17【20世紀の記憶 1915(T4)年】

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17【20世紀の記憶 1915(T4)年】(ref.20世紀の全記録)
 

*1.18/日中 日本「対華21ヵ条要求」、袁世凱、主権侵害に怒る。



 日本は、第一次世界大戦中、日英同盟に基づき対独参戦し、ドイツ領の青島(山東省)を占領した。大戦で列強の目がヨーロッパに集中していることと、辛亥革命後の中国の混乱・内部対立に乗じて、中国政府(袁世凱政府)に対し、ドイツの山東省権益の継承を認めさせようとした。これに対して国民党の袁世凱政府は、日本に青島からの撤退を求めたため、日本はその利益の確認のため、「対華21ヵ条要求」を突きつける。


 ドイツが山東省に持つ権益の継承問題が最優先事項であったが、辛亥革命によって成立した袁世凱中華民国政府とは、いまだ正式な外交条約は締約されていなかった。革命以降、孫文に代わって袁世凱が総統に就くなど、安定しない中華民国中央政府とは、日清日露戦争などで成立した過去の日清間の諸条約の継承関係も明確になっておらず、これらの権益関係を確定させることが外交上の懸案でもあった。


 条文は、現在に近く起こった事項から、さかのぼる形で日清戦争時に得た権益にまで、逆時系列に羅列された。そのため、既定事項の確認に過ぎないものまで、多岐にわたる要求を中華民国に突き付けた印象で、如何にも稚拙な外交文書であった。それゆえに要求事項は、ドイツ絡みの山東省関係の権益(これが喫緊の課題)に加えて、南満洲から東部内蒙古の既存権益にまでに及ぶものとなった。

 そのため、ドイツのみか、英・仏・露などの列強にも関心を呼ぶものになったが、ヨーロッパは大戦で手一杯のため、静観を余儀なくされた。袁世凱政府は、虚実を交えて日本の不当な要求を各国に訴え、それに呼応したアメリカは、門戸開放の平等を主張し介入する。袁世凱は交渉の引き伸ばしを図ったが、結局、最初の21ヶ条に修正を加えた16ヶ条を受諾し、「日華条約」として調印する。



 袁世凱の妥協や裏取引は国内で批判を浴び、その支配力は衰えたが、その後の「五・四運動」など、中国での民族意識が高揚する第一歩ともなった。その一方で、「大戦のどさくさにつけ込んで、日本が不当な要求を中国に無理やり押し付けた」という印象を世界に広めることになった。


 その後の1921年アメリカ主導で開催された「ワシントン会議」では、主要議題は日英米を中心とする軍縮であったが(「ワシントン海軍軍縮条約」)、太平洋における列強領土の現状保全を保障した米・英・仏・日による「四カ国条約」の締結と、それに伴っての「日英同盟破棄」、中国の領土の保全・門戸開放を求める「九カ国条約」により、実質上、日本の「21ヵ条要求」が無効化されるなど、アメリカの意向が反映され、西欧列強に代って、アメリカが世界の中心に躍り出る舞台となった。


 とどのつまり「対華21ヵ条要求」は、中国を舞台とした「帝国主義日本」の「稚拙なデビュー」であり、その後の「日中戦争」への伏線を用意した。同時に、太平洋を挟んでアメリカと対峙する端緒となり、太平洋戦争への入り口ともなった。何でこんな「火事場泥棒の悲惨な失敗」みたいなことになったのか、「失敗の研究」が必要とされる。
 

*5.7/南アイルランド沖 英豪華客船「ルシタニア号」、ドイツUボートにより撃沈される。



 第一次世界大戦のさなか、イギリスの豪華客船「ルシタニア号」が、米ニューヨークから大西洋を横断し、英リバプールに向かって航行中、1915年5月7日アイルランド沖で、ドイツの潜水艦Uボートによって無警告で撃沈され、1198人が犠牲となった。ドイツ政府はこの年の2月に、英仏による海上封鎖に対抗して、イギリス周辺海域を「戦争区域」と指定し、区域内を航行する敵側商船は、予告なしに潜水艦が水雷攻撃をおこなうという「無制限潜水艦作戦」を宣言していた。


 ルシタニア号の犠牲者の中には128名のアメリカ人が含まれており、米国国民などから非難の声が大きくなった。イギリスも米に、ドイツに対して宣戦布告するように働きかけたが、モンロー主義で対外的に係わりを避ける政策を維持する米国大統領ウッドロー・ウィルソンは、強硬な抗議をするにとどめ、参戦は思い止まった。



 ドイツも、米や他の中立国などの国際的非難を受けて、無制限潜水艦作戦を一時中止した。しかしその後、陸上戦が膠着し長期化が必至となってくると、戦局を打開するため、1917年2月に無制限潜水艦作戦を再開した。同時期に、ドイツがメキシコを隣国アメリカに宣戦させる、という秘密工作が発覚した「ツィンメルマン電報事件」などもあり、この4月にやっとアメリカの本格参戦が成った。これを契機に、第一次大戦は名実ともに「世界大戦」となり、戦局も最終局面へと転回する。


 ルシタニア号撃沈の非難に対し、軍事目的の武器や弾薬を積んでいたとして、ドイツは攻撃の正当性を主張した。沈没時の大爆発が、積み荷の爆薬のせいだという説もあるが、その後の潜水調査では確たる証拠は得られていない。しかし、のちに英国政府が、船の残骸を爆雷で破壊し尽くそうとしたり、民間の潜水調査を法的に妨害しているという話もある。いずれにせよ、その真相はいまだ不明だと言う。
 

*8.18/日 第一回中等学校野球大会、400人収容の豊中球場で開催。全国からの代表10校出場で、京都二中が優勝する。

 第1回「全国中等学校優勝野球大会」は、朝日新聞社主催で、1915年8月18日から8月23日まで、大阪府豊中グラウンドで開催された。東京都下大会優勝の早稲田実と、全国で予選に参加した73校を勝ち抜いた9地区9校の、計10校の代表で争われた。代表出場校は、秋田中、早稲田実、山田中、京都二中、神戸二中、和歌山中、広島中、鳥取中、高松中、久留米商の10校で、「京都二中(現京都府鳥羽高校)」が第1回大会の優勝校となった。


 初回出場校の名前を見ると、新制高校になってからも強豪校とされ伝統を維持しているところも多い。戦後高校野球では、全国から有能な選手を集められる私立校有利のなかで、多くは新制公立高校となり、相対的不利な状況で頑張っている。初回大会優勝の「京都二中」は、戦後複雑な過程をへたが、京都市南区の東寺近くの旧二中跡に、1984年「京都府鳥羽高校」として復活された。野球部も同時に復活され、京都の公立校には珍しく、2000年以降、春夏の甲子園に数度出場するなど、伝統の復活を印象付けた。



 第1回は、箕面有馬電気軌道(現阪急電鉄)の豊中グラウンドで実施された。「豊中グラウンド(豊中球場)」は当時関西随一の野球場だったが、収容観客数は400人と手狭なため、第3回大会以後、兵庫県西宮市の阪神電鉄所有「鳴尾球場」に移動した。


 その後、1924年第10回大会からは、完成したばかりの「甲子園大運動場(甲子園球場)」で開催されるようになる。この年は、十干十二支の最初の年「甲子の年(きのえねのとし)」とされ、それを記念して「甲子園球場」と命名された。戦中戦後の中断を経て、1948年(第30回大会)は、学制改革により新制高等学校による「全国高等学校野球選手権大会」と名称を変更して実施され、現在に至る。「甲子園」は高校野球の聖地となり、その代名詞ともなっている。
 

〇この年の出来事

*4.22/独 ドイツ軍、西部戦線で「毒ガス」使用。のどをかきむしり、バタバタ窒息死。

*4.26/日 帝劇で芸術座が、ツルゲーネフ作『その前夜』を上演。松井須磨子が、その劇中で「ゴンドラの唄」を歌う。

*10.24/中東 英国はメッカ太守フサインとの間で、「フサイン・マクマホン協定」を結ぶ。

*11.10/日 大正天皇即位の礼京都御所紫宸殿で行われる。