【『火垂るの墓』 野坂昭如原作小説とジブリ・アニメ版】

【『火垂るの墓』 野坂昭如原作小説とジブリ・アニメ版】
 


 二年前にFacebookに書いたものが、浮き上がって来たので再掲してみる。
 
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 テレビでジブリ・アニメ『火垂るの墓』やってたので観た。どう見ても、お涙ちょうだい風に見えてしまうね。

 実は初版のハードカバーがあったんだけど、「アメリカひじき」しか読んでなかった。アニメで評判になったあと、読んでみた。アニメでは「戦争孤児の悲劇」と一般化されたイメージだが、原文では、戦後闇市の臭いがそのまま漂ってくる。

 原文にあたるのをお勧めしたいが、西鶴俳諧連歌を連ねたような文が頁の半分ほども句点改行なしで続くので、若い人には取っ付きが悪いかも知れない。

 たとえば「アメリカひじき」では、食料不足で時々、進駐軍が放出した見たこともない物が配給で回って来る。あるとき。まっ黒な粒でざらざらに乾燥したものが配られてきた。

 町内の人々が集まって、これは何だ、これはどうやって食うんだ、と悩んだ末に、誰かが「これはヒジキだ、アメリカひじきだろ」と叫んだ。そこで水で煮て、煮汁を棄てて食ってみたが、あまりにまずかった、という話し。つまり米軍が放出したのは、紅茶の葉だったわけで、煮出したカスを食ったわけ。

 こういうのは、「火垂」みたいなアニメ悲劇にはしようがないんだよね。トラジディではなくコメディになってしまうわけ。野坂は、このような悲劇と喜劇が背中合わせになったような状況を描くのは、天才的だったと思う。

 そこで一言、「ひとを泣かせるのは簡単だが、笑わせるのは難しい」w
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 あくまで、たまたまTVで放映されたアニメを見ての感想であって、原作小説とアニメ作品を比較してどうこう言おうというものではない。私自身、野坂昭如直木賞を獲得して、多くの作品を作り出した'60年代後半からのファンであって、ほとんどの作品を買い込んでいた。

 一方で、アニメ作品は好んで観るものではなくて、とくにジブリ作品は意図的に避けていたようなところがある。そんなわけで、上記の感想はあくまで偏ったものであり、それぞれの作品を適正に評価するつもりもなかった。
 


 その年の暮に、長らく脳梗塞で臥せっていた野坂が無くなった。その時は、追悼の気持で、下記のものを書いた。 「その3」では、『「アメリカひじき」「火垂るの墓」』という2作品をタイトルにした短編集について触れている。
http://d.hatena.ne.jp/naniuji/20151211
 
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 『火垂るの墓』がジブリのアニメであまりにも有名になってしまい、野坂昭如がその原作者であることを知る人も少ないかもしれない。この短編集は、『火垂るの墓』と『アメリカひじき』が昭和42年度下の直木賞受賞作となり、他の初期短編と併せて刊行されたものである。

 短編集のタイトルとしては『アメリカひじき』がむしろ先に置かれており、いわばこれがA面、『火垂るの墓』がB面という扱いになっている。野坂にとって「アメリカひじき」は、それほど思い入れのあった短編であったと思われる。「火垂る」が、戦時中に亡くなった幼い妹への鎮魂歌であるとすれば、「ひじき」では、戦争を生き延びた「その後」を、散文的で滑稽な人間模様として描きだしている。

 すでに進駐軍の占領下になっており、戦後の食糧難下で不定期にわずかな食糧が配給されてくる。希望するものが配給されるわけもなく、ときには進駐軍が提供する馴染みのない食糧とかも回ってくる。私たちが学校給食で悩まされた脱脂粉乳なども、当初は米国で家畜の飼料用の脱脂粉乳が提供されたのが始まりだという。

 『アメリカひじき』は、野坂自身の戦後の焼跡闇市体験を題材にした作品で、敗戦直後の進駐軍に対する卑屈な経験を思い起こし、米軍の補給物資をくすねて分け合った経験など、滑稽な逸話が語られる。ドラム缶にいっぱい詰められた乾燥された真っ黒な粒子、はて何かといぶかるうちに、誰かが「ひじき」だという、つまり「アメリカひじき」というわけだ。

 何度も煮だして濃い茶色のアク汁を捨て、やっと煮詰めた真っ黒な物質はなんともまずい。米軍は何でこんなまずいものを食ってるんだと嘲笑ったが、後日分かったところによると、それはブラックティー、つまり紅茶を煮だして、出しがらの葉を煮て食っていたというわけで、そんな惨めで恥ずかしい思い出が語られる。

 『火垂るの墓』では、主人公の清太は死んでしまうことになっているが、『アメリカひじき』では、戦後を生き延びた俊夫という主人公の「その後」物語ともなっている。
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 この初出の短編集での扱いでも分かるが、野坂は「アメリカひじき」をメインにおいており、「火垂るの墓」はあまり前面に出したくなかった作品のようだ。自身の経験として重すぎるために、締め切りに追われて止むを得ずに書いたという。どうしてもウソが混じり、兄の清太も決して妹節子に対して、作中のように優しく対処したわけでもない。


 実際には、妹は一歳半でまだ口もきけなかった。それを背負って生きる定めになった十代前半の兄には、生きるための重荷でしかなかったであろう。アニメ化され大ヒットした作品に対して、原作者野坂昭如に「わたしはこの映画を二度と見たくない」と言わしめている。

 アニメでは、戦争で放り出された幼い兄と妹との、辛すぎる悲劇を見事に描いた。しかし野坂自身の記憶の中では、そのように美しく哀しい物語などであるはずがない。それ以上に、その体験を美化して描いた自分への自責の念が、決して消えることなく湧き上がってくる。二度と見たくない、というのは当然とも言える。

 一方で、アニメ化した高畑監督には、そのような自責の念は湧いてくるはずもない。いたいけで愛くるしい節子の、美しくも哀しい短い一生を、感動の物語として描き上げるのが、最優先事項となるだろう。

 

 そもそも、関西のうどんを関東のソバと同じカテゴリで扱うのが間違いなように、原作小説とアニメまたは実写映像作品は、頭から別作品として扱うべきものであろう。『火垂るの墓』における原作とアニメで、唯一シンクロするシーンは、やはり防空壕の暗闇の中を、火垂るの光が乱舞するシーンであろう。これだけは、タイトルにもあるように、あらゆる実在世界を越えた、「美しく哀しいメルヘン」となって、この作品を一つのものにしているのであった。