【19th Century Chronicle 1871年(M4)】

【19th Century Chronicle 1871年(M4)】
 

*旧4.4/ 戸籍法を制定する。行政区画として区が設置され、戸長・副戸長を置くことになる。(翌2月「壬申戸籍」が編成さる)
 

 明治4年(1871)4月、戸籍法が制定され、それまで各府県ごとに行われていた戸籍作成に関する規則を全国的に統一した。戸籍法は、翌年に全国的戸籍を作成することを定め、それによって作成された戸籍を「壬申戸籍」と呼ぶ。戸籍法により戸籍区が設けられ、各区に戸長が置かれ戸籍関係事務にあたることとされた。


 江戸時代の宗門人別改帳に代わり、皇族から平民わたるまで「戸」を単位に集計した。また、幕府の国別人口調査と異なり、全国一律の基準で集計した点でも画期的であった。この戸籍により、当時の日本の総人口は、3311万人と集計された。
 

 この最初の戸籍法には不備も多く、多くの機能(印鑑証明、地券等)を持たせたことにより、複雑となった。また、記載様式も特に設けられなかったことから、地方によって書式の詳細に格差が生まれた。さらに、定期的に改編するという規定も、その通りには実行されておらず、かなりの異同が生じたと考えられる。

 1886年明治19年)、壬申式から統一書式を用いた戸籍へと変更が行われ、同年11月より徐々に移行された。1898年(明治31年)の戸籍法により、この壬申戸籍改製原戸籍として取り扱われ、保存期間が経過した後に廃棄処分扱いとされていたが、市町村によってはその後もこれを閲覧に供していたところもあった。


 壬申戸籍では、皇族、華族、士族、平民等を別個に集計した。このとき被差別部落民は賎民解放令に基づき、平民として編入されたが、一部地域の戸籍には「新平民」や「元穢多」「元非人」等と記載されたりするなど、差別は色濃く残った。
 

 久しく忘れられた壬申戸籍であったが、その名前が昭和の高度成長の最盛期に復活することになる。1968年(昭和43年)被差別部落民を探り出すためにこの戸籍が用いられようとした「壬申戸籍事件」が発覚し、差別批判をするマスコミや、被差別部落解放の団体などから、強く糺弾された。国は民事局長通達により閲覧禁止とし、将来の学術資料・歴史的資料の可能性を残すため、厳重封印のうえ保管されることになった。


 その後も、1975年(昭和50年)には、「部落地名総鑑事件」というものが発覚する。これは壬申戸籍と直接の関係はないが、全国の旧部落の所在地一覧が掲載された本が販売され、企業や興信所が、採用人事や婚姻相手の身元調査に利用されていたという事件であった。ごく近年にも、壬申戸籍がネット・オークションに出展されるという事件なども確認されている。
 

 「壬申戸籍」が、前近代的な差別を温存する意図のもとに作成されたという見解は、糾弾する団体などの側から主張されるが、戸籍法自体は、それを第一義に目的としたものではないだろう。作成に当たって、各地域ごとに記載様式にばらつきがあったため、戸籍係の恣意により「新平民・穢多」が書き加えられたという見解もある。実際、そのような記載はあくまで例外的だったとされる。

 なお近年に、研究目的などの理由で、壬申戸籍の情報公開請求をした事例があるが、いずれも行政文書非該当を理由に却下されている。しかし、かつて閲覧が許されていた時代が続いていた以上、その写しが闇で流通する懸念はぬぐえない。どれだけ、完全な壬申戸籍が流出しているかは不明だが、その一部がデジタル化されて流通すれば、拡散は免れない。そのような情報をニーズとする側の規制も必要であろうと思われる。
 
 

*旧7.14/ 明治天皇が、56藩知事を招集し、廃藩置県詔勅を出す。
 


 慶応3(1867)年12月の「王政復古」の政変は、中央政府江戸幕府から朝廷へ移っただけに過ぎず、各地には未だ大名領(藩)が残されたままだった。明治2(1869)年、「版籍奉還」が行われ、土地と人民は明治政府の所轄する所となった。しかし、各大名は知藩事藩知事)として、そのまま「藩」(旧大名領)の統治に当たることとされた。

 一方、旧幕府所管の幕府領などは、新政府直轄地として、府と県が置かれ中央政府から知事(知府事・知県事)が派遣された。これを「府藩県三治制」というが、上記のように「藩」(便宜上この時だけ旧大名領に用いられた)は旧体制と変わらない、極めて中途半端な状況であった。

 新政府では、軍事面と財政面に置ける中央集権体制の確立が急務であった。しかし、大久保利通木戸孝允など新政府の政策実現の実力者は、薩摩藩島津久光をはじめとする旧体制保守派の隠然たる勢力を無視できず、漸進的な姿勢をとらざるを得なかった。
 


 「廃藩置県」では、西郷隆盛が大きな役割をはたした。西郷は、戊辰戦争終結をみたあと、体調の問題もあり薩摩に戻っていた。薩摩では、戊辰戦争に参加した膨大な士卒の扶助に苦慮しており、藩体制維持の限界をみせていた。他方で西郷は、戊辰戦争の論功行賞で役を得た官吏の堕落した驕奢などにより、新政府から人心が離れつつあり、政府の改革の必要も感じていた。

 政権中枢を担う大久保や木戸は、中央集権体制の確立の必要を痛感していたが、両人は、強力な軍事力を保持する薩摩藩の同意をえるためにも、西郷の東上が必須と考えた。明治3(1870)年12月に、勅使岩倉具視大久保利通が西郷を呼び戻すために鹿児島に来訪した。
 

 明治4(1871)年1月、西郷と大久保らは、途中、山口の木戸孝允、土佐の板垣退助、そして大阪では山縣有朋と合流して東上する。京に着いた一行は2月8日に会談し、御親兵の創設を決めた。2月13日には、鹿児島(薩摩)藩・山口(長州)藩・高知(土佐)藩の兵を統合し「御親兵」に編成する旨の命令が出され、帰薩していた西郷はこれに呼応して、約5,000名を率いて上京し東京に駐屯した。


御親兵以外にも東山道鎮台(石巻)と西海道鎮台(小倉)を設置し、これらの武力を背景に内閣人員の整備を始めた。明治4(1871)年7月9日、東京の木戸孝允邸において、西郷ら新政府首脳が集まり、廃藩置県についての秘密会議が催されたが、このまま廃藩を発表すれば大騒ぎになるという時期尚早論が木戸や大久保の間で交わされる中、いざとなれば自分が収めるので、粛々と進めるがよい、との西郷のひと言で決着した。

 明治4(1871)年7月14日、明治政府は在東京の知藩事を皇居に集めて廃藩置県を命じた。集められた知藩事には、順次、廃藩の詔勅が宣せられた。この過程は、各藩主に御親兵として兵力を供出させ、手足をもいだ状態で、一ヶ所に集め廃藩置県をいきなり断行するなど、言わば騙し討ちに近い形で実行された。予想された抵抗に対しては、薩長土三藩出身の兵からなる強大な親兵をもって鎮圧することになっていた。
 


 藩は「県」となり、知藩事(旧藩主)は廃され東京への移住が命じられた。旧藩主家の収入には旧藩の収入の1割があてがわれ、各県には新たに中央政府から県令が派遣された。当初は藩をそのまま県に置き換えたため、現在の都道府県よりも細分化されており、3府302県あったが、10〜11月には3府72県に統合された。その後も、統合分割が繰り返され、明治22(1889)年には、3府43県(北海道を除く)となって、ほぼ現在の形に近いものとなった。

 廃藩置県により、封建領主の権利は奪われたが、中央集権的近代国家の確立までには、まだ多くの法制整備が必要であった。その事業は、岩倉使節団として木戸、大久保らの外遊中に、明治政府を率いた西郷らの留守政府に託された。留守政府の元で、徴兵令(海陸警備ノ制)・学制(教令率育ノ道)・司法改革(審理刑罰ノ法)・地租改正(理財会計ノ方)といった新しい制度が着々と実行されていくことになった。
  
 

*旧11.12/ 欧米事情視察のため、特命全権大使岩倉具視らが横浜を出発。津田梅子ほか5人の少女が、初の女子留学生として、使節団に随行。(岩倉使節団
 


 明治4(1871)年11月12日、岩倉具視を正使とする「岩倉使節団」が横浜港を出港し、アメリカおよびヨーロッパの12カ国を訪問する。政府のトップ及び随行員、留学生を含む総勢107名からなる大規模な使節団であった。幕末に結んだ不平等条約の改正が目的とされたが、実質的には西洋文明の視察・吸収が主要な任務となった。

 使節団の構成は、特命全権大使岩倉具視、副使の木戸孝允大久保利通伊藤博文山口尚芳であり、それに多数の随行員に加えて、中江兆民ら欧米各国への留学生が同船し、その内には、一行の最年少6歳の津田梅子ら、ほぼ少女といえる女子留学生5名も含まれていた。

 横浜港を出発した一行は、太平洋を渡りサンフランシスコに入港。その後アメリカ大陸を横断しワシントンD.C.を訪問し、アメリカには約8カ月もの長期滞在となった。その後大西洋を渡り、ヨーロッパ各国を歴訪、イギリス、フランス、スイス、ベルギー、デンマーク、ドイツ、ロシア、オランダ、スウェーデン、イタリア、オーストリアを歴訪し、明治6年9 月13日に帰国した。当初の予定を大幅に超過し、1年10カ月に渡る外訪となった。

 

 政権が誕生したばかりの新政府で、中枢にあるトップたちが長期間外遊するという異例の使節団であったが、直接に西洋文明や思想に触れ、しかも多くの国情を比較体験する機会を得たことは、その後の国政にとっても多大な影響を与えるものであった。さらに、同行した多数の留学生たちは、さまざまな分野で研鑽を積み、帰国後には政治・経済・科学・教育・文化などあらゆる分野で、日本の近代化に大きく貢献した。

 一方、使節団に長期外遊中に政権運営をまかされた「留守政府」は、太政大臣三条実美を筆頭に西郷隆盛井上馨大隈重信板垣退助江藤新平らによって担われた。断行されたばかりの「廃藩置県」に関しては、関連法整備など、多くの施策が残されていた。出発前の盟約書では、「留守中に大規模な改革を行わない」としていたが、「廃藩置県の関連処置は速やかに行う」ように指示されていた。
 

 使節団の出発後、留守政府は学制改正・徴兵令・地租改正・太陽暦の採用・司法制度の整備・キリスト教弾圧の中止などの改革を積極的に行った。留守政府の改革については、岩倉使節団の留守中に新規の改革を行わないという盟約に反し、留守政府が勝手に行った結果、その後の「明治六年政変」の起因となり、さらに士族反乱や農民一揆を引き起こす原因ともなったとする見解がある。

 しかし、廃藩置県によって従来の統治システムを根本的に解体した結果、それを代替補完するシステムの早急な構築は必須であった。「学制」や「徴兵制」は、旧来の藩校・藩兵に代替して作られた教育・軍事システムの基幹であり、使節団出発前から進められつつあったものであった。「地租改正」も、大久保らの意向を受けて、使節団出発前にその原案が作成されていた。
 


 留守政府の行った施策は、おおむね廃藩置県事後の法制度整備であり、派遣使節団も事前に関知していたことであった。使節団の帰還後、留守政府との間で大きな対立点となったのは、「人事を巡る問題」と「西郷隆盛の遣韓問題」を巡ってのものであった。

 軍政を仕切る山縣有朋が、山城屋事件という軍公金焦げ付き事件で辞任に追い込まれると、かねてからの「強兵」派の西郷は、山縣を擁護し、自ら軍総司令官元帥に就任した。一方で、「富国」を推進する大蔵省の大隈・井上・渋沢栄一らに対しては批判的で、財政政策の対立で井上・渋沢が辞任に追い込まれた際にもこれを容認し、政治力を補完するために後藤象二郎江藤新平大木喬任を参議に追加した。
 

 そしてさらに決定的だったのは「征韓論」を巡る対立であった。参議板垣退助らが、直接派兵による解決(征韓論)をとなえたのに対して、西郷は武力ではなく、旧例に則った使節を編成し、自らがその全権大使になると主張(遣韓大使論)した。一旦は西郷遣韓大使が、明治天皇の了解まで得られたが、明治6(1873)年9月帰国した岩倉使節団の岩倉・木戸・大久保らは、時期尚早としてこれに反対し、決定をひっくり返した。


 この征韓論に敗れた西郷や板垣らは一斉に下野し、彼らを支持する政治家・軍人・官僚など600名余が大量に辞任するという「明治六年政変(征韓論政変)」となった。この政変で下野した要人らが率いて、佐賀の乱江藤新平)、萩の乱前原一誠)、西南戦争西郷隆盛)など一連の「不平士族の乱」が引き起こされ、やがて武力による反乱が無理となると「自由民権運動」(板垣退助ら)へと、政府批判の運動が継がれていった。

 なお、征韓論による下野から西南戦争にいたる西郷隆盛の、意図と行動には幾つもの不明な点があるが、これらは別の機会に触れてみたい。
 
 

〇この年の出来事

*旧1.24/ 東京・京都・大阪間に郵便開始が定まる。3府に郵便役所を置き切手を発売する。

*旧2.15/大阪 造幣寮開業式が行われ、イギリスから輸入した造幣機で統一的な貨幣鋳造が始まる。

*旧3.8/愛知 菊間藩で廃仏運動に対する護法一揆が起き、浄土真宗宗徒3000人が蜂起する。(大浜騒動)

*3.28/フランス パリ・コミューンの成立が宣言される。 

*旧5.10/ 新貨幣条例を制定する。金本位制が採用され、貨幣の呼称が円・銭・厘となる。

*旧7.14/ 西郷隆盛(旧薩摩藩)・木戸孝允(旧長州藩)に加え、新たに大隈重信(旧肥前藩)と板垣退助(旧土佐藩)が参議となる。

*旧7.29/中国 日清修好条規を結ぶ。

*旧12.26/ 司法省に、東京裁判所が置かれる。(裁判所設置の初め)