくと、西欧外国船が出没するようになり、東アジアの情勢が不安定となるとともに、使節団がもたらす情報も貴重なものでなくなってきた。それとともに、李氏朝鮮も内乱などで国力が消耗していったので、この年をもって通信使は途絶することになった。
 

◎ゴローニン事件

*1811.6.4/蝦夷 ロシア艦長ゴローニンを、国後島で捕縛する。

*1812.2.-/蝦夷 間宮林蔵松前で拘禁中のロシア人ゴローニンらと会い、天文測量について学ぶ。

*1812.3.24/蝦夷 拘禁中のゴローニンらが脱獄する。(4.4逮捕)

*1912.8.14/蝦夷 廻船業者高田屋嘉兵衛が、国後島沖でロシア船に捕らえられる。

*1813.1.-/蝦夷 幕府が、天文方馬場佐十郎らを松前に派遣し、拘禁中のロシア艦長ゴローニンにロシア語を学ばせる。

*1813.9.26/蝦夷 ロシアに連行された高田屋嘉兵衛とゴローニンの交換が行われる。
 


 1811年(文化8年)6月4日、千島列島を探検測量中であったロシアの軍艦ディアナ号艦長ヴァシリー・ゴローニン大尉らは、択捉島をへて国後島に立ち寄り補給を求めた。当時、ロシア軍船が北方の日本人居住地を襲撃する事件などが頻発しており、幕府は「ロシア船打払令」を出して、蝦夷地の警護を強化していた。

 ゴローニンらは、当地の松前奉行配下の役人に一方的に捕縛され、徒歩で陸路を松前まで護送され、松前奉行の取り調べを受けた。松前奉行は、ゴローニンらを釈放べきと判断して江戸に上申したが、幕府は釈放を拒否した。明瞭な措置方針も知らされず抑留されたままで、解放される見込みが得られなかったゴローニンらは、翌1812年3月、脱出をはかるも、すぐに再び捕縛された。

 

 一方で幕府は、ゴローニンらに通訳へのロシア語教育を求め、また航海術や測量技術を求めて獄中のゴローニンを訪れた間宮林蔵などもいた。ディアナ号副艦長のリコルドは、ロシア本国にゴローニンら救出の遠征隊派遣を要請するも、当時、ナポレオンのロシア遠征の最中で、極東に兵力を差し向ける余地はなかった。

 リコルドは、ゴローニン救出の交渉材料とするため、1812年8月14日、廻船業者で海商を営む高田屋嘉兵衛を、国後島沖で捕縛しカムチャツカのペトロパブロフスクへ連行した。ペトロパブロフスクで、嘉兵衛はリコルドと親交を深め、問題解決を話し合った。その結果、嘉兵衛が幕府との仲介となって、ゴローニンと嘉兵衛らの交換交渉が成立し、1813年9月26日、両者は無事自国に引き取られることになった。

 

 約2年3ヵ月もの間、ゴローニンは日本に抑留され不当な扱いを受けた。ゴローニンは帰国後、日本での捕囚生活に関する手記を執筆し出版された。同書は各国語に翻訳され、日本に関する最も信頼のおける史料として評価された。手記は日本語にも訳出され、高田屋嘉兵衛も入手し読んでいたとされるが、明治になってから『日本幽囚記』として、本格的に翻訳され出版されている。


  本書でゴローニンは、囚われの身で不当な扱いを受けたにも拘らず、かなり客観的な視点から日本を観察している。日本人を「聡明な民族」で「模倣にたけた勤勉な国民」であると評価し、この国が鎖国していることはむしろ感謝すべきで、一旦西欧の文物技術を取り入れ始めると、近いうちに必ずや東洋の王者となるであろうと、その後の日本を見通している。また、キリスト教徒を迫害する野蛮な国民という、従来のヨーロッパの否定的な日本人観を一変させるものでもあった。
 

 なお、ゴローニンとともに監禁された部下のヒョードル・ムール少尉も、獄中で『獄中上表』を書いており、この上表とゴロ−ニンの『日本幽囚記』には多くの相違があった。これは拘束中の上表であり、それなりの幕府への配慮があったと考えられる。しかも、脱獄を企てた時にゴローニンと袂を分つなどの確執があり、ペトロパブロフスクに帰港したあと、ムールは自殺した。脱獄のときにムールが居残ることを決めたことで、ゴローニンの疑いをかったことが関係あると見られている。
 

化政文化

*1814.11.-/ 曲亭(滝沢)馬琴の「南総里見八犬伝」第一集が刊行される。

*1814.***/ 葛飾北斎の「北斎漫画」初編が刊行される。

*1815.4.-/ 杉田玄白が「蘭学事始」を著す。
 


 「化政時代」は「大御所時代」とも呼ばれる。第11代将軍徳川家斉の治世後半の「文化・文政(1804年-1830年)」を中心にした時期を、そう呼ぶ。大御所とは隠居した元将軍の敬称であり、家斉は大御所となっても実権を握り続けたことに因む。

 将軍徳川家斉は、50年にわたって将軍職にあり、16人の妻妾を持ち、53人の子をを儲けた(長生したのは28名)ことのみで、名をとどめられる将軍であったが、その後半の化政時代は、江戸を中心に「化政文化」と呼ばれる、大衆町民文化が花開いた時期でもあった。
 


 家斉は15歳で将軍になったっため、その前半は老中首座の松平定信が補佐した。その前の宝暦・天明期は側用人から老中になった田沼意次が、積極的な経済政策を進めたが、一方で汚職政治の代名詞ともされた。松平定信は、その放漫な政治経済を立て直すために、「寛政の改革(1787-1793年)」と呼ばれる引締め統制政策を推進した。

 しかし、あまりに厳格すぎる統制政治は、「もとの濁りの 田沼恋しき」と狂歌に歌われたように、まもなく行き詰まり、定信は幕閣内での対立、庶民の反発などにより、将軍家斉の信頼を失い失脚することになった。
 

 定信の失脚後も後継の松平信明など寛政の遺老たちにより、この改革の方針は引き継がれたが、文化14年(1817年)に信明が病死すると、家斉は直接政治に携わり出し、かつて田沼時代の流れをくむ側近を重用し、放漫政治に戻っていった。

 大御所時代の緩んだ綱紀のもとで、賄賂政治、幕府財政破綻、幕政腐敗が進み、やがての幕府衰退につながる契機を作り出した。一方で、自由闊達な雰囲気とともに経済的にも豊かになり、江戸を中心にした町人文化が花開くことになった。やがて1841年(天保12年)、大御所家斉が薨去すると、実権を握った老中水野忠邦が「天保の改革」を始め、化政文化は終息を迎える。

 「化政文化」は、寛政の改革天保の改革に挟まれた文化・文政の時代で、将軍家斉の治世の後半「大御所時代」が中心だが、その前の田沼時代からの文化も含められ、極めて長い期間をさすことが多い。
 


 この時期、黄表紙滑稽本人情本・読本など様々な出版物が溢れたが、曲亭(滝沢)馬琴の「南総里見八犬伝」は大長編読本としてヒットした。「読本[よみほん]」は、文章中心の読み物を指し、伝奇的な要素を採り込み、勧善懲悪や因果応報を建前として構成した長編読み物が多い。

 『南総里見八犬伝』は、馬琴が28年を費やして書き上げたライフワーク的作品となった。安房里見家の姫・伏姫と因縁によって結ばれた、仁義八行の玉を持つ八犬士が数奇な運命のもと活躍する物語で、八犬士は離散集合を繰り返しながらも、里見家を守り通して大団円を迎える。
 


 葛飾北斎の「北斎漫画」は、北斎54歳の時の作品で、絵手本(絵の教本)として発表されたものだが、多岐にわたるポーズや顔の表情が評判を呼び、ある種のカタログ集として広くいきわたった。北斎はすでに多くの挿絵などを描き、評判の絵師だったが、90歳で亡くなる間際まで修行中と考えていた彼にとっては、北斎漫画は練習のデッサンのようなものであったのかも知れない。

 北斎の代表作ともされる「冨嶽三十六景」は、北斎漫画からさらに10年後に描き始められる。北斎は卒寿(90歳)にて臨終を迎えるが、あと10年、いや、あと5年の余命があれば、本物の画工になり得たのに、と呟き息を引き取ったと言われる。
 人魂で 行く気散じ[きさんじ]や 夏野原 (辞世の句)
 


 杉田玄白蘭学事始」は、玄白最晩年に記した蘭学草創の回想記であり、蘭書「ターヘル・アナトミア」を『解体新書』(1774年)として翻訳する時の苦労話など、当時の困難な状況での蘭学者の苦闘が描かれている。ただし、前野良沢らと死体の腑分けを実見し、解剖図の正確さに感銘して翻訳を決意するなど、杉田玄白蘭学者としての成果は、前の田沼時代にあり、化政文化の人物とするのは疑問とされる。
 
 

(この時期の出来事)
*1811.5.-/ 天文方に蛮書和解御用係を設け、外国語翻訳の専門機関とする。

*1811.***/江戸 無敵の大力士雷電為右衛門が引退する。驚異の勝率9割6分2厘。

*1813.3.28/江戸 幕府が、菱垣廻船積問屋仲間に株札を交付、以後の新規加入を禁止。(十組仲間に株仲間として独占権を与える)

*1913.4.-/江戸 幕府が、三橋会所頭取杉本茂十郎に米会所の設立を許可。

*1913.9.18/江戸 米価下落のため、幕府は町人にも御用金を命じる。

*1814.5.24/越後 越後の幕府領で、農民が大挙して富豪や庄屋などを襲撃して打ち毀す。(北越騒動)

*1815.6.28/尾張美濃 尾張および美濃一帯で大洪水が発生する。