【江戸川乱歩 没後50年】(2015. 8記)

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江戸川乱歩 没後50年】(2015. 8記)
 
 

 NHK ETV特集「二十の顔を持つ男〜没後50年・知られざる江戸川乱歩〜」を観た。
 


 乱歩に出会ったのは中学生の頃、少年向けポプラ社の「怪人二十面相」シリーズ。その後、家の物置に講談社探偵小説全集が転がっているのを見つけて、旧字旧仮名にも拘らず密かに読みふけった。何となく子供ごころに、大っぴらに読んでいてはいけない雰囲気を感じ、物置に隠れたりして読んだものだ。
 


 乱歩の作品は三期に分けられるという。初期の「二銭銅貨」や「D坂の殺人事件」など、謎とトリックと論理的推理を重視したもの。

 次に「屋根裏の散歩者」「人間椅子」「芋虫」など、エログロ小説として評判になった猟奇シリーズ。並行して「黒蜥蜴」など、のちの怪人怪盗ものにつながるものもあった。

 そして「怪人二十面相」「少年探偵団」という少年向けシリーズ。ご存知、名探偵 明智小五郎、探偵団 団長小林少年、怪人二十面相が大活躍するシリーズだった。
 

 以前に書いた「芋虫」が、戦争末期になってから、戦時時局に反すると発禁にされた。戦闘で四肢を無くし芋虫のようになった兵士の性生活を描いたが、そのエログロ性よりも、「英雄ではない無残な兵士」を描いたからであろう。

 すべての作品が絶版とされ、執筆依頼も無くなった乱歩は、沈黙し、書斎に篭って洋書ミステリーなどを濫読したという。戦後になると、その博識を発揮し、西欧の著名ミステリーの紹介と、日本におけるミステリーの発展に尽力した。

 

 戦後、少年向けの「二十面相シリーズ」は、過去の蓄積から楽しみながら書けたが、本格的な作品はほとんど書かなくなった。たまたま古本屋で見つけた「ぺてん師と空気男」という作品を読んだが、かつての乱歩の才能のきらめきは観られなかった。

 しかし戦後の乱歩の活躍は、「少年探偵団」シリーズなど青少年もので人気を博しただけでなく、日本推理作家協会の初代理事長に就任するとともに、推理小説専門の評論家としても健筆をふるい、日本のミステリー小説界の発展に多大な貢献をした。


(追補)
 昭和30年代半ば、まだあちこちに空き地があり、近隣の子供たちが集まって様々な遊びをした。自分の町内でも、近くの神社境内などでわいわいと遊んだが、我々より数年年長のジャイアンみたいなガキ大将がいて、あれこれ仕切っていた。

 そのジャイアンが突然「少年探偵団つくる!」と言い出した。さからうと殴るので、みんな仕方なしに、自動的に「団員」となった。まさに月刊誌「少年」に、小林少年が活躍する「少年探偵団」が連載されている時期だった。

  すると団長は、会費を徴収すると言い出した。毎月の少ない小遣いから、泣く泣く10円を差し出すことになった。そして団員には呼子笛が配布された。これは、近くの駄菓子屋で5円で売ってるやつだと、みんな知っている。

 団長は、町内を巡回して、事件を発見したらこの呼子笛を吹けという。もちろん平和な町内に事件など無いが、何も報告しないと、また殴る。仕方なしに、「ていへんだ、横町の路地裏にネズミの死体が・・・」などと報告して、その場をしのいだ。

 こうして3月ほどすると、もう飽きたのか、ジャイアン団長は探偵団の話題をしなくなって、少年探偵団は自動消滅した。3か月分の会費として30円を徴収されたはずだが、配布されたのは5円の呼子笛だけだということは、いまでも忘れてはいない。