【19th Century Chronicle 1806-10年】

【19th Century Chronicle 1806-10年】
 

◎外国船の出没と、その対応

*1806.1.26/ 幕府が、ロシア船来着のさい、穏便に帰国させるように対応せよとの取扱令を出す。(撫恤[ぶじゅつ]令・薪炭給与令)

*1806.9.11/蝦夷 ロシア船が樺太のオフイトマリに渡来し、翌日、久春古丹の松前藩番所を襲い、番人を連行する。

*1807.4.23/蝦夷 ロシア船が来航し、択捉島を襲撃する。

*1807.4.27/肥前 アメリカ船が長崎に来航し、薪と水を要求する。

*1807.5.29/蝦夷 ロシア船が礼文島沖で商船を襲う。6.2には利尻島に侵入し、幕府船を炎上させる。

*1807/12.9/蝦夷 幕府がロシア船の打ち払い令を出し、蝦夷地全域を幕府直轄とする。


*1808.4.13/蝦夷 間宮林蔵・松田伝十郎が、幕命で樺太探検に宗谷を出発する。

*1808.8.15/肥前 イギリス軍艦フェートン号が、オランダ船を追って長崎港に侵入、長崎奉行に薪と水を要求する。

*1809.7.11/蝦夷 間宮林蔵黒竜江地域東韃靼のデレンに到達し、「間宮海峡」の存在を確認して樺太が島であることが示された。

 

 1792年、ロシア使節ラクスマン根室に来航したが、幕府は長崎以外に入港を認めないとし、長崎入港の許可書(信牌)を与えただけでラクスマンを帰国させた。12年後の1804年、レザノフは、ラクスマンの得た信牌(入港許可書)をもとに長崎に来航したが、幕府は非礼な対応をして交渉を断念さる方針で、レザノフは半年間、無為に出島近くに留め置かれたうえ、通商拒絶の通告を受け、満足な装備や食料の補給を受けず長崎を退去させられた。
 


 レザノフが退去したあと、その対応への反省から、幕府は「文化の薪水給与令(撫恤[ぶじゅつ]令)」を出して、穏便に退去させる方向性を打ち出した。しかしその翌年、レザノフの部下であったニコライ・フヴォストフの指揮のもと、その時の対応への報復とばかりに、ロシア船が樺太択捉島など北方における日本側の拠点を、複数回にわたって攻撃した(文化露寇)。それに驚いた幕府は、今度は方針転換して「ロシア船打ち払い令」を出し、蝦夷地全域を幕府直轄とする。
 

 二世紀以上にわたり鎖国を続けた幕府は、オランダを除いた西欧とは一切接点をもたずに過ごし、その間に西欧諸国は、近代に目覚め、驚くほど国力を高めていた。大航海時代を経て、大洋航海技術と艦船戦闘力の発展は、幕府の知るべくもない世界での出来事であった。そのため幕府には、外国船との戦闘能力以前に、外交交渉の一貫した方針さえ持ち得なかった。
 


 文化・文政の爛熟した町人都市文化が花開いた泰平の最中に、江戸幕府はロシアの脅威を感じ始め、遅まきながら鎖国体制の維持と北方の国防体制の強化に努めた。日露関係の緊張によって、幕府は自らの威信を保つために内外に対して強硬策を採るようになったが、8月には、唐突にイギリス軍艦フェートン号が、オランダ船を追って長崎港に侵入しわが物顔に振舞い、その責を負って長崎奉行切腹し、幕府は面目をうしなった。

 長崎でオランダからの情報のみに頼っていた幕府だが、この時期のオランダ本国は、ナポレオンによって占領され、国力は衰退していた。一方イギリスは、その後に続くヴィクトリア時代の最盛期を迎えつつあった。フェートン号も、アジア地域に残存するオランダ旧東インド会社の権益を接収する命を受けた艦船の一つだったわけである。
 


 幕府は、最上徳内間宮林蔵に命じて、蝦夷地から樺太・千島の調査を進めさせ、伊能忠敬には日本全国の版図作成の測量を行わせた。また、蝦夷地を直轄にして、周辺諸藩にも北方の警備強化を命じたが、ロシア人との交渉に苦労した経験から、あわててオランダ語以外の通訳を養成し始めるなど、まさしく泥縄式の外交対策であった。
 
 

◎江戸の大火
*1806.3.4/江戸 芝車町から出火し、530余町が焼け、死者1200人余が出る。(文化の大火/丙寅の大火)
 


 文化3(1806)年3月4日、午前10時頃に芝車町の材木座付近から発生した火事は、おりからの西南の強風にあおられ、一気に芝一帯に燃え広がり、薩摩藩上屋敷(現在の芝公園)・増上寺五重塔を全焼、さらに木挽町数寄屋橋に飛び火し、そこから京橋・日本橋の殆どを焼失、一向に火勢は止まず神田、浅草方面まで燃え広がった。

 翌5日の降雨によって鎮火したものの、延焼面積は下町を中心に530町、焼失家屋は12万6000戸、死者は1200人を超えたと言われる。このため町奉行所では、被災者のために江戸8か所に御救小屋を建て炊き出しを始め、11万人以上の被災者に御救米銭(支援金)を与えた。発火地点の名から、通称車町火事・牛町火事などと呼ばれた。
 


 江戸時代と呼ばれるおよそ250年間の間に、江戸では49回もの大火が発生したと言われる。当時の江戸以外の大都市であった京都や大阪に比べると、圧倒的に江戸の大火が多かった。江戸に幕府が開かれ、大名屋敷が設けられ、その周辺に庶民が多く住まうようになり、江戸の町は急速に発展した。

 急速な人口増で、町民などの小さな木造家屋が密集し、極めて延焼しやすい状況が、江戸の大火の多さの原因となった。しかも、「火事と喧嘩は江戸の花」などと呼ぶ江戸っ子気質や、江戸火消しが人気職業とされるなど、火事は当然で致し方のないこと、むしろ身に及ばない大火は見物の対象とするなど、江戸庶民の大火に対する意識欠如も、要因の一つに挙げられる。
 


 明暦の大火(1657)・明和の大火(1772)・文化の大火(1806)は、江戸三大大火と呼ばれ、とりわけ「明暦の大火」における被害は延焼面積・死者共に江戸時代最大であった。江戸の三大大火の筆頭に挙げられ、世界的にも、ロンドン大火、ローマ大火と共に世界三大火事にも数えられるという。この大火では、江戸城や多数の大名屋敷も焼けて、この時に焼け落ちた江戸城天守は、ついに再建されることがなかった。

 明暦の大火は「振袖火事」とも呼ばれる。由来は、それをまとった娘が次々と病死するという因縁の振袖を、本郷の本妙寺で焼いて供養することにしたが、突風にあおられ一気に火の手が上がったという言い伝えによる。しかし、出火場所は、時間をおいて何か所かから発生しており、放火説も根強い。
 


 明暦の大火の経験から、江戸の町に大規模な防火延焼対策がなされ、これを超える大火災は無かったが、大規模な火災は以後も何度も起こった。「明和の大火」は目黒行人坂から出火したため、目黒行人坂大火とも呼ばれる。出火元は目黒の大円寺で、出火原因は真秀という坊主による放火とされた。火事場泥棒をするために火をつけたという真秀は、市中引き回しの上、小塚原で火刑に処された。
 


 ほかにも、「八百屋お七の火事」とも称される「天和の大火(1683)」などがある。井原西鶴好色五人女』などでも取り上げ有名になった「八百屋お七」の名が冠せられているが、この火事自体は、お七一家は焼け出された被害者であり、その時の避難先の寺で見染めた寺の小姓と会いたい一心で、その寺に放火した。

 火事は小火[ぼや]で終わったが、お七は火炙りの刑になり、のちの物語で有名になったので、元の天和火事もお七の名で呼ばれるようになったという。なお、振袖火事と混同されることがあるが、まったく別の事件である。
 
 

(この時期の出来事)

*1806.10.-/ 幕府は財政が悪化したため、江戸町民や幕府領農民に御用金を課す。

*1807.1.-/ 曲亭馬琴作・葛飾北斎画の『椿説弓張月』前編が刊行される。

*1807.8.19/江戸 深川富岡八幡祭の人出で永代橋が崩壊、死者・不明1500人余を出す惨事となった。

*1809.1.-/ 式亭三馬による滑稽本浮世風呂』前編が刊行される。(4年後に完結)

*1809.2.-/江戸 菱垣廻船積仲間十組問屋が、大川筋3橋の普請を引き受けるために、幕府から「三橋会所」の設立許可を得る。会所頭取として仕切った杉本茂十郎の実質的な狙いは、樽廻船に敗れた菱垣廻船の再建と、その母体である十組問屋による流通独占であった。

*1810.8.11/江戸 幕府の「御金改役」(金地金・金貨などの管理役)を代々務める後藤家では、幕府の小普請金や御金蔵の小判を横領しているのが発覚した。後藤庄三郎家は断絶、当主らは獄門・遠島とされた。

*1810.9.-/薩摩 幕府は、薩摩藩に、琉球貿易品の長崎会所での転売を許可する。薩摩藩は、琉球を介した貿易や密貿易の利益によって、幕末の雄藩への下地を築き上げてゆく。