13【20世紀の記憶 1911(M44)年】

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13【20世紀の記憶 1911(M44)年】(ref.20世紀の全記録)
 

*1.-/日本 鈴木梅太郎脚気の原因はビタミン不足と主張。
 

 今日、脚気(かっけ)といえば、ほぼ忘れられた病気となっているが、この時期、多くの死亡者を出す原因不明の重大な病気であった。江戸時代に江戸で白米を食べることが流行し、脚気の症状が多発した。その為、脚気のことを「江戸患い」などとも呼ばれたという。

 鈴木梅太郎は、東京帝国大学農科大学教授として、脚気病調査会で米糠の成分を研究する部門を担当、米糠と玄米と麦とには脚気を予防して快復させる成分があることに気付いた。鈴木は、糠の有効成分を濃縮して樹脂状の塊(粗製オリザニン)を得たが、その純度不足のため効果が明示的でなかった。


 その時点で鈴木は、後の「ビタミン」の概念をはっきり提示していたが、当時の学界の混乱により世界から注目されず、ビタミンという用語も、鈴木より後に米ぬかの効能を研究したカシミール・フンクによって為された。その8年後の1919年、ようやく京都帝大の島薗順次郎がオリザニンを使った脚気治療報告を行い、脚気がビタミン(B1)の欠乏症であることが立証された。
 


 この時期、脚気は一般人にとっても難病であったが、帝国の陸海軍でも重大な病気として認識されていた。心臓脚気として死に至る前に、下肢がしびれ萎えるというのは、兵士として役に立たなくなることである。海軍では、経験的に白米食が原因と気付きつつあったが、陸軍ではその対応がかなり遅れることになった。

 その一因として、陸軍軍医総監として軍医トップであった森林太郎鴎外が名指されることがある。当時の脚気は、病原菌説と栄養素不足説とに二分されていた。最先端のドイツ医学を学んだ鴎外は、病因の因果関係を重視するドイツ医学に沿って主流だった病原菌説を採り、経験的に脚気に効果があるとされた麦飯食を軽視した。


 鴎外は「日本兵食論大意」で、「米食脚気の関係有無は余敢て説かず」と書いている。つまり、兵食の栄養学的研究を行っていた鴎外にとって、原因の究明は自分専門外であるので、既存の説に従ったまでだということらしい。しかも、日本国内の麦の生産量が少なく自給できていなかったので、外国を敵に回す兵士の食は、国内で自給できる食物で賄うべきだという考えにも、それなりに妥当性があった。

 とはいえ、日露戦争時、陸軍で約25万人の脚気患者が発生、約2万7千人が死亡する事態となり、陸戦での苦戦の要因になったことは否定できない。鴎外は、乃木大将に頭が上がらないわけである。明治帝に乃木希典が殉死したとき、鴎外は「興津弥五右衛門の遺書」で、殉死の名誉を描いた。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/45209_30640.html
 

*10.30/ベルギー アインシュタインなど世紀を代表する科学者を集めて、ブリュッセルにおいて第1回「ソルベー会議」、開催さる。
 
 

 化学工業に欠かせない炭酸ナトリウムを、工業的に量産するソルベー法を開発し、ベルギーの化学者エルネスト・ソルベーは膨大な収入を得た。ソルベーは、ドイツの物理化学者ヴァルター・ネルンストの提案を得て、物理学の基礎理論を議論する国際会議を開催することになった。


 第1回ソルベー会議は、ベルギーのブリュッセルで開かれ、世界の錚々たる最先端物理学者たちが集まった。ざっと名前を挙げるだけでも、写真中央のM.キュリーを囲むように、E.ラザフォード、M.プランク、H.A.ローレンツ、H.ポアンカレ、M.ド・ブロイ、そして右から2人目には、すでに特殊相対性理論や光量子仮説を発表した若きA.アインシュタインなどが見られる。


 最先端の学者たちの議論は、出席しなかった世界中の若き学者たちをも刺激し、20世紀の物理化学の発展を促進した。図では第12回までの会議テーマを示したが、第1回の「放射(輻射)理論と量子」をはじめ、ざっと眺めるだけでも20世紀の物理化学をリードした会議だと想像できる。

 ソルベー会議は数年に1回不定期に開かれているが、最も有名な会議は1927年10月に開催された第5回ソルベー会議である。この会議の主題は「電子と光子」であり、世界中の高名な物理学者たちが、始まったばかりの量子力学について熱心に議論を交わした。同年にヴェルナー・ハイゼンベルクによって不確定性原理が導かれ、量子力学の解釈を巡る激しい議論が繰り広げられたのもこの時期である。

 第5回の参加者写真を名前付きで掲げたが、こちらではアインシュタインが中央を占めている。この時すでに、アインシュタインは「一般相対性理論」を発表し、ノーベル賞も受賞して、世界に認められた存在となっていた。なんと、写真の29名中17名がノーベル賞受賞者が占める。「一般相対性理論」と「不確定性原理」は、まさに我々一般人の世界観をも変換せしめるものであった。

 なお、戦後日本で最初のノーベル物理学賞受賞者となった湯川秀樹も、戦前の第7回ソルベー会議に招かれ、アインシュタインオッペンハイマーらと親交を持った。彼らの理解が、湯川理論の認知を広めることになり、のちのノーベル賞受賞にもつながったと言える。
 

*12.14/南極 ノルウェーアムンゼン隊、南極点に一番乗り。無念のスコット隊。(1912.1.7)
 


 1911年12月14日、ロアルド・アムンゼン率いるノルウェー探検隊によって、初の南極点到達が達成された。アムンゼン1903年から5年にかけて、北部大西洋側から太平洋側へアメリカの北を回って航海する「北西航路」の、初の横断航海に成功していた。北西航路は当時、欧亜間の最短航路となると期待された航路であった。

 さらにアムンゼンは、北極点到達を目指したが、1909年アメリカのピアリーが最初の到達に成功したため、密かに目標を南極点に変え準備を進めた。ノルウェーを出発すると、出資者や乗組員にも秘密にしたまま南下し、北アフリカ近海のマデイラ諸島まで来て初めて南極を目指すことを通知した。


 アムンゼン隊はロス棚氷の北東部にあるクジラ湾から南極大陸に上陸し、そこにフラムハイム基地を建設した。1911年10月20日アムンゼンは4人の選抜隊とともに、52頭の犬に4台の犬ぞりを引かせてフラムハイムを出発、南極点を目指した。途中好天にも恵まれ順調に隊は進み、12月14日人類初の南極点到達を果たした。帰路も順調に、翌年1月25日に全員無事にフラムハイムへと帰還した。
 

 一方、ロバート・スコット大佐ひきいるイギリス・スコット隊は、アムンゼン隊に先行する1910年6月1日、テラ・ノヴァ号で、第2回目の南極探検に出発した。10月27日ニュージーランドウェリントンに到着し、ここでアムンゼン隊も南極点到達を目指していると知り、世間は南極点一番乗り競争と沸き立った。


 スコット隊は西側のロス島に上陸し基地を建設するが、デポ(前進基地)設営などに手間取り、初動で遅れをとった極地探険の本隊は、馬ゾリで11月1日に出発した。途中の悪天候で食糧が尽きると、ソリを曳く馬も射殺され食べられてしまう。ソリの牽引を馬に頼ったスコット隊は、人みずからの力でソリを曳かねばならなくなり、さらに行程は難航することになった。

 スコットら5名の極点到達メンバーは、1912年1月18日、苦難の末に南極点に到達したが、そこにはすでに、一カ月前に到達したノルウェーの旗が翻っていた。失意のスコット一行の帰路には1500kmの雪原が横たわり、人力のみで重いソリをひく先には猛吹雪が待ち構えていた。1人死に2人がブリザードに消え、やがて3月29日までに全員が死亡したとされる。


 南極点到達を最優先目標としたアムンゼン隊に対し、スコット隊はあくまで科学探検隊だった。半年後、捜索隊によりスコットら遺体が発見されたとき、採集した岩石の標本などが最後のテントまでそれは運ばれていたという。テント内には、死の直前まで書かれた日記、スコット本人の遺書などが残され、最後の時期までの様子が伝えられた。

 中でも特筆すべきは、南極点に先着したアムンゼン隊が残し、後続隊に託した手紙であった。それは、アムンゼン隊が帰途全滅した場合に備え、自分たちの初到達証明書として持ち帰ることを記した書類であった。皮肉にも、スコット隊によって、アムンゼン隊の南極点先着が証明されたのだった。
 

 アムンゼン隊が先着した理由には、その装備面に違いが指摘される。スコット隊は、雪中での行軍に不向きな馬ソリ中心に隊を編成したが、アムンゼン隊は、軽量で敏捷な犬に曳かせる犬ソリを採用したことが大きい。さらに防寒服は、スコット隊がおしゃれだが防湿に適さない牛革を採用したのに対し、アムンゼン隊は防寒防湿性に優れたアザラシ皮を用い極地に適していた。

 ほかにも、極地到達に徹したアムンゼンに対し、スコット隊は学術調査を重視し、余分な時間と経路をそれに割いたことも挙げられる。しかしそれ以上に、天候という運が大きく作用したことも否めない。人智を超えるような探険や冒険の場合、万全な準備をした上でも、運が左右することを示す悲劇でもあった。
 

〇この年の出来事
*2.21/日米 明治政府の悲願、日米新通商航海条約および付属議定書に調印し、関税自主権を回復。
*7.8/米 アメリカのロックフェラー研究所で、野口英世が梅毒スピロヘ−ターの研究で成果。
*10.10/中国 孫文の意を汲む軍人たちが蜂起、辛亥革命、一気に中国全土に飛び火。
*11.1/中朝 鴨緑江に「世界にかける橋」完成。東京-下関-釜山-奉天-シベリア鉄道