14【20世紀の記憶 1912(M45/T1)年】

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14【20世紀の記憶 1912(M45/T1)年】(ref.20世紀の全記録)
 

*1.1/中国 孫文が南京に入り「中華民国」の成立を宣言。2.12には、清朝最後の皇帝・宣統帝溥儀(7歳)が退位し、清王朝が消滅した。(辛亥革命



 1911年10月「武昌蜂起」に始まった反清朝の暴動が全国に広がり、それが「辛亥革命」(中国暦"辛亥”)に発展した。当時アメリカにいた孫文は、急ぎ中国に帰ると南京に入り、1912年1月1日「中華民国」の成立を宣言し、各地区代表らの選挙により、孫文が臨時大総統となった。

 北洋軍閥を率い実力を誇示する袁世凱は、清国の要職について権益を拡張していたが、辛亥革命が起ると、革命軍に協力して清朝打倒に動いた。決定的な軍事力を持たない孫文らの革命勢力は、宣統帝の退位と引き換えに袁世凱の大総統就任を約束した。ここに清朝最後の皇帝 宣統帝溥儀は退位し、中華民国共和政府に権限が委譲された。


 しかし革命政府は独自で中国全土を統治する力に欠け、袁世凱は北京に首都を移すとともに、独裁的な政権運営を行った。孫文ら革命派は、袁世凱軍閥支配から実権を奪い返すべく、1913年第二革命、1915年第三革命を起こすがいずれも失敗し、袁世凱の病死とともに、中国は軍閥割拠の混乱期となっていく。


 辛亥革命で成立した「中華民国」であるが、当初孫文らが目指した国民主権の国家とは成り得ず、真に近代的な国民国家ともなることができなかった。内政では軍閥の抗争が続き、外部からは帝国主義列強の支配に脅かされ、社会には封建社会の残滓が継続し続けた。


 第一次世界大戦後の中国ナショナリズムの高揚をうけて、孫文は「中国国民党」を結成、さらに新興勢力の中国共産党との間で国共合作を成立させるなど、1924年からは「国民革命」を唱えたが、及ばず1925年死去する。「革命尚未成功、同志仍須努力 (革命なお未だ成功せず、同志よって須く努力すべし)」との遺言を残したが、後継者争いが錯綜し国民党の勢力は衰えた。やがて孫文の後継の地位を受けた蒋介石が、北伐を為し遂げ北京政府を奪回した時には、孫文の理想は消え失せており、蒋介石国民党は、もはや軍閥の一つと変わりなくなっていた。



 孫文は少年時にハワイに渡り、香港・マカオなど西欧列強の支配地で医師となった。日清戦争終了時には、武装蜂起を企てるも頓挫し、日本に亡命する。さらにアメリカ経由イギリスに渡り、主として海外で革命活動をすることになる。武昌蜂起が起きて、辛亥革命が始まった時もアメリカに滞在中で、急遽中国に帰って中華民国の設立にこぎつけた。

 孫文にとって、辛亥革命は二つの意味を持っていた。清朝満州族征服王朝であり、本来の漢民族がその支配を奪回するという「ナショナリズム」がその一面であり、もう一つは、独裁的な皇帝と封建制的な官僚支配から、近代的国民国家を樹立する「国民革命」という側面であった。清朝打倒には成功したが、真の国民国家には時期が成熟していなかったということか。


 孫文の思想と人格は革命各派に支持され臨時大総統となるも、中国国内に実質的な基盤を持てなかったため、軍事力と地盤をもつ袁世凱など軍閥と妥協するしかなかった。つまるところ孫文は、レーニンのような「革命家」ではなく、スターリンのような「独裁政治家」にも成り得なかった。戦後、中国共産党を率いて「中華人民共和国」を成立させた毛沢東が、それを実現させることになる。

 なお、清朝最後の皇帝 宣統帝溥儀の生涯は、映画『ラストエンペラー』で描かれた。
 

*4.14/英国 豪華客船タイタニック号、死の処女航海。ニューファンドランド沖で氷山に激突、1513人が犠牲に。



 就航当時、不沈客船と言われたタイタニック号は、1912年4月10日、英サウサンプトンから米ニューヨークに向け、2224人の乗客・乗員を乗せて処女航海に出航した。当時も今も、北大西洋航路は世界最大の花形航路、イギリスのホワイト・スターライン社は、大きさも豪華さも世界最高峰のタイタニックを投入して、大西洋航路の女王となる筈であった。

 しかし、5日目の4月14日、北米大陸ニューファンドランドの沖合を航行中に氷山に接触し、事故が起きてから2時間40分後の翌4月15日の2時20分に沈没し、1,500人以上が亡くなった。これは1912年当時、最大死者数で最大の海難事故となった。


 タイタニック号は1,000人以上の乗客とクルーを乗せたまま沈み、氷点下の海に落ちたり飛び込んだりした人のほとんどが、数分後に低体温症により溺死したとされる。この災害は、救命ボートの不足、規則の緩さ、旅客等級による避難時の扱いの不平等さについて、事件後、多く批判を浴びた。



 タイタニックは、イギリスのホワイト・スター・ライン社が、ドル箱であった北大西洋航路用に3隻の同型豪華客船として計画され、第1番の「オリンピック号」に次ぐ2番目の姉妹船として就航した。トーマス・アンドリューズ設計で完成されたが、彼自身はタイタニックの処女航海に同乗し、沈没時に運命を共にすることになる。

 最新の科学技術の粋を集めた新鋭豪華客船の大事故は、近代科学技術文明の進歩に楽観的だった当時の欧米社会に大きな衝撃を与えた。世界的な流れでも、帝国主義列強による植民地争奪戦に加えて、植民地での民族自立というナショナリズムの勃興期でもあり、それは第一次、第二次大戦を通じて、近代から現代への転換の時期に差し掛かっていた。その意味で、タイタニックの悲劇は、近代への疑問を象徴するようなパラダイム変換を示す事故でもあった。


 2000人もが乗った船が2時間余りで沈没するという事故は、その中で起きるパニックと、それに直面した人間模様を絵描くには好適な対象であったため、その後、何度も映画やドラマやドキュメンタリーとして取上げられた。近年では、『タイタニック"Titanic"』(ジェームズ・キャメロン/米1997)が大ヒットした。

 これは、ドーソン(レオナルド・ディカプリオ)とローズ(ケイト・ウィンスレット)のラブロマンスが、タイタニック沈没のスぺクタクル・パニックを背景に描かれる。二人の世界は、ロミオとジュリエットの悲恋が下敷きにあるので、視聴者には無意識に受け容れられ、ヒットにつながったと思われる。 http://movie.walkerplus.com/mv29986/
 

*7.30/日本 明治天皇崩御元号は「大正」と定められる。
 


 この日午前1時過ぎ、宮内庁より明治天皇崩御が発表された。「明治45年(1912)7月30日午前0時43分 心臓麻痺により崩御遊ばさる、誠に恐懼の至りに堪えず」として、ここに明治時代の終わりが告げられた。実際の天皇崩御の時間は、29日午後11時前であったが、2時間遅らせて発表し、その発表直前に「践祚の儀」が執り行われ、皇太子嘉仁(32歳)が新天皇大正天皇)となった。

 明治天皇は、嘉永5年9月22日(1852年11月3日)、孝明天皇の第二皇子として生まれ、祐宮(さちのみや)と命名される。1867年1月孝明天皇崩御し、2月13日満14歳で践祚皇位につく。1868年10月12日、京都御所にて即位の礼を執り行い即位を内外に宣下した。


 この間、1868年4月、五箇条の御誓文を発布して新政府の基本方針を表明し、慶応4年1月1日(1868年1月25日)に遡って明治と改元一世一元の制を定めた。戊辰戦争から江戸開城と目まぐるしく状況が変遷する中、一段落すると明治天皇は江戸に行幸し、江戸を東京に改称して東京奠都する。京都人は「行幸」なのだから、いずれ「還幸」されるとして疑わなかったとか。


 戊辰戦争の動乱の中、弱冠15歳で即位したのであるから、明治の治世で、どこまで明治天皇の意志が反映されたかは分からないが、薩長中心の藩閥政治の下で、天皇はしばしば詔勅を発し、政府や議会の調整を図ったのは間違いない。また、日清日露の戦役では、自ら大本営に立ち直接戦争指導に当たったとされる。


 その実質的な役割は曖昧ながら、「明治大帝 "Meiji the Great"」とも呼ばれる天皇像を行き渡らせたところには、明治天皇の「御真影」と呼ばれる肖像写真の寄与するところが大きい。近代国民国家体制確立に向けて,ほとんど天皇を見ることのない国民に対して、天皇をどう「可視化」するかは重要な問題であった。


 理想の近代国家元首の肖像をつくりあげるために、どのような方法がとられたのか。その神格化の過程は、多木浩二著『天皇の肖像』に如実に展開されている。今日、明治天皇の肖像として描くイメージは、「御真影」から来るものが圧倒的であろう。
http://atlantic.gssc.nihon-u.ac.jp/~e-magazine/026/book1.html 

 この御真影の元は決して写真ではなく、西郷隆盛肖像画でも有名な、お雇い画家キヨッソーネが描き、それを写真に撮ったものが、各学校などに下賜され定着してゆく。明治天皇の写真はいくつかあり、それらと比較しても「御真影」の浸透効果は徹底していたのが分かる。



 1957年(昭和32年)公開の映画『明治天皇と日露大戦争』では、鞍馬天狗のアラカンこと嵐寛寿郎天皇を演じたが、そのイメージは明かに御真影像を踏襲しているといえる。また、明治天皇崩御に臨んで、乃木希典将軍が殉死し、それに触発され夏目漱石は『こころ』を書き、森鴎外は『興津弥五右衛門の遺書』を書いた。まさに明治天皇崩御は、時代を画期する出来事でもあった。
 

〇この年の出来事

*1.17/南極 英国スコット隊、南極点に到達するも、帰路に遭難。アムンゼン隊に先を越され、失意のうちの悲劇となった。

*3.1/日本 憲法学者美濃部達吉が『憲法講話』で、「天皇機関説」を発表。天皇機関説論争が始まる。

*6.29/スウェーデン 第5回オリンピック・ストックホルム大会開催、日本は初出場。

*7.3/日本 大阪天王寺に新歓楽街「新世界」が完成。当時日本一を誇る高さ75mの「通天閣」がシンボルに。